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恋愛台帳、時代ズレにつき修正不能  作者: サザルト
第3章 真白な頁に名前が灯る編

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第171話 嫌いになれません

 ■校舎裏。


「私を、嫌いになってください」


 真白がそう言ったあと、千瀬はしばらく動かなかった。


 風が吹いて、制服のリボンが小さく揺れる。


 遠くで部活帰りの生徒の声がした。いつもなら何でもない音のはずなのに、その時だけ妙に遠く感じた。


「……え?」

 千瀬は、ようやく声を出した。


「今、何て言いました?」

「私を、嫌いになってください」

 真白はもう一度言った。


 言葉にするたび、胸の奥が痛んだ。

 けれど、言わなければならないと思った。

 千瀬は、真白を見つめたまま瞬きをした。

 理解できない、という顔だった。


「なんでですか?」

「お願いします」


「理由は?」

「言えません」


「言えないって、何ですか」

「言えません」


「私、何かしましたか」

「いいえ」


「じゃあ、なんでですか」


 千瀬が一歩近づく。

 真白は、反射的に半歩下がった。

 その動きを見て、千瀬の顔が固まった。


「私が、嫌なんですか?」

「違います」


「じゃあ、どうして」

「好きにならないでください」

 真白は言った。


 言った瞬間、自分の胸の奥がひどく痛んだ。


「私に、近づかないでください」


 千瀬の目に、みるみる涙が浮かんだ。

 嬉しいことがあると、すぐ笑う子だった。


 悲しいことがあると、きっと同じくらいすぐ泣く子だった。


 だから、千瀬はもう泣きそうになっていた。


「嫌いになんて、なれないです」

 声が震えた。


「さっきまで、普通に話してたじゃないですか」

「……」


「笑ってくれたじゃないですか」

「……」


「真白姉って呼ばれて嬉しいって、言ってくれたじゃないですか」

「……はい」


「だったら、なんで急にそんなこと言うんですか」

 千瀬は泣きながら真白を見た。


「嫌いになれって言われて、はいって嫌いになれるなら、最初からこんなに泣いてないです」


 真白は、何も言えなかった。

 千瀬の涙はまっすぐだった。


 怒っている。

 悲しんでいる。


 それでも、嫌いになれないと言っている。

 その全部が、隠されずに目の前にあった。


「私、真白姉のこと好きです」

 千瀬は泣きながら言った。


「だから、嫌いになれません」

「……ごめんなさい」


「謝るなら、嫌いになってくださいなんて言わないでください」

「ごめんなさい」


「なんで、謝るだけなんですか」

「ごめんなさい」


 それしか言えなかった。

 本当の理由は言えない。

 言えば、千瀬はもっと混乱する。


 そして、真白自身もきっと、もう後戻りできなくなる。


 千瀬に好きでいられてはいけない。

 呼び方を変えるだけでは意味がない。

 距離を取るだけでも意味がない。


 千瀬の中に真白への好意が残っている限り、きっと危険は消えない。


 だから、真白は、もう一つ言わなければならなかった。


「それから」

 真白は、指先を握りしめた。


「真白姉と呼ぶのも、やめてください」

 千瀬の顔から、表情が抜けた。


「……昨日、嬉しいって言いましたよね」

「はい」


「それも、嘘だったんですか」

「嘘ではありません」


「じゃあ、なんで」

「嬉しかったからです」


 千瀬の涙が止まった。

 止まったのではなく、驚きすぎて一瞬だけ落ちなくなっただけだった。


「嬉しかったから、やめてほしいんですか」

「はい」


「意味、分かんないです」

「はい」


「本当に分かんないです」

「はい」


「真白姉」

「その呼び方も、やめてください」


 千瀬の肩が、小さく震えた。

 真白は目をそらさなかった。

 そらしたら、きっと言えなくなる。


「私を好きでいるのも、やめてください」


 それが、一番言いたくない言葉だった。

 千瀬は、真白を見た。


 泣いていた。

 怒っていた。


 それでも、まだ何かを信じようとしているような顔だった。


「無理です」

 千瀬は言った。


「そんなの、すぐには無理です」

「分かっています」

「分かってるなら、言わないでください」


「言わなければいけません」

「どうしてですか」


「言えません」

「またですか」

「はい」


「また、言えないんですね」

「はい」


 千瀬は袖で目元を拭った。

 けれど、涙はまたすぐに落ちた。


「私、真白姉に何もしてないです」

「はい」


「困らせたかもしれないけど、悪いことはしてないです」

「はい」


「なのに、嫌いになれって言われて、好きでいるなって言われて、名前も呼ぶなって言われて」


「……はい」

