第166話 初めて千夜に相談された話
■巴の部屋
放課後。
巴は、自分の部屋で机に向かっていた。
机の上には、最近持ち歩くようになった小さなメモ帳が開かれている。
もともとは恒一の練習で気づいたことを書き留めるためのものだった。
スタート時の力み。
後半の腕振り。
接地の位置。
だが、最近は少し用途が増えている。
三浦基樹。
一ノ瀬彩音。
三浦純也。
恒一の友人たちについて、分かったことを書き留めるようになったのだ。
基樹は漫画を読む。
彩音は甘いものが好きで、プリンも好き。
そして二人とも、恒一のことをよく見ている。
「……」
巴はメモ帳を眺め、少しだけ口元を緩めた。
最初は失敗した。
急に「親しくなろう」と言って警戒され、質問は尋問のようだと言われた。
それでも、最近は少しずつ話せるようになっている。
基樹からは、一度に一つくらいなら質問していいと言われた。
進歩だ。
かなり大きな進歩だと、巴は思っている。
そして、思っていたより楽しかった。
相手のことを少しずつ知る。
恒一のことだけではなく、基樹や彩音自身について知ることも。
ただし、普通の会話はまだ難しい。
「明日は……」
何を話せばいいのか。
天気と授業はもう使った。
趣味も聞いた。
休日も少し聞いた。
「好きな季節……」
普通の会話っぽい気がする。
巴はメモ帳へ書こうとして、手を止めた。
理由まで聞けば、また尋問になるかもしれない。
「……難しい」
その時、扉が軽く叩かれた。
「巴」
「千夜?」
「開いてる」
扉が開き、千夜が入ってきた。
手には小さな紙袋を持っている。
「どうしたの?」
「少し、話を聞いて」
巴は驚いた。
いつも相談するのは自分の方だ。
千夜から「話を聞いて」と言われることは、ほとんどない。
「いいけど」
巴がメモ帳を閉じようとすると、千夜が机の上を見る。
「明日の質問?」
「……うん」
「そう」
それ以上は何も言わず、千夜は紙袋を机の端へ置いた。
「母が作ったクッキー」
「ありがとう」
千夜は巴の向かいに座った。
少し間を置いてから言う。
「巴」
「何?」
「最近、楽しそう」
巴は目を瞬かせた。
「そう見える?」
「うん」
否定はできなかった。
「三浦と彩音とも、前より話せるようになった」
「うん」
「三浦も、一つなら質問していいって」
「うん」
「これは、親しくなってるということでは?」
千夜は少し考えた。
「少しは」
「少し」
「でも、巴が思っているより、相手はまだ慣れてないと思う」
巴は眉を寄せた。
「かなり気をつけてる」
「うん」
「三浦には一つまでにした」
「うん」
「メモも、なるべく目立たないようにしてる」
「改善はしてるよ」
「なら」
「でも、一度に全部知ろうとしすぎてる」
巴は少し黙った。
千夜は、分かりやすい言葉を探すように続ける。
「稽古で、初心者の悪いところを最初から全部直そうとしたら?」
「嫌になる」
巴はすぐに答えた。
「でも、直さないと変な癖がつく」
「うん」
「だから、一つずつ直す」
「うん」
「今日は足。次は手」
巴は、そこで理解した。
「……そういうこと」
「うん」
「人付き合いも?」
「たぶん」
相手のことを一度に全部知ろうとしない。
今日は一つ。
次はまた別の一つ。
それなら巴にも分かる。
相手の間合いを見ずに踏み込めば、避けられる。
武道と同じだ。
「最初からそう言って」
「ごめん」
千夜は素直に謝った。
巴はすぐメモ帳へ手を伸ばす。
「では、改善点を――」
「巴」
「何?」
「今は書かなくていい」
「……」
「あとで」
「……分かった」
名残惜しかったが、手を離した。
覚えておけばいい。
一度に全部知ろうとしない。
メモはあとで。
質問ではなく、会話。
「でも」
巴は少し不安になった。
「三浦と彩音は、嫌がってる?」
「嫌ってはいないと思う」
「本当?」
「うん。驚いてるだけ」
「……そう」
少し安心した。
「私は、少し仲良くなったと思ってた」
「少しはなってると思うよ」
「ならよかった」
千夜は巴を見る。
「それに、巴が楽しそうなのは悪いことじゃない」
言われると、少し恥ずかしかった。
だが、巴は素直に認めた。
「楽しい」
「うん」
「三浦は困った顔をするけど、答えてくれる。彩音は笑うけど、教えてくれる」
「うん」
「恒一のことも分かるし、二人のことも少しずつ分かる」
だから楽しい。
千夜は、少しだけ柔らかい目をした。
「何?」
「ううん」
「何か言いたそう」
「楽しそうだから、あまり嫌な気分にさせたくなかった」
巴は少し黙った。
それで千夜がここまで言葉を選んでいた理由が分かった。
「千夜」
「うん」
「気を遣った?」
「少し」
「あなたが?」
「うん」
「珍しい」
「そうかも」
巴は少し笑った。
「ありがとう」
「うん」
「気分は悪くなってない。ただ、ちょっと恥ずかしい」
「うん」
「それと、難しい」
「うん」
「でも、分かった」
巴は閉じたメモ帳を見た。
「明日は質問しない」
「極端」
「そう?」
「うん」
巴は少し考え直す。
「じゃあ、一つだけ」
「うん」
「いや。質問じゃなくて、会話にする」
「それがいいと思う」
「明日は三浦に漫画の話をする」
「読んだの?」
「まだ」
「読んでからにすれば」
「そうする」
「うん」
「彩音にはプリンの話をする」
「どうやって?」
「おすすめを聞く」
「それは質問」
「……難しい」
千夜が少し笑った。
巴も肩の力を抜く。
難しい。
だが、少しずつならできそうだった。
友人関係にも間合いがある。
そのことを、ようやく少し理解した気がする。
千夜が立ち上がった。
「じゃあ、帰る」
「もう?」
「うん」
「クッキー、ありがとう」
千夜は扉へ向かい、途中で足を止めた。
「巴」
「何?」
「メモ、全部やめなくてもいいと思う」
「そうなの?」
「うん。あとで、見えないところで書けば」
「分かった」
千夜が部屋を出る。
一人になった巴は、しばらくメモ帳を眺めた。
そして、結局ペンを取る。
ページの端に、小さく書いた。
――メモはあとで。
少し考えて、もう一つ。
――一度に踏み込みすぎない。
書き終えると、巴は少しだけ微笑んだ。
やはり、メモは便利だ。
ただ、使い方には気をつけた方がいいらしい。




