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恋愛台帳、時代ズレにつき修正不能  作者: サザルト
第3章 真白な頁に名前が灯る編

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第168話 真白のいない日

■朝比奈家


 朝。


 目が覚めると、恒一は少しだけ身構えた。


 最近の朝は、玄関のチャイムや台所から聞こえる真白の声が珍しくなくなっていた。


 だから階段を下りながら、今日も真白が母さんと朝食を作っているのではないかと思っていた。


「おはよう」


「おはよう」


 リビングには、父さんと母さんだけがいた。


 食卓に並んでいるのも、母さんが作ったいつもの朝食だった。


「……」


 普通だ。


 いつもの朝に戻っただけなのに、妙に静かに感じる。


「恒一?」


「何でもない」


 恒一が席につくと、母さんが言った。


「真白ちゃん、今日は来ないのかしら」


「知らない」


「連絡ないの?」


「ない」


 父さんが新聞を畳む。


「体調でも悪いのか?」


「分からない」


「連絡してみればいいじゃない」


 母さんに言われ、恒一は少し迷った。


「朝からいきなり聞くのもどうかと思う」


「そういうところよ」


「どういうところだ」


 父さんは腕を組んだ。


「真白ちゃんがいないと寂しいな」


「父さんが?」


「俺は寂しい」


「認めるのか」


「恒一もだろ」


「決めつけないでくれ」


「違うのか?」


 すぐに否定しようとして、ほんの少し言葉が遅れた。


 父さんがにやっとする。


「ほら」


「今のは考えただけだ」


 恒一は味噌汁を飲んだ。


 いつもの味だった。


 それなのに、少しだけ何かが足りないような気がした。


 学校へ行くと、真白の席は空いていた。


 朝のホームルームで担任が告げる。


「北条さんは、今日は家庭の事情で欠席です」


 それだけだった。


「恒一、聞いてないのか?」


 基樹に聞かれ、恒一は首を横に振る。


「聞いてない」


「連絡は?」


「してない」


「なんでそこで連絡しないんだよ」


「家庭の事情って言われたら聞きにくいだろ」


「まあ、それは分かるけど」


 後ろから彩音も口を挟んだ。


「真白さんが休むの、珍しいよね」


「ああ」


「昨日、何か言ってなかった?」


「特には」


 教室でも真白の欠席は話題になっていた。


 婚約者なら恒一は事情を知っているのではないか、と言う者までいる。


 だが、恒一は何も知らなかった。


 真白の家も。


 家族のことも。


 家庭の事情も。


 真白は恒一の家へ来て、朝食を作り、「恒一様」と呼び、どんどん恒一の生活へ入ってきた。


 それなのに、恒一は真白自身のことをほとんど知らない。


 そのことが、妙に引っかかった。


 昼休みになっても、当然ながら真白はいなかった。


「平和だな」


 基樹が言う。


「ああ」


 いつもなら、真白が恒一のところへやってくる。


 今日はそれがない。


 静かで、何も起きない。


「なのに、恒一、落ち着かないんでしょ」


 彩音が言った。


「そんなことは」


「心配なら連絡すれば?」


「家庭の事情だぞ」


「事情を聞かなくても、『体調は大丈夫ですか』くらいなら送れるでしょ」


「……」


 恒一はスマホを取り出した。


 だが、指が止まる。


 何かありましたか。


 大丈夫ですか。


 心配しています。


 どれも、踏み込みすぎるような気がした。


「恒一」


 基樹が呆れたように言う。


「お前、送る文章考えてるだけで午後終わるぞ」


「分かってる」


 結局、その時は送れなかった。


■昼休み、空き教室


「北条、休みだって」


 巴が言うと、千夜は弁当を開けながらうなずいた。


「うん」


「家庭の事情らしい」


「うん」


 巴は少し黙った。


 今日は真白がいない。


 恒一の隣にもいない。


 料理部にも、薙刀部にもいない。


 放課後に迎えに来ることもないだろう。