「それで、理由は言えないって」


「はい」

「ずるいです」


「はい」

「ひどいです」


「はい」

 真白は、全部受け止めるしかなかった。

 千瀬の言う通りだった。


 ずるい。

 ひどい。


 理由も言わずに、相手の気持ちだけを折ろうとしている。


 それでも、千瀬が真白を好きでいることの方が怖かった。


 千瀬が悪いわけではない。だからこそ、千瀬を巻き込みたくなかった。


「帰ってください」

 真白は、声を絞り出した。

 千瀬の顔が、さらに歪んだ。


「……本当に、帰った方がいいんですか」

「はい」


「私がいたら、迷惑ですか」

「違います」


「違うなら、なんで」

「お願いします」


 千瀬は、しばらく真白を見ていた。

 泣いていた。

 怒っていた。


 それでも、何か言いたそうにしていた。

 けれど最後には、制服の袖で涙を拭い、背を向けた。


「嫌いには、なれませんから」

 それだけ言って、千瀬は校舎裏を出ていった。


 残された真白は、しばらく動けなかった。

 これでいい。

 これでいいはずだ。

 そう思おうとした。


 けれど、千瀬の泣き声だけが、いつまでも耳から離れなかった。


 ■その夜。


 前田千瀬は、泣き疲れていた。

 家に帰ってから、何度も千夜に話そうとした。けれど、言葉にしようとするとまた涙が出た。


 千夜は急かさなかった。ただ、隣に座って、時々「うん」とだけ返した。


「真白姉に」

 千瀬は、膝を抱えたまま言った。


「嫌いになってくださいって言われた」

「うん」


「真白姉って呼ぶのも、やめてくださいって」


「うん」


「好きでいるのも、やめてくださいって」

 言いながら、また涙がこぼれた。


「無理だよ、そんなの」

「うん」


「昨日まで普通だったのに」

「うん」


「嬉しいって言ってくれたのに」

「うん」


「急に、全部駄目って言われた」

「うん」


 千夜は、千瀬の頭にそっと手を置いた。

 慰めの言葉は、あまり出さなかった。

 何を言っても、今は足りない。


 千瀬が傷ついたことだけは、はっきりしていた。


「お姉ちゃん」

「何?」


「朝比奈先輩の番号、知ってる?」

 千夜は少しだけ目を細めた。


「知ってるけど」

「電話、かけてもいい?」


「朝比奈に?」

「うん」


「今?」

「うん」


「何を聞くの?」

「分かんない」

 千瀬は袖で目元を拭った。


「でも、真白姉がどうしてあんなこと言うのか、朝比奈先輩なら何か知ってるかもしれないから」


「……朝比奈も知らないかもしれないよ」

「それでもいい」


「泣きながら変なこと言わない?」

「変なことは言うかもしれない」


「そこは否定して」

「無理」

 千夜は少しだけ息を吐いた。


 それでも、携帯を取って、朝比奈恒一の番号を開いた。


「私がかける?」

 千瀬は首を横に振った。


「私が聞く」

 その声は、まだ震えていた。


 けれど、はっきりしていた。

 千夜は携帯を渡した。


「スピーカーにはしないでいい」

「うん」


「困ったら代わる」

「うん」

 千瀬は携帯を握りしめ、通話ボタンを押した。


 数回の呼び出し音のあと、電話がつながった。


『もしもし』

 恒一の声だった。

 千瀬は一瞬、何も言えなくなった。


『前田?』

「……妹の方です」


『千瀬ちゃんか』

「はい。お姉ちゃんの携帯を借りてます」


『そうか。何かあったのか』

 その聞き方が、いつも通り真面目で、千瀬はまた少し泣きそうになった。


「朝比奈先輩」

『ああ』


「真白姉は、どうしてあんなことを言うんですか」


 電話の向こうで、少し沈黙があった。


『あんなこと、というのは?』

「嫌いになってくださいって」

『……ああ』


「真白姉って呼ぶのもやめてくださいって」

『……』


「好きでいるのも、やめてくださいって」

 言葉にした途端、胸が痛くなった。


「私、嫌われたんですか?」

『分からない』

 恒一は、正直に言った。


「分からないんですか」


『分からない。俺も、北条さんが何を抱えているのかは知らない』


「朝比奈先輩も、知らないんですか?」

『ああ』


「真白姉、朝比奈先輩には話してるんじゃないんですか」


『話していないことがある』

 千瀬は、息を止めた。


『俺にも、北条さんに言えないと言われていることがある』


「朝比奈先輩にも?」


『ああ』


「……私だけじゃないんですか」


『たぶん、千瀬ちゃんだけじゃないと思う』


 その言葉は、ほんの少しだけ胸に落ちた。

 自分だけが拒絶されたわけではないのかもしれない。


 自分だけが何も教えてもらえないわけではないのかもしれない。


 真白姉は、自分だけを遠ざけているのではなく、もっと別の何かを抱えているのかもしれない。


「じゃあ、私が嫌われたからじゃないんですか?」


『俺には、そうは見えない』


