第170話 嫌いになってください
■放課後、料理部。
その日の料理部には、焼き菓子の甘い匂いが残っていた。
調理台の上には、使い終えたボウルと泡立て器が置かれている。
網の上には、小さな焼き菓子がいくつも並び、まだ少しだけ湯気を残していた。
体育祭が近いから、差し入れにできそうなものを試作してみよう。
そういう話から始まった活動だった。
実際に差し入れとして渡すかどうかは、まだ決まっていない。
けれど、料理部の部員たちはそれぞれ楽しそうに意見を出し合い、焼き菓子の大きさや味を調整していた。
「真白姉、これ見てください」
前田千瀬が、少し形の歪んだ焼き菓子を一つ持ち上げた。
「これ、ちょっとだけ猫っぽくないですか?」
真白は手を止めて、それを見る。
丸いはずの生地が、焼いている途中で少しだけ横へ広がっていた。
片側がわずかに尖り、言われてみれば耳のように見えなくもない。
「……言われてみれば、少し」
「ですよね。猫です。これは猫です」
「猫にしては、少し平たいような気もします」
「そこは個性です」
千瀬は胸を張った。
その言い方があまりにも迷いなくて、真白は小さく瞬きをしたあと、ほんの少しだけ笑った。
千瀬は、それを見逃さなかった。
「今、笑いましたね」
「笑ってはいけませんでしたか?_」
「いえ、いいです。むしろ、もっと笑ってください」
「それは、少し難しいです」
「難しいことに挑戦するのが料理部です」
「料理部は、そういう部活でしたか」
「たぶん違います」
千瀬がすぐに認めたので、真白はまた少しだけ困ったように笑った。
最近の料理部では、こういうやり取りが少しずつ増えていた。
千瀬は真白のそばへ来る。
真白の手元を覗き込む。
真白が「危ないです」と言えば素直に一歩下がる。
けれど、しばらくするとまた近づいてくる。
真白姉、これはどうですか。
真白姉、次は何を作るんですか。
真白姉、今の包丁さばき、すごく綺麗でした。
明るく、遠慮がなく、けれど悪意はない。
真白は最初こそ戸惑っていた。
人からまっすぐ近づかれることには、慣れていない。
それでも、いつの間にか、その声を待っている自分がいることに気づいていた。
真白姉。
そう呼ばれるたびに、胸の奥が少しだけ温かくなる。
それは、いけないことのはずだった。
少なくとも、真白にとっては。
「真白姉」
「はい」
「私、そう呼んでますけど」
「はい」
「本当に嫌じゃないですか?」
唐突に、千瀬がそんなことを聞いた。
真白の手が、わずかに止まる。
千瀬は、真白の顔を覗き込んでいる。
からかっているようでいて、どこか真剣でもあった。
「嫌なら、ちゃんと言ってくださいね」
「……嫌ではありません」
「本当に?」
「はい」
「じゃあ、嬉しいですか?」
千瀬が、さらに身を乗り出す。
真白は少しだけ視線を伏せた。
嬉しい。
その言葉を口にすることは、怖かった。
けれど、嘘をつくこともできなかった。
「……嬉しいです」
小さな声だった。
それでも、千瀬には十分だった。
彼女は一瞬きょとんとして、それからぱあっと笑った。
「今の、覚えておきます」
「覚えなくてもよいことです」
「大事なことなので覚えます」
「大事、ですか」
「はい。私にとっては大事です」
千瀬は、嬉しいことがあるとすぐ顔に出る。
笑う。
明るくなる。
隠そうともしない。
たぶん、悲しいことがあれば、同じくらいすぐ泣くのだろう。
真白は、そう思った。
だから、怖くなった。
この子は、真白の言葉をまっすぐ受け取る。
真白が少し笑えば、嬉しそうに笑う。
真白が「嬉しい」と言えば、こんなにも分かりやすく喜ぶ。
その明るさが、温かかった。
温かいからこそ、怖かった。
「真白姉、次は一口サイズのマフィンとかどうですか?」
千瀬は、すでに次の試作の話をしている。
「体育祭だと、手が汚れにくい方がいいですよね。あと、食べやすいやつ。走る前に重いのは駄目ですし」
「そうですね。あまり甘すぎるものも、向かないかもしれません」
「でも甘くないと寂しいです」
「それは分かります」
「分かってくれました」
「少しだけです」
「少しでも十分です」
千瀬は笑った。
それから、小さな焼き菓子を見つめて、少しだけ声を落とす。
「朝比奈先輩にも、こういうの渡せるんですかね」
真白の手が、わずかに止まった。
