第167話 自分のためですから
■商店街
休日。
真白が転校してきてから、二週間ほどが経った。
その間に、真白は朝比奈家へ来ることが当たり前になり、母さんと台所に立ち、父さんにもすっかり気に入られていた。
学校では「婚約者」や「恒一様」という言葉が広まり、薙刀部にも入った。陸上部には入らなかったが、放課後には恒一を迎えに来る。
色々ありすぎたせいか、恒一も真白が隣にいることには少しずつ慣れてきていた。
休日の昼過ぎ。
恒一は真白と商店街を歩いていた。
デートではない。
母さんに頼まれた買い物へ真白が行くことになり、恒一も荷物持ちとしてついてきただけだ。
「このあたりは、休日でも人が多いのですね」
「駅に近いので」
「なるほど」
真白は姿勢よく歩きながら、商店街を静かに眺めている。
その時だった。
「お母さん……」
小さな声が聞こえた。
店の前で、五歳くらいの男の子が涙を浮かべている。
迷子だ。
恒一がそう思った時には、真白はもう動いていた。
「こんにちは」
男の子の前にしゃがみ、視線の高さを合わせる。
「お母様とはぐれてしまいましたか?」
男の子がうなずいた。
「お名前を教えていただけますか」
「……ゆうと」
「ゆうとさんですね。大丈夫です。私たちが一緒に探します」
当然のように恒一も含まれていた。
「はい」
恒一は近くの店員へ事情を伝え、商店街の案内所へ連絡してもらった。
その間も真白は男の子のそばを離れない。
「大丈夫です。お母様も、きっと探しておられます」
しばらくすると、母親らしき女性が慌てて駆けてきた。
男の子が駆け寄り、女性は何度も頭を下げる。
「本当にありがとうございました」
「いえ。見つかってよかったです」
真白は丁寧に一礼した。
それだけではなかった。
買い物を続けている途中、今度は重そうな荷物を持った老人に真白が声をかけた。
「お手伝いしてもよろしいでしょうか」
相手が頷いてから荷物を受け取る。
恒一も残りを持った。
真白は、人を助ける時にも押しつけない。
まず相手に尋ねる。
断れる余地を残す。
そして、終われば必要以上に感謝を求めず離れる。
以前聞いた、近所で評判になっているという話を恒一は思い出した。
なるほど、と少し納得した。
帰り道。
「北条さんは、すごいですね」
恒一が言うと、真白がこちらを見た。
「何がでしょうか」
「困っている人によく気づくので。今日も、最初に動いたのは全部北条さんでした」
「……」
「感心します」
真白は少しだけ目を伏せた。
「そのようなものではありません」
「そうですか?」
「はい」
そして、静かに言った。
「これは、自分のためですから」
恒一はその言葉に引っかかった。
「自分のため?」
「はい」
「人のためにしているように見えますけど」
「そう見えるのであれば、そうなのかもしれません」
真白は少し間を置いた。
「ですが、私にとっては、自分のためでもあります」
それ以上は話さなかった。
恒一も、すぐには聞けなかった。
なぜ、人を助けることが自分のためなのか。
ただ、その時の真白の目が、少しだけ寂しそうに見えた。
その日の夕方。
恒一は基樹、彩音、純也を家に呼んだ。
「あら、珍しいわね。恒一がお友達を呼ぶなんて」
「相談があるんだ」
「真白ちゃんのこと?」
「……たぶん」
母さんはなぜか少し楽しそうだった。
父さんも居間から顔を出す。
「真白ちゃんも来るのか?」
「来ない」
「そうか……」
分かりやすく肩を落とした。
しばらくして三人が揃い、恒一は今日の出来事を話した。
迷子の男の子を助けたこと。
高齢者の荷物を自然に持ったこと。
真白が普段から、困っている人へ迷いなく手を差し伸べること。
「普通にいい人だな」
基樹が言った。
「そうだね。近所で評判になるのも分かる」
彩音もうなずく。
「でも」
恒一は続けた。
「俺が褒めたら、北条さんは『自分のためですから』って言ったんだ」
「自分のため?」
「ああ。しかも、少し寂しそうに見えた」
三人が少し黙った。
「謙遜じゃないの?」
彩音が聞く。
「俺もそう思った。でも、何か違う気がした」
「……北条さんって、そういうところあるよね」
「どういうところ?」
