第168.5話 真白が戻ってきた朝
■縁の間
どこまでも白く、距離も高さも分からない。
静かな縁の間に、真白は立っていた。
目の前にいるのは、白髪に白ひげの神様。
真白に恒一の存在を教え、白い台帳に記された名前の意味を告げた者だった。
「お久しぶりです、神様」
「うむ。その後、どうじゃ」
真白は少し目を伏せた。
「神様のおっしゃったことは、本当だったようです。母の体調が、少し良くなってきました」
ここ数日、母の状態は特に悪かった。
呼吸は浅く、手も冷たい。
真白は学校を休み、薬や食事の世話をしながら、ずっとそばにいた。
昨夜は、このまま母がいなくなるのではないかと思うほど怖かった。
「本来なら、かなり危うかった」
神様の言葉に、真白は息を止めた。
「……やはり、そうだったのですね」
「じゃが、流れは変わった」
「流れ?」
「お前さんが、あの男とつながった。あの男がお前さんを心配した。その気持ちがお前さんに届いた」
「恒一様が……」
「うむ。あやつ自身は何も分かっておらん。何かをしたつもりもないじゃろう。ただ、お前さんを案じた。それだけじゃ」
神様は少し目を細めた。
「その気持ちが、お前さんの周りにかかっていたものを薄め、母親にも何かしら影響したのかもしれん」
「では、母は……」
「すべてを結びつけるでない」
神様が静かに遮った。
「母親の命を、お前さんの行いだけに背負わせるな。今は、母が踏みとどまった。その事実だけを受け取れ」
「……はい」
「お前さんが全部背負えば、今度はお前さんが壊れる」
真白は胸元に手を添えた。
今朝、母は少し笑っていた。
学校へ行ってきなさい、と言ってくれた。
「神様。ありがとうございます」
「わしだけに礼を言うことではない」
「それでもです。神様が恒一様を教えてくださらなければ、私は会えませんでした」
「礼を言いたいなら、あの男にも言えばよい」
「恒一様に?」
「うむ」
真白は少し迷った。
「ですが、恒一様は何もご存じありません」
「知らぬじゃろうな」
「お礼を申し上げても、困らせてしまうかもしれません」
「もう十分困らせておる」
「……はい」
真白は素直にうなずいた。
「すべてを話す必要はまだない」
「まだ、ですか」
「今のあやつに全部渡しても、受け止めきれんじゃろう。あやつの力のことも、お前さんの周りで起きていることもな」
「はい」
「ただ、感謝したいなら、それは伝えておけ」
「はい」
真白は静かに息を整えた。
「それと……恒一様から、ご連絡をいただきました」
「ほう」
「体調は大丈夫ですか。無理はしないでください、と」
「返したのか?」
「……返せませんでした」
「なぜじゃ」
「嬉しすぎて、何と返せばよいのか分からなくなりました」
神様はひげを撫でた。
「それはそれで面倒な娘じゃのう」
「申し訳ありません」
「謝るところではないわ」
真白は少しだけ微笑んだ。
「恒一様が、私を心配してくださいました。それだけで、少し楽になりました」
「なら、今日はきちんと顔を見せてこい」
「はい。母にも学校へ行くよう言われました」
「無理はするなよ」
「はい」
「それと、母親のことを一人で背負うでない。学校へ行け。人と話せ。心配されることも、受け取ってこい」
真白はしばらく黙ってから、深く頭を下げた。
「行ってまいります」
「うむ」
縁の間が少しずつ薄れていく。
消える直前、神様が言った。
「真白」
「はい」
「戻ることを喜ぶ者がおる。それも、ちゃんと見てくるとよい」
真白は静かにうなずいた。
■朝、朝比奈家
ここ数日、朝比奈家の朝は以前の静けさに戻っていた。
母さんが朝食を作り、父さんが新聞を読み、恒一が食べる。
「今日も真白ちゃん、来ないのかしら」
「分からない」
「昨日、連絡したんでしょう?」
「はい。まだ返事はないけど」
母さんは心配そうだった。
父さんも新聞から顔を上げる。
「もう一度送ってみたらどうだ」
「しつこくないか?」
「心配してるんだろ」
「……まあ」
そう答えた、その時だった。
――ピンポーン。
三人が同時に玄関の方を見る。
母さんが立ち上がり、少しして明るい声が聞こえた。
「あら、真白ちゃん!」
父さんがすぐに新聞を畳んだ。
「真白ちゃんか!」
「父さん、反応が早い」
恒一も玄関へ向かった。
そこに、真白が立っていた。
いつものように黒髪を整え、姿勢もまっすぐだったが、少しだけ顔色が薄い。
「おはようございます、恒一様」
「……おはようございます」
数日ぶりに聞く声だった。