ほんの一瞬だった。
けれど、千瀬はそれに気づいた。
「あれ」
「何でしょうか?」
「今、止まりましたね」
「止まっていません」
「止まりました」
「気のせいです」
「気のせいにするには、ちょっと分かりやすかったです」
千瀬は、じっと真白を見る。
真白は、表情を整えた。
「朝比奈さんに渡すかどうかは、前田さんが決めることだと思います」
「真白姉は、渡したいですか?」
「私は」
言いかけて、言葉が止まる。
渡したいか。
それは、どの意味で。
料理部の一員として。
転校してきた同級生として。
それとも、神様に言われた運命の相手に近づくために。
自分でも、すぐには答えられなかった。
「……まだ、分かりません」
「分からないんですか?」
「はい」
「真白姉でも、分からないことあるんですね」
「あります」
「ちょっと安心しました」
「安心するところでしょうか」
「はい。真白姉、何でも分かってそうなので」
「そんなことはありません」
真白は静かに首を振った。
本当に、そんなことはない。
分からないことばかりだった。
自分の気持ちも。
朝比奈恒一との距離も。
千瀬への接し方も。
そして、自分がどこまで踏み込んでいいのかも。
「真白姉」
千瀬が、もう一度呼んだ。
その声が、まっすぐ胸に届く。
「もし作るなら、一緒に考えましょうね」
「……一緒に、ですか」
「はい。真白姉、味の調整上手そうですし。私、勢いで作りがちなので」
「それは、少し分かります」
「今、少し失礼でした」
「申し訳ありません」
「でも当たってます」
千瀬は笑った。
真白は、その笑顔を見てしまった。
見てしまった、と思った。
見なければよかったわけではない。
けれど、見れば見るほど、心が近づいてしまう。
真白姉。
その呼び方が嬉しい。
一緒に考えましょうね。
その言葉が温かい。
だからこそ、怖い。
千瀬は何も悪くない。
何も知らない。
ただ、明るく近づいてくれているだけだ。
その好意に、真白が救われそうになっている。
それが、一番危なかった。
やがて、活動時間が終わった。
部員たちは器具を洗い、台を拭き、余った試作品を小さな袋に分けていく。
千瀬は最後まで楽しそうだった。
少し焦げたものを見つけては「これは味見用です」と言い、形のいいものを選んでは「これは誰かに渡せるやつです」と分けている。
そのたびに、真白の方を見る。
真白姉、これでいいですか。
真白姉、袋はこっちですか。
真白姉、リボン曲がってませんか。
真白は、その一つ一つに答えた。
答えるたびに、千瀬は嬉しそうに笑った。
その笑顔が、真白の中に少しずつ積もっていく。
温かく。
柔らかく。
逃げ場をなくすように。
片づけが終わり、部員たちが少しずつ料理室を出ていく。
千瀬も鞄を持とうとした。
その背中に、真白は声をかけた。
「前田さん」
「はい」
千瀬が振り返る。
その顔には、何の警戒もなかった。
「少し、お話ししてもよろしいでしょうか」
「いいですよ」
千瀬はすぐに頷いた。
「もしかして、真白姉って呼んでる件ですか?」
「……違います」
「違いましたか」
千瀬は首を傾げる。
「じゃあ、真面目な話ですね」
「はい」
真白は頷いた。
千瀬は少しだけ不思議そうな顔をしたが、それでも笑った。
「分かりました。行きます」
その笑顔を見るのが、真白には辛かった。
■校舎裏。
人の少ない場所だった。
部活帰りの声は遠く、校舎の影が長く伸びている。
風が吹くと、千瀬の制服のリボンが小さく揺れた。
「それで、話ってなんですか?」
千瀬はいつも通りに聞いた。
いつも通りに、少し近い距離で。
真白は、その距離を見た。
近い。
けれど、嫌ではなかった。
むしろ、嬉しかった。
それが、怖かった。
「前田さん」
「はい」
「私を」
真白は、言葉を一度止めた。
言いたくない。
本当は、言いたくない。
けれど、このままでは、もっと近づいてしまう。
千瀬が悪いわけではない。
千瀬はただ、明るく、素直に、真白を慕ってくれているだけだ。
その好意に、真白がすがりそうになっている。
だから、今のうちに離さなければならない。
真白は、自分の指先を握った。
千瀬が、不安そうに瞬きをする。
「真白姉?」
その呼び方が、胸に痛かった。
真白は顔を上げた。
そして、静かに言った。
「私を、嫌いになってください」




