第171話 嫌いになれません
■校舎裏。
「私を、嫌いになってください」
真白がそう言ったあと、千瀬はしばらく動かなかった。
風が吹いて、制服のリボンが小さく揺れる。
遠くで部活帰りの生徒の声がした。いつもなら何でもない音のはずなのに、その時だけ妙に遠く感じた。
「……え?」
千瀬は、ようやく声を出した。
「今、何て言いました?」
「私を、嫌いになってください」
真白はもう一度言った。
言葉にするたび、胸の奥が痛んだ。
けれど、言わなければならないと思った。
千瀬は、真白を見つめたまま瞬きをした。
理解できない、という顔だった。
「なんでですか?」
「お願いします」
「理由は?」
「言えません」
「言えないって、何ですか」
「言えません」
「私、何かしましたか」
「いいえ」
「じゃあ、なんでですか」
千瀬が一歩近づく。
真白は、反射的に半歩下がった。
その動きを見て、千瀬の顔が固まった。
「私が、嫌なんですか?」
「違います」
「じゃあ、どうして」
「好きにならないでください」
真白は言った。
言った瞬間、自分の胸の奥がひどく痛んだ。
「私に、近づかないでください」
千瀬の目に、みるみる涙が浮かんだ。
嬉しいことがあると、すぐ笑う子だった。
悲しいことがあると、きっと同じくらいすぐ泣く子だった。
だから、千瀬はもう泣きそうになっていた。
「嫌いになんて、なれないです」
声が震えた。
「さっきまで、普通に話してたじゃないですか」
「……」
「笑ってくれたじゃないですか」
「……」
「真白姉って呼ばれて嬉しいって、言ってくれたじゃないですか」
「……はい」
「だったら、なんで急にそんなこと言うんですか」
千瀬は泣きながら真白を見た。
「嫌いになれって言われて、はいって嫌いになれるなら、最初からこんなに泣いてないです」
真白は、何も言えなかった。
千瀬の涙はまっすぐだった。
怒っている。
悲しんでいる。
それでも、嫌いになれないと言っている。
その全部が、隠されずに目の前にあった。
「私、真白姉のこと好きです」
千瀬は泣きながら言った。
「だから、嫌いになれません」
「……ごめんなさい」
「謝るなら、嫌いになってくださいなんて言わないでください」
「ごめんなさい」
「なんで、謝るだけなんですか」
「ごめんなさい」
それしか言えなかった。
本当の理由は言えない。
言えば、千瀬はもっと混乱する。
そして、真白自身もきっと、もう後戻りできなくなる。
千瀬に好きでいられてはいけない。
呼び方を変えるだけでは意味がない。
距離を取るだけでも意味がない。
千瀬の中に真白への好意が残っている限り、きっと危険は消えない。
だから、真白は、もう一つ言わなければならなかった。
「それから」
真白は、指先を握りしめた。
「真白姉と呼ぶのも、やめてください」
千瀬の顔から、表情が抜けた。
「……昨日、嬉しいって言いましたよね」
「はい」
「それも、嘘だったんですか」
「嘘ではありません」
「じゃあ、なんで」
「嬉しかったからです」
千瀬の涙が止まった。
止まったのではなく、驚きすぎて一瞬だけ落ちなくなっただけだった。
「嬉しかったから、やめてほしいんですか」
「はい」
「意味、分かんないです」
「はい」
「本当に分かんないです」
「はい」
「真白姉」
「その呼び方も、やめてください」
千瀬の肩が、小さく震えた。
真白は目をそらさなかった。
そらしたら、きっと言えなくなる。
「私を好きでいるのも、やめてください」
それが、一番言いたくない言葉だった。
千瀬は、真白を見た。
泣いていた。
怒っていた。
それでも、まだ何かを信じようとしているような顔だった。
「無理です」
千瀬は言った。
「そんなの、すぐには無理です」
「分かっています」
「分かってるなら、言わないでください」
「言わなければいけません」
「どうしてですか」
「言えません」
「またですか」
「はい」
「また、言えないんですね」
「はい」
千瀬は袖で目元を拭った。
けれど、涙はまたすぐに落ちた。
「私、真白姉に何もしてないです」
「はい」
「困らせたかもしれないけど、悪いことはしてないです」
「はい」
「なのに、嫌いになれって言われて、好きでいるなって言われて、名前も呼ぶなって言われて」
「……はい」
「それで、理由は言えないって」
「はい」
「ずるいです」
「はい」
「ひどいです」
「はい」
真白は、全部受け止めるしかなかった。
千瀬の言う通りだった。