「でも、嫌いになってくださいって言われました」


『それは分かる。言われたら傷つくと思う』


「傷つきました」


『うん』


「嫌いになれません」


『それも、すぐ変えられるものじゃないと思う』


「じゃあ、どうしたらいいんですか」


『分からない』


「また分からないんですか」


『分からないことを、分かったふりはできない』


 千瀬は、少しだけ黙った。

 変な答えだった。

 でも、嘘ではない気がした。


『ただ』

 恒一は、言葉を選ぶように続けた。


『北条さんは、誰かを嫌って遠ざけているようには見えない』


「じゃあ、どう見えるんですか」


『自分から一人でいようとしているように見える』


「一人で?」


『ああ。誰かと近づくのを怖がっているように見える。俺にはそう見えるだけだけど』


「真白姉が」


『ああ』


「怖がってる」


『たぶん』


 千瀬は、膝の上で拳を握った。

 真白の顔を思い出す。

 笑っていた顔。

 困っていた顔。


 そして、今日の、苦しそうな顔。嫌われたと思うには、少しだけ引っかかる顔だった。


「朝比奈先輩」


『ああ』


「真白姉には、朝比奈先輩にも言えない秘密があるんですか」


『あるんだと思う』


「それを、いつか話してくれると思いますか」


『分からない。でも、話せない理由があるなら、無理に聞いても話せないんだと思う』


「じゃあ、待つしかないんですか」


『俺は、待つしかないと思っている』


「朝比奈先輩は、それで平気なんですか」


『平気ではない』


 千瀬は、少し驚いた。

 恒一は淡々と言った。


『でも、言えないと言われたことを、無理に言わせるのは違うと思う』


「……真面目です」


『よく言われる』


「今のは、ちょっと困る真面目さです」


『それも、たまに言われる』


 千瀬は、泣きそうな顔のまま、ほんの少しだけ息を吐いた。


 笑えたわけではない。

 でも、さっきより少しだけ呼吸ができた。


「私、真白姉のこと嫌いになれません」


『うん』


「でも、好きでいるのもやめてくださいって言われました」


『うん』


「無理です」


『すぐには無理だと思う』


「ずっと無理かもしれません」


『それは、俺には決められない』


「そこは、朝比奈先輩らしいです」


『そうなのか』


「たぶん」

 千瀬は、携帯を持つ手に力を込めた。


「でも、私だけじゃないなら、少しだけましです」


『まし?』


「真白姉が、私だけ嫌いで、私だけ遠ざけたいわけじゃないなら」


『俺には、そう見えない』

「じゃあ、少しだけましです」


『そうか』


「はい」

 千瀬は、目元を拭った。


「ありがとうございます」

『俺は何も答えられていない』


「分からないって答えてくれました」


『それは答えなのか』


「たぶん、今はそれでいいです」


『そうか』


「お姉ちゃんに代わりますか?」


『いや、大丈夫だ。千夜にも、千瀬ちゃんが悪いわけじゃないと思うと伝えてくれ』


「……はい」


『それから』


「はい」


『無理に嫌いになろうとして、自分を責める必要はないと思う』


 千瀬は息を止めた。


『ただ、北条さんにも何か理由があるのかもしれない。そこは、本人に聞くしかない』


「……はい」


『俺に言えるのは、それくらいだ』


「十分です」

 千瀬は、小さくそう言った。


 通話を切ると、千夜が静かにこちらを見ていた。


「どうだった?」

「分からないって言われた」

「うん」


「でも、朝比奈先輩にも、真白姉が言えないことがあるって」


「そう」

「私だけじゃないかもしれないって」


「うん」

 千瀬は、携帯を千夜に返した。


「少しだけ、まし」

「うん」


「でも、嫌いになれって言われたのは消えてない」

「うん」


「真白姉って呼ぶなって言われたのも、消えてない」

「うん」


「好きでいるなって言われたのも、消えてない」


「うん」

 千瀬は膝を抱えた。


 涙はまだ乾いていなかった。けれど、さっきより少しだけ、声が落ち着いていた。


「明日、もう一回聞く」

「うん」


「真白姉が嫌なら、呼ばない。でも、嫌じゃないなら、ちゃんと言ってほしい」


「うん」


「私のこと嫌いじゃないなら、それもちゃんと言ってほしい」


「うん」


「あと」

 千瀬は、少しだけ唇を噛んだ。


「嫌いになれないって、もう一回言う」

 千夜は、妹の頭にそっと手を置いた。


「うん」

 嫌われたわけではないのかもしれない。


 その小さな可能性だけが、千瀬の胸に残った。でも、好きでいていいとは、まだ誰にも言われていない。


 千瀬はその中途半端な場所に立ったまま、泣き疲れた目を閉じた。


 真白姉。


 心の中でそう呼ぶことまでは、まだ誰にも止められなかった。

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