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恋愛台帳、時代ズレにつき修正不能  作者: サザルト
第3章 真白な頁に名前が灯る編

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第170話 嫌いになってください

 ■放課後、料理部。


 その日の料理部には、焼き菓子の甘い匂いが残っていた。


 調理台の上には、使い終えたボウルと泡立て器が置かれている。

 網の上には、小さな焼き菓子がいくつも並び、まだ少しだけ湯気を残していた。


 体育祭が近いから、差し入れにできそうなものを試作してみよう。

 そういう話から始まった活動だった。

 実際に差し入れとして渡すかどうかは、まだ決まっていない。


 けれど、料理部の部員たちはそれぞれ楽しそうに意見を出し合い、焼き菓子の大きさや味を調整していた。


「真白姉、これ見てください」

 前田千瀬が、少し形の歪んだ焼き菓子を一つ持ち上げた。


「これ、ちょっとだけ猫っぽくないですか?」


 真白は手を止めて、それを見る。

 丸いはずの生地が、焼いている途中で少しだけ横へ広がっていた。

 片側がわずかに尖り、言われてみれば耳のように見えなくもない。


「……言われてみれば、少し」


「ですよね。猫です。これは猫です」

「猫にしては、少し平たいような気もします」


「そこは個性です」


 千瀬は胸を張った。

 その言い方があまりにも迷いなくて、真白は小さく瞬きをしたあと、ほんの少しだけ笑った。

 千瀬は、それを見逃さなかった。


「今、笑いましたね」


「笑ってはいけませんでしたか?_」


「いえ、いいです。むしろ、もっと笑ってください」


「それは、少し難しいです」


「難しいことに挑戦するのが料理部です」


「料理部は、そういう部活でしたか」


「たぶん違います」


 千瀬がすぐに認めたので、真白はまた少しだけ困ったように笑った。

 最近の料理部では、こういうやり取りが少しずつ増えていた。


 千瀬は真白のそばへ来る。

 真白の手元を覗き込む。


 真白が「危ないです」と言えば素直に一歩下がる。

 けれど、しばらくするとまた近づいてくる。


 真白姉、これはどうですか。

 真白姉、次は何を作るんですか。

 真白姉、今の包丁さばき、すごく綺麗でした。


 明るく、遠慮がなく、けれど悪意はない。

 真白は最初こそ戸惑っていた。


 人からまっすぐ近づかれることには、慣れていない。

 それでも、いつの間にか、その声を待っている自分がいることに気づいていた。


 真白姉。

 そう呼ばれるたびに、胸の奥が少しだけ温かくなる。

 それは、いけないことのはずだった。

 少なくとも、真白にとっては。


「真白姉」

「はい」


「私、そう呼んでますけど」

「はい」


「本当に嫌じゃないですか?」

 唐突に、千瀬がそんなことを聞いた。


 真白の手が、わずかに止まる。

 千瀬は、真白の顔を覗き込んでいる。

 からかっているようでいて、どこか真剣でもあった。


「嫌なら、ちゃんと言ってくださいね」

「……嫌ではありません」


「本当に?」

「はい」


「じゃあ、嬉しいですか?」


 千瀬が、さらに身を乗り出す。

 真白は少しだけ視線を伏せた。


 嬉しい。

 その言葉を口にすることは、怖かった。

 けれど、嘘をつくこともできなかった。


「……嬉しいです」


 小さな声だった。

 それでも、千瀬には十分だった。

 彼女は一瞬きょとんとして、それからぱあっと笑った。


「今の、覚えておきます」

「覚えなくてもよいことです」


「大事なことなので覚えます」

「大事、ですか」


「はい。私にとっては大事です」


 千瀬は、嬉しいことがあるとすぐ顔に出る。

 笑う。

 明るくなる。

 隠そうともしない。


 たぶん、悲しいことがあれば、同じくらいすぐ泣くのだろう。

 真白は、そう思った。


 だから、怖くなった。

 この子は、真白の言葉をまっすぐ受け取る。


 真白が少し笑えば、嬉しそうに笑う。

 真白が「嬉しい」と言えば、こんなにも分かりやすく喜ぶ。


 その明るさが、温かかった。

 温かいからこそ、怖かった。


「真白姉、次は一口サイズのマフィンとかどうですか?」

 千瀬は、すでに次の試作の話をしている。


「体育祭だと、手が汚れにくい方がいいですよね。あと、食べやすいやつ。走る前に重いのは駄目ですし」


「そうですね。あまり甘すぎるものも、向かないかもしれません」

「でも甘くないと寂しいです」


「それは分かります」

「分かってくれました」


「少しだけです」

「少しでも十分です」


 千瀬は笑った。

 それから、小さな焼き菓子を見つめて、少しだけ声を落とす。


「朝比奈先輩にも、こういうの渡せるんですかね」


