第169話 見ているだけです
■グラウンド
放課後。
体育祭が近づいていた。
校庭の端には白線を引く道具が置かれ、体育委員らしい生徒たちが先生の周りに集まっている。
いつもの部活動に、少しだけ学校行事の空気が混じっていた。
ひよりは準備運動をしながら、グラウンドの向こうをそっと見る。
恒一が、一年生の男子にスタートの姿勢を教えていた。
「前に出ようとしすぎると、最初の一歩が詰まる。速く動こうとしなくていいから、まず地面を押す」
声は大きすぎず、でも聞き取りやすい。
失敗を責めるのではなく、直すところだけを伝えている。
ひよりは体を伸ばしながら、もう一度だけ見た。
見ているだけ。
それくらいなら、迷惑ではない。
「ひより」
「ひゃい」
隣から声をかけられ、変な返事が出た。
同じ一年の部員が目を丸くする。
「大丈夫?」
「だ、大丈夫。ふくらはぎが伸びただけ」
「返事まで伸びてたよ」
「……私もそう思う」
ひよりは慌てて前を向いた。
準備運動は、恒一を見るための運動ではない。
そんな競技は体育祭にもない。
「白石」
今度は正面から声がした。
肩が跳ねる。
「はいっ」
恒一がこちらを見ていた。
「今日、フォーム確認するか?」
「え」
「体育祭前だから、短距離の入りだけ見ておいた方がいい。白石は前に見た時、二歩目が少し遠かったから」
二歩目。
覚えていてくれた。
そのことだけで、胸の奥が少し熱くなる。
「お、お願いします」
「じゃあ軽く流してから、三本だけ見よう」
「はい」
三本も見てもらえる。
そう思ってから、ひよりは慌てて打ち消した。
部活なのだから普通だ。
先輩が後輩を見るのも普通。
変な意味はない。
ただ、心臓だけは少し忙しかった。
一本目。
走り出した瞬間、自分でも分かった。
肩に力が入っている。
恒一に見られていると思っただけで、体が固くなった。
十数メートル走って戻ると、恒一は真剣な顔をしていた。
「白石。肩に力が入ってる」
「はい……」
「見られてると緊張するか?」
「えっ」
あまりにも正確だった。
「す、少し」
「じゃあ、俺を人だと思わなくていい」
「え」
「置物だと思えばいい」
「置物、ですか」
「動く置物」
「それ、置物なんでしょうか」
恒一は少し考えた。
「じゃあ案山子」
「案山子は、走り方を見ないと思います」
「たしかに」
真面目に納得するので、ひよりは思わず笑った。
少しだけ緊張が抜ける。
「次は俺を見なくていい。前だけ見て走れ。足を遠くへ出すより、下に押す。白石は焦らず丁寧にやった方が動きがいい」
「はい」
丁寧にやった方がいい。
ちゃんと見てもらったから出てきた言葉なのだと思うと、それだけで嬉しかった。
二本目は、さっきより自然に走れた。
「今の方がいい。二歩目も流れてない」
「本当ですか」
「ああ。白石は、できてないところを無理に直すより、できてるところを崩さない方が伸びると思う」
できないところだけではなく、できているところも見てくれている。
ひよりは素直にうなずいた。
三本目。
スタート位置につくと、少し離れたところで巴が軽く流しているのが見えた。
無駄のない走り方。
恒一の隣に立っていても自然に見える人。
自分とは違う。
そんな考えが浮かびかけたが、ひよりは前を向いた。
今は走る。
恒一に言われた通りに。
「よし」
合図で走り出す。
地面を押す。
足を急がせない。
肩の力を抜く。
走り終えると、恒一がうなずいた。
「今のが一番いい」
「本当ですか」
「ああ。体育祭なら十分……」
恒一は途中で少し考えた。
「いや、勝ち負けより楽しむ方が大事か。十分楽しめると思う」
ひよりは、ふっと笑った。
「はい」