彩音は少し考えた。
「優しいことをしてるのに、自分ではそれを素直に優しさだと思ってない感じ」
恒一は黙った。
「それと」
彩音が続ける。
「誰にでも丁寧だけど、誰とでも親しくなるわけじゃない」
基樹もうなずいた。
「お前には近いけどな」
「そうそう」
彩音が笑う。
「恒一には、距離感が玄関を通り越して台所まで行ってる」
「実際、台所にいるからな」
恒一には否定できなかった。
「でも、それ以外の人とは少し違うと思う」
彩音は言った。
「千瀬ちゃんにはかなり懐かれてるし、薙刀部にも馴染んでる。でも、真白さんの方から深く入っていく感じはあまりしない」
「……」
「親しくなりそうになると、最後のところで少し引いてるように見える時がある」
「恒一以外には?」
「うん」
その言葉が少し重く残った。
「真田さんとは逆だな」
純也が言う。
「真田さんは、人と親しくなるのが下手だけど、今は親しくなろうとしてる」
「質問攻めだけどな」
基樹が疲れた顔をする。
「俺はまだ惚一の件を忘れてない」
「忘れてくれ」
「無理だな」
少しだけ場が和んだ。
「ただ」
純也が腕を組む。
「真白さんのことは、単にそういう性格って可能性もあるだろ」
「そうだね」
彩音もうなずく。
「人との距離を丁寧に取る人ってだけでも説明はできる」
「『自分のため』っていうのも、自分がそうしたいから助けてるって意味ならおかしくない」
「それは分かる」
恒一もそう思う。
それでも、あの寂しそうな目が残っていた。
「気になるなら、何かあるのかもしれないな」
基樹が言う。
「ただ、俺たちも北条さんのことをそこまで知ってるわけじゃない」
「うん」
彩音が少しだけ目を細めた。
「見えてる部分は多いけど、肝心なところはまだ見えない感じ」
「肝心なところ?」
「何を怖がってるのか、とか」
恒一が顔を上げた。
「怖がってるように見える?」
「たまにね」
彩音の声は軽いが、目は真面目だった。
「押しは強いし、何でも平気そうに見える。でも、人に好かれること自体を少し怖がってるように見える時はある」
恒一は、以前真白が千瀬について話していた時のことを思い出した。
嬉しいからこそ怖い。
そう言っていた。
「まあ、本人に聞かないと分からないけどね」
「そうだな」
結局、そこに戻る。
真白本人に聞かなければ分からない。
ただし、聞き方を間違えてはいけない。
「恒一」
基樹が言った。
「聞くなら、問い詰めるみたいにするなよ」
「分かってる」
「本当に?」
「……たぶん」
「たぶんか」
彩音が笑った。
「恒一も真正面から行きすぎる時あるからね」
「難しいな」
「最近ずっとそうでしょ」
「そうだな」
真白のことも。
巴のことも。
人の気持ちは、走るよりずっと難しい。
「でも、気づいたのはいいことだと思う」
彩音が少しだけ声を柔らかくした。
「何でも平気そうに見えるからって、そのままにしない方がいい。ただ、急がないこと」
「急がない」
「うん。真白さん、自分から全部話すタイプじゃなさそうだから」
恒一はうなずいた。
そこへ母さんが追加のお茶を持ってきた。
「みんな、ゆっくりしていってね」
三人が礼を言う。
母さんは恒一を見ると、小さく聞いた。
「真白ちゃんの話?」
「……うん」
「そう」
それ以上は詮索しなかった。
ただ、少しだけ優しい顔をする。
「真白ちゃん、いい子よね」
「うん」
「でも、いい子だから全部平気とは限らないわよ」
そう言って、母さんは台所へ戻った。
恒一は、その言葉をしばらく考えていた。
夜。
三人が帰ったあとも、答えは出なかった。
真白は優しい。
礼儀正しい。
困っている人を助ける。
それでも、自分のためだと言う。
恒一には近いのに、他の人とは最後のところで少し距離を置く。
その理由は、まだ分からない。
「……北条さん」
すぐに答えを求めない方がいい。
今日、彩音たちに言われたことを思い返す。
けれど、何も聞かなければ分からないままだ。
これは、自分のためですから。
あの言葉の意味を、いつか真白自身から聞ければいい。
今はまだ、それくらいでいいのかもしれない。
恒一はそう考えながら、目を閉じた。