ずるい。
ひどい。
理由も言わずに、相手の気持ちだけを折ろうとしている。
それでも、千瀬が真白を好きでいることの方が怖かった。
千瀬が悪いわけではない。だからこそ、千瀬を巻き込みたくなかった。
「帰ってください」
真白は、声を絞り出した。
千瀬の顔が、さらに歪んだ。
「……本当に、帰った方がいいんですか」
「はい」
「私がいたら、迷惑ですか」
「違います」
「違うなら、なんで」
「お願いします」
千瀬は、しばらく真白を見ていた。
泣いていた。
怒っていた。
それでも、何か言いたそうにしていた。
けれど最後には、制服の袖で涙を拭い、背を向けた。
「嫌いには、なれませんから」
それだけ言って、千瀬は校舎裏を出ていった。
残された真白は、しばらく動けなかった。
これでいい。
これでいいはずだ。
そう思おうとした。
けれど、千瀬の泣き声だけが、いつまでも耳から離れなかった。
■その夜。
前田千瀬は、泣き疲れていた。
家に帰ってから、何度も千夜に話そうとした。けれど、言葉にしようとするとまた涙が出た。
千夜は急かさなかった。ただ、隣に座って、時々「うん」とだけ返した。
「真白姉に」
千瀬は、膝を抱えたまま言った。
「嫌いになってくださいって言われた」
「うん」
「真白姉って呼ぶのも、やめてくださいって」
「うん」
「好きでいるのも、やめてくださいって」
言いながら、また涙がこぼれた。
「無理だよ、そんなの」
「うん」
「昨日まで普通だったのに」
「うん」
「嬉しいって言ってくれたのに」
「うん」
「急に、全部駄目って言われた」
「うん」
千夜は、千瀬の頭にそっと手を置いた。
慰めの言葉は、あまり出さなかった。
何を言っても、今は足りない。
千瀬が傷ついたことだけは、はっきりしていた。
「お姉ちゃん」
「何?」
「朝比奈先輩の番号、知ってる?」
千夜は少しだけ目を細めた。
「知ってるけど」
「電話、かけてもいい?」
「朝比奈に?」
「うん」
「今?」
「うん」
「何を聞くの?」
「分かんない」
千瀬は袖で目元を拭った。
「でも、真白姉がどうしてあんなこと言うのか、朝比奈先輩なら何か知ってるかもしれないから」
「……朝比奈も知らないかもしれないよ」
「それでもいい」
「泣きながら変なこと言わない?」
「変なことは言うかもしれない」
「そこは否定して」
「無理」
千夜は少しだけ息を吐いた。
それでも、携帯を取って、朝比奈恒一の番号を開いた。
「私がかける?」
千瀬は首を横に振った。
「私が聞く」
その声は、まだ震えていた。
けれど、はっきりしていた。
千夜は携帯を渡した。
「スピーカーにはしないでいい」
「うん」
「困ったら代わる」
「うん」
千瀬は携帯を握りしめ、通話ボタンを押した。
数回の呼び出し音のあと、電話がつながった。
『もしもし』
恒一の声だった。
千瀬は一瞬、何も言えなくなった。
『前田?』
「……妹の方です」
『千瀬ちゃんか』
「はい。お姉ちゃんの携帯を借りてます」
『そうか。何かあったのか』
その聞き方が、いつも通り真面目で、千瀬はまた少し泣きそうになった。
「朝比奈先輩」
『ああ』
「真白姉は、どうしてあんなことを言うんですか」
電話の向こうで、少し沈黙があった。
『あんなこと、というのは?』
「嫌いになってくださいって」
『……ああ』
「真白姉って呼ぶのもやめてくださいって」
『……』
「好きでいるのも、やめてくださいって」
言葉にした途端、胸が痛くなった。
「私、嫌われたんですか?」
『分からない』
恒一は、正直に言った。
「分からないんですか」
『分からない。俺も、北条さんが何を抱えているのかは知らない』
「朝比奈先輩も、知らないんですか?」
『ああ』
「真白姉、朝比奈先輩には話してるんじゃないんですか」
『話していないことがある』
千瀬は、息を止めた。
『俺にも、北条さんに言えないと言われていることがある』
「朝比奈先輩にも?」
『ああ』
「……私だけじゃないんですか」
『たぶん、千瀬ちゃんだけじゃないと思う』
その言葉は、ほんの少しだけ胸に落ちた。
自分だけが拒絶されたわけではないのかもしれない。
自分だけが何も教えてもらえないわけではないのかもしれない。
真白姉は、自分だけを遠ざけているのではなく、もっと別の何かを抱えているのかもしれない。
「じゃあ、私が嫌われたからじゃないんですか?」
『俺には、そうは見えない』
「でも、嫌いになってくださいって言われました」