「……少し、楽」


 巴は小さく言った。


「北条がいないと静かだから」


「うん」


「佐藤も胃を押さえてなかった」


「それはいいこと」


 そこまで言って、巴は視線を落とした。


 言葉にしてみると、自分でも少し嫌な感じがした。


「巴」


「何?」


「北条さんが休んでること、喜んでる?」


「喜んでない」


 すぐに答えた。


 だが、千夜は何も言わずに巴を見る。


「……楽だとは思った」


「うん」


「でも、喜んではいない」


「うん」


 千夜は少し間を置いた。


「朝比奈君は、誰かがいないことを喜ぶような態度、たぶん好きじゃないと思う」


 巴の胸に、その言葉が刺さった。


 分かる。


 恒一はそういう人間だ。


 真白に振り回されていても、真白が困っていること自体を喜ぶようなことはしない。


「……私も、そういうのは嫌」


「うん」


「北条がいないと楽なのは本当。でも、家庭の事情で休んでることを喜ぶのは違う」


「うん」


「それは、朝比奈が嫌いそうだからじゃなくて」


 巴は少しだけ言葉を探した。


「私も、そういう自分は嫌だから」


 千夜が小さくうなずいた。


「それでいいと思う」


「……何があったんだろうね」


「分からない」


「心配ではある」


「うん」


「戻ってきたら、また腹は立つと思うけど」


「それも分かる」


 巴は少しだけ息を吐いた。


「戻ってきたこと自体は、よかったって思いたい」


「うん」


 真白がいないと楽。


 けれど、不在を喜びたいわけではない。


 自分がどんな顔で恒一の隣に立ちたいのか。


 巴にとって、それを考える日になった。


 そして、真白は翌日も学校へ来なかった。


 その次の日も。


 担任から告げられる理由は、同じだった。


「家庭の事情で欠席です」


 数日続くと、最初は噂していた生徒たちも本気で心配し始めた。


 料理部では千瀬が元気をなくし、薙刀部も真白が戻るのを待っているらしい。


 近所でも、最近あの黒髪の子を見ないという話が出ている。


 恒一の家でも同じだった。


「真白ちゃん、今日も来ないのね」


 母さんが寂しそうに言う。


「そうだな」


 父さんもため息をついた。


 真白がいない数日間。


 学校も、陸上部も、道場も、確かに静かだった。


 佐藤はいつもより胃の調子がよさそうで、道場の師匠まで「あのお嬢さんは来んのか」と残念そうにしていた。


 何も起きない。


 平和だった。


 それなのに、恒一自身は思っていたほど落ち着かなかった。


「恒一、本当に連絡してないの?」


 母さんに聞かれ、恒一はうなずいた。


「してない」


「しなさい」


「でも」


「家の事情まで聞かなくてもいいでしょう。心配なら、心配だって伝えればいいの」


 正論だった。


 父さんまで珍しくまともなことを言う。


「何もしないよりはいいだろ」


「……そうだな」


 その夜。


 恒一は布団の中でスマホを握っていた。


 真白の連絡先はある。


 何度か文章を打っては消した。


『何かありましたか』


 踏み込みすぎる気がする。


『学校を休んでいると聞きました』


 知っているに決まっている。


 最後に残ったのは、もっと短い言葉だった。


『北条さん。体調は大丈夫ですか。無理はしないでください』


 送信ボタンの上で指が止まる。


 ふと、神様のことも頭に浮かんだ。


 神様なら、真白に何があったのか知っているかもしれない。


「……会いたくない」


 たぶん聞いても、大事なことは本人に聞けと言われる。


 余計なことだけ増える可能性も高い。


 それなら。


「……これくらいなら」


 恒一は送信した。


 すぐには既読にならなかった。


 スマホを伏せる。


 事情は何も分からないままだ。


 それでも、何もしないままではなくなった。


 真白がいない数日間は、確かに静かだった。


 けれど、その静けさは。


 恒一が思っていたほど、落ち着くものではなかった。


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