「朝比奈先輩」
「ん?」
「ありがとうございます」
「まだ礼を言うほどのことはしてない」
「いえ。見てもらえたので」
口にしてから、少し本音が出すぎた気がした。
だが、恒一はいつものように真面目に受け取った。
「部長だからな。それに、白石はちゃんと練習してる。見れば分かる」
ひよりは言葉を失った。
ちゃんと練習している。
見れば分かる。
それだけで、胸がいっぱいになりそうだった。
「白石?」
「だ、大丈夫です。少し、靴紐が」
「ほどけてないぞ」
「心の靴紐です」
言ってから固まった。
何を言っているのだろう。
恒一も少し黙った。
「……締め直せそうか?」
真面目に返された。
「はい。たぶん」
「ならよかった」
よくはない。
だが、恒一が本気で受け止めているので、少しだけ救われた。
休憩に入り、ひよりが木陰で水筒を飲んでいると、横から声がした。
「楽しそうね」
「ひゃっ」
水筒を落としかける。
「い、一ノ瀬先輩」
彩音が立っていた。
「そんなに驚かなくても」
「すみません」
「朝比奈を見てた?」
「み、見てません」
反射的に答えてから、すぐに訂正する。
「……見てました」
「あら、正直」
「部長なので」
「便利な言葉ね、部長」
彩音は楽しそうに笑った。
「変な意味では」
「うん。分かってる」
全部分かっているような顔をされると、余計に困る。
彩音はグラウンドへ目を向けた。
「恒一、体育祭前になると少し張り切るのよね。本人は自覚ないだろうけど」
「そうなんですか」
「誰かがちゃんと走れるようになると、嬉しいのよ」
ちょうど恒一が別の部員に何かを教えていた。
相手がうなずくと、ほんの少し表情が緩む。
「……朝比奈先輩らしいです」
「そうね」
彩音がひよりを見る。
「白石さんも、体育祭楽しめそう?」
「少しだけ」
「いいじゃない」
「朝比奈先輩に、十分楽しめるって言われました」
「恒一らしい言い方」
「はい」
「それで、心の靴紐は締まった?」
ひよりは固まった。
「聞こえてたんですか」
「少しだけ」
「忘れてください」
「面白かったから無理」
「一ノ瀬先輩……」
彩音は笑いながら手を振る。
「大丈夫。恒一はたぶん、本気で心の靴紐を心配してるから」
「それはそれで困ります」
「そこが恒一だから」
ひよりはもう一度グラウンドを見る。
恒一は、また誰かを真面目に見ていた。
近づきたい。
でも、まだ遠い。
それでも、見ているだけで少し頑張れる。
今は、それでいい。
部活が終わる頃。
片づけをしているひよりのところへ、恒一が来た。
「白石」
「はい」
「今日の感じなら、体育祭は大丈夫だと思う。ただ、当日は周りが騒がしいから焦らないように」
「はい」
「心の靴紐も、早めに締めておくといい」
ひよりは一瞬止まった。
本当に覚えていた。
しかも真面目だった。
「……はい。ありがとうございます」
恒一は少し考えてから続けた。
「白石は、見られると緊張するだろ」
「はい」
「でも、ちゃんと走れてる。だから、見られてても大丈夫だと思う」
簡単な言葉だった。
けれど、まっすぐ胸に届いた。
「はい」
今度は、ちゃんと返事ができた。
恒一は別の部員に呼ばれ、そちらへ向かっていく。
ひよりは、その背中を見送った。
今日も、たくさん何かをしたわけではない。
見ていた。
少し走った。
少し話した。
それだけだ。
「心の靴紐……」
小さく呟いて、自分で少し恥ずかしくなる。
ひよりは足元の本物の靴紐を、きゅっと結び直した。
顔を上げる。
グラウンドの向こうで、恒一がまた誰かに呼ばれている。
ひよりは少しだけ笑った。
見ているだけだった自分も、今日はほんの少し前へ進めた気がした。