「ご心配をおかけして申し訳ありませんでした」
「大丈夫なんですか?」
「はい。母が少し体調を崩しておりました」
「お母さんが」
「今朝は落ち着いております。ですので、今日から学校へ参ります」
「そうですか」
恒一が言葉を探しているうちに、母さんが真白の手を取った。
「大変だったのね」
「母のそばにいただけですので」
「それが大変なのよ」
「ありがとうございます」
父さんも心配そうに尋ねた。
「真白ちゃん自身は無理してないか?」
「はい。大丈夫です、お父様」
父さんの顔が一瞬で緩んだ。
恒一の背中を、ばしん、と叩く。
「痛い」
「よかったな、恒一」
「父さんが嬉しいだけだろ」
「それもある」
堂々と認めた。
真白はそのやり取りを見て、少しだけ笑った。
「ご心配をおかけしました」
「顔を見られて安心したわ」
「ありがとうございます、お母様」
母さんも嬉しそうだった。
真白は恒一へ向き直る。
「恒一様」
「はい」
「昨夜は、ご連絡ありがとうございました」
「いえ」
「とても嬉しかったです」
真白は少し目を伏せた。
「それと、母の具合が少し良くなりました」
「……それは、よかったです」
「はい」
そして、真白は静かに続けた。
「恒一様のおかげです」
「……俺の?」
「はい」
「俺は何もしてません」
「それでもです」
冗談を言っているようには聞こえなかった。
「恒一様が私を心配してくださったことも、きっと無関係ではありません」
「……」
何がどうつながっているのか、恒一には分からない。
それでも、真白が本当にほっとした顔をしている。
「……よかったですね」
「はい」
その返事は、今までより少し軽く聞こえた。
朝食後、二人は一緒に学校へ向かった。
真白はいつもより少しゆっくり歩いている。
「北条さん」
「はい」
「本当に大丈夫なんですか?」
「はい。母も落ち着いております」
「無理はしないでください」
「ありがとうございます」
恒一は少し迷ってから聞いた。
「それでも、今日は来たんですね」
「来たかったので」
「学校に?」
「はい。それに」
真白は少し微笑んだ。
「恒一様にお会いしたかったので」
「……」
そこは数日休んでも変わらないらしい。
「料理部や薙刀部の方々にも、ご心配をおかけしました」
「千瀬ちゃんも心配してたみたいですよ」
「……そうですか」
真白の表情が柔らかくなる。
「嬉しいです」
「心配されることが?」
「はい。心配していただけることは、嬉しいことなのだと、最近知りました」
恒一は、その言い方に少しだけ引っかかった。
だが、今は聞かなかった。
登校すると、教室の視線が一斉に真白へ集まった。
「あ、北条さん!」
「大丈夫だった?」
「久しぶり!」
思っていた以上に多くの声が飛ぶ。
真白は一瞬だけ目を丸くしてから、丁寧に頭を下げた。
「ご心配をおかけしました。本日より登校いたします」
「元気ならよかったよ」
「北条さんいないと、なんか教室静かだったし」
「朝比奈も変だったし」
「俺は変じゃない」
恒一が思わず口を挟むと、教室に笑いが起きた。
真白がこちらを見る。
「恒一様も、変だったのですか?」
「違います」
横から基樹が言った。
「いや、落ち着かなかっただろ」
「基樹」
反論しようとして、恒一は黙った。
完全には否定できない。
彩音も笑っている。
「真白さん、みんな心配してたよ」
「……ありがとうございます」
真白は胸元に手を添えた。
誰かに心配されること。
戻ってきたことを喜ばれること。
それを一つずつ確かめているようだった。
やがて真白が自分の席へ向かおうとした時、恒一は呼び止めた。
「北条さん」
「はい」
「戻ってきて、よかったです」
真白の動きが止まった。
黒い瞳が、ほんの少し揺れる。
「……はい」
小さな声だった。
けれど、はっきり嬉しそうだった。
「私も、戻ってこられてよかったです」
真白は胸元に手を添え、静かに微笑んだ。
「恒一様のおかげで」
「だから、俺は何も……」
「それでもです」
そのやり取りを聞いて、教室がまた少しざわつく。
「今の聞いた?」
「恒一様のおかげって」
「朝比奈、何したの?」
「何もしてない」
恒一は頭を抱えたくなった。
だが、今日はやめた。
数日空いていた席に、真白が戻る。
教室には、以前の騒がしさも戻ってきた。
たぶん、また面倒なことは起きる。
それでも。
真白が戻ってきたことを、今日はただよかったと思ってもいい。
恒一には、そう思えた。