『それは分かる。言われたら傷つくと思う』
「傷つきました」
『うん』
「嫌いになれません」
『それも、すぐ変えられるものじゃないと思う』
「じゃあ、どうしたらいいんですか」
『分からない』
「また分からないんですか」
『分からないことを、分かったふりはできない』
千瀬は、少しだけ黙った。
変な答えだった。
でも、嘘ではない気がした。
『ただ』
恒一は、言葉を選ぶように続けた。
『北条さんは、誰かを嫌って遠ざけているようには見えない』
「じゃあ、どう見えるんですか」
『自分から一人でいようとしているように見える』
「一人で?」
『ああ。誰かと近づくのを怖がっているように見える。俺にはそう見えるだけだけど』
「真白姉が」
『ああ』
「怖がってる」
『たぶん』
千瀬は、膝の上で拳を握った。
真白の顔を思い出す。
笑っていた顔。
困っていた顔。
そして、今日の、苦しそうな顔。嫌われたと思うには、少しだけ引っかかる顔だった。
「朝比奈先輩」
『ああ』
「真白姉には、朝比奈先輩にも言えない秘密があるんですか」
『あるんだと思う』
「それを、いつか話してくれると思いますか」
『分からない。でも、話せない理由があるなら、無理に聞いても話せないんだと思う』
「じゃあ、待つしかないんですか」
『俺は、待つしかないと思っている』
「朝比奈先輩は、それで平気なんですか」
『平気ではない』
千瀬は、少し驚いた。
恒一は淡々と言った。
『でも、言えないと言われたことを、無理に言わせるのは違うと思う』
「……真面目です」
『よく言われる』
「今のは、ちょっと困る真面目さです」
『それも、たまに言われる』
千瀬は、泣きそうな顔のまま、ほんの少しだけ息を吐いた。
笑えたわけではない。
でも、さっきより少しだけ呼吸ができた。
「私、真白姉のこと嫌いになれません」
『うん』
「でも、好きでいるのもやめてくださいって言われました」
『うん』
「無理です」
『すぐには無理だと思う』
「ずっと無理かもしれません」
『それは、俺には決められない』
「そこは、朝比奈先輩らしいです」
『そうなのか』
「たぶん」
千瀬は、携帯を持つ手に力を込めた。
「でも、私だけじゃないなら、少しだけましです」
『まし?』
「真白姉が、私だけ嫌いで、私だけ遠ざけたいわけじゃないなら」
『俺には、そう見えない』
「じゃあ、少しだけましです」
『そうか』
「はい」
千瀬は、目元を拭った。
「ありがとうございます」
『俺は何も答えられていない』
「分からないって答えてくれました」
『それは答えなのか』
「たぶん、今はそれでいいです」
『そうか』
「お姉ちゃんに代わりますか?」
『いや、大丈夫だ。千夜にも、千瀬ちゃんが悪いわけじゃないと思うと伝えてくれ』
「……はい」
『それから』
「はい」
『無理に嫌いになろうとして、自分を責める必要はないと思う』
千瀬は息を止めた。
『ただ、北条さんにも何か理由があるのかもしれない。そこは、本人に聞くしかない』
「……はい」
『俺に言えるのは、それくらいだ』
「十分です」
千瀬は、小さくそう言った。
通話を切ると、千夜が静かにこちらを見ていた。
「どうだった?」
「分からないって言われた」
「うん」
「でも、朝比奈先輩にも、真白姉が言えないことがあるって」
「そう」
「私だけじゃないかもしれないって」
「うん」
千瀬は、携帯を千夜に返した。
「少しだけ、まし」
「うん」
「でも、嫌いになれって言われたのは消えてない」
「うん」
「真白姉って呼ぶなって言われたのも、消えてない」
「うん」
「好きでいるなって言われたのも、消えてない」
「うん」
千瀬は膝を抱えた。
涙はまだ乾いていなかった。けれど、さっきより少しだけ、声が落ち着いていた。
「明日、もう一回聞く」
「うん」
「真白姉が嫌なら、呼ばない。でも、嫌じゃないなら、ちゃんと言ってほしい」
「うん」
「私のこと嫌いじゃないなら、それもちゃんと言ってほしい」
「うん」
「あと」
千瀬は、少しだけ唇を噛んだ。
「嫌いになれないって、もう一回言う」
千夜は、妹の頭にそっと手を置いた。
「うん」
嫌われたわけではないのかもしれない。
その小さな可能性だけが、千瀬の胸に残った。でも、好きでいていいとは、まだ誰にも言われていない。
千瀬はその中途半端な場所に立ったまま、泣き疲れた目を閉じた。
真白姉。
心の中でそう呼ぶことまでは、まだ誰にも止められなかった。




