第162話 薙刀部にも観衆は増える
■グラウンド
放課後。
佐藤は、グラウンドの隅で深く息を吐いていた。
まだ練習は始まっていない。
部員たちは靴紐を結んだり、軽く体を動かしたりしている。
いつも通りの陸上部。
平和だ。
そう思った直後だった。
「佐藤さん」
丁寧な声に振り向くと、真白が立っていた。
佐藤の胃が、静かに身構える。
「北条さん」
「少し、お時間をいただいてもよろしいでしょうか」
「はい。何でしょう」
真白は、まっすぐ佐藤を見た。
「私は、陸上部には入部いたしません」
「……」
「恒一様を知りたいという私情で関わろうとしたことを、反省しております」
真白は丁寧に頭を下げた。
「陸上部は、恒一様が部長として皆様と向き合い、ご自身のためにも努力されている場所です。巴さんにとっても大切な場所だと理解いたしました」
「分かりました」
佐藤は、できるだけ平静を装ってうなずいた。
「わざわざ伝えてくれて、ありがとうございます」
本音では、もっと強く礼を言いたかった。
あなたの判断で、胃が救われました、と。
さすがに口には出さなかった。
そこへ巴が歩いてくる。
「北条」
「巴さん。お疲れ様です」
「……お疲れ」
巴は真白を見る。
佐藤は、また胃のあたりにわずかな緊張を感じた。
「北条さんは、陸上部には入らないそうです」
佐藤が先に伝えると、巴の表情がほんの少しだけ緩んだ。
「……そう」
「はい。巴さんにも、改めてお伝えしようと思っておりました」
「理由は?」
「ご迷惑をおかけしたくないからです。陸上部は、巴さんと恒一様にとって大切な場所ですので」
巴は少し黙ったあと、短く答えた。
「……分かった。それなら、いい」
「ありがとうございます」
真白が頭を下げる。
これで陸上部は守られた。
少なくとも佐藤はそう思った。
「薙刀部には入るんでしょ」
巴が言う。
「はい」
「……そう」
「以前より、たしなんでおりますので」
「知ってる」
「また、よろしくお願いいたします」
「……こちらこそ」
佐藤は二人を見ながら思った。
陸上部に入らなくても、何かは起きる。
だが、それはできれば陸上部の外でお願いしたい。
心からそう思った。
その日の薙刀部では、真白が部員たちの視線を集めていた。
入部してまだ数日。
それでも、すでに期待されている。
「北条さん、もう少し見せてもらっていい?」
部長に頼まれ、真白は静かにうなずいた。
「はい。よろしくお願いいたします」
薙刀を手にすると、空気が変わる。
小柄な体が、不思議と小さく見えなくなる。
踏み込みは静かで、薙刀の軌道には迷いがない。
鋭い音が武道場に響いた。
「……やっぱりすごいね」
部長は、隠す気もないほど嬉しそうだった。
「巴がたまに来て、北条さんが毎日来てくれるなら、本当に全国も狙えるかも」
部員たちもざわつく。
「巴さんと北条さんがいるって強すぎない?」
「本当に?」
壁際にいた巴が、少しだけ眉を寄せた。
「私は陸上部」
「分かってるって。でも薙刀にも、たまには来てよ」
「本業がある」
「本業が多いんだよ、巴は」
部長が笑う。
真白も、そんなやり取りを静かに見ていた。
だが、ふと視線が遠くなる。
近くにいた一年生が気づいた。
「北条先輩、大丈夫ですか?」
「はい」
「今、少しぼーっとしてたので」
「少し考えごとをしておりました」
「何か不安なこと?」
真白は少しだけ考えてから答えた。
「恒一様は、今ごろ何をしておられるのかと」
その場が一瞬止まった。
巴は壁際で額に手を当てる。
「……北条」
「はい、巴さん」
「今は薙刀部」
「承知しております」
「なら、集中して」
「はい」
真白は素直にうなずいた。
部員たちの間から、小さな囁きが聞こえる。
「恒一様って、例の朝比奈くん?」
「本当に好きなんだ」
「今のちょっと可愛かった」
部長は苦笑しながら手を叩いた。
「はいはい、練習戻るよ」
真白は再び薙刀を構えた。
動きはやはり綺麗だった。
実力は本物。
ただし、恒一のことになると少しだけずれる。
薙刀部の部員たちは、すぐにそのことも理解した。
数日後。
薙刀部の練習場には、見学者が増えていた。
転校してきた美少女が、薙刀