 真白の手が、わずかに止まった。

 ほんの一瞬だった。

 けれど、千瀬はそれに気づいた。


「あれ」

「何でしょうか?」


「今、止まりましたね」

「止まっていません」


「止まりました」

「気のせいです」


「気のせいにするには、ちょっと分かりやすかったです」


 千瀬は、じっと真白を見る。

 真白は、表情を整えた。


「朝比奈さんに渡すかどうかは、前田さんが決めることだと思います」

「真白姉は、渡したいですか?」


「私は」


 言いかけて、言葉が止まる。

 渡したいか。

 それは、どの意味で。


 料理部の一員として。

 転校してきた同級生として。


 それとも、神様に言われた運命の相手に近づくために。

 自分でも、すぐには答えられなかった。


「……まだ、分かりません」

「分からないんですか?」

「はい」


「真白姉でも、分からないことあるんですね」

「あります」


「ちょっと安心しました」

「安心するところでしょうか」


「はい。真白姉、何でも分かってそうなので」

「そんなことはありません」


 真白は静かに首を振った。

 本当に、そんなことはない。

 分からないことばかりだった。


 自分の気持ちも。

 朝比奈恒一との距離も。

 千瀬への接し方も。


 そして、自分がどこまで踏み込んでいいのかも。


「真白姉」


 千瀬が、もう一度呼んだ。

 その声が、まっすぐ胸に届く。


「もし作るなら、一緒に考えましょうね」

「……一緒に、ですか」


「はい。真白姉、味の調整上手そうですし。私、勢いで作りがちなので」


「それは、少し分かります」

「今、少し失礼でした」

「申し訳ありません」


「でも当たってます」

 千瀬は笑った。


 真白は、その笑顔を見てしまった。


 見てしまった、と思った。

 見なければよかったわけではない。

 けれど、見れば見るほど、心が近づいてしまう。


 真白姉。

 その呼び方が嬉しい。


 一緒に考えましょうね。

 その言葉が温かい。


 だからこそ、怖い。

 千瀬は何も悪くない。

 何も知らない。


 ただ、明るく近づいてくれているだけだ。

 その好意に、真白が救われそうになっている。

 それが、一番危なかった。


 やがて、活動時間が終わった。

 部員たちは器具を洗い、台を拭き、余った試作品を小さな袋に分けていく。

 千瀬は最後まで楽しそうだった。


 少し焦げたものを見つけては「これは味見用です」と言い、形のいいものを選んでは「これは誰かに渡せるやつです」と分けている。


 そのたびに、真白の方を見る。


 真白姉、これでいいですか。

 真白姉、袋はこっちですか。

 真白姉、リボン曲がってませんか。

 真白は、その一つ一つに答えた。


 答えるたびに、千瀬は嬉しそうに笑った。

 その笑顔が、真白の中に少しずつ積もっていく。


 温かく。

 柔らかく。

 逃げ場をなくすように。


 片づけが終わり、部員たちが少しずつ料理室を出ていく。

 千瀬も鞄を持とうとした。

 その背中に、真白は声をかけた。


「前田さん」

「はい」


 千瀬が振り返る。

 その顔には、何の警戒もなかった。


「少し、お話ししてもよろしいでしょうか」

「いいですよ」

 千瀬はすぐに頷いた。


「もしかして、真白姉って呼んでる件ですか?」

「……違います」


「違いましたか」

 千瀬は首を傾げる。


「じゃあ、真面目な話ですね」

「はい」


 真白は頷いた。

 千瀬は少しだけ不思議そうな顔をしたが、それでも笑った。


「分かりました。行きます」


 その笑顔を見るのが、真白には辛かった。


 ■校舎裏。


 人の少ない場所だった。

 部活帰りの声は遠く、校舎の影が長く伸びている。

 風が吹くと、千瀬の制服のリボンが小さく揺れた。


「それで、話ってなんですか?」


 千瀬はいつも通りに聞いた。

 いつも通りに、少し近い距離で。


 真白は、その距離を見た。

 近い。


 けれど、嫌ではなかった。

 むしろ、嬉しかった。

 それが、怖かった。


「前田さん」

「はい」


「私を」


 真白は、言葉を一度止めた。

 言いたくない。


 本当は、言いたくない。

 けれど、このままでは、もっと近づいてしまう。


 千瀬が悪いわけではない。

 千瀬はただ、明るく、素直に、真白を慕ってくれているだけだ。

 その好意に、真白がすがりそうになっている。


 だから、今のうちに離さなければならない。

 真白は、自分の指先を握った。

 千瀬が、不安そうに瞬きをする。


「真白姉?」


 その呼び方が、胸に痛かった。

 真白は顔を上げた。

 そして、静かに言った。


「私を、嫌いになってください」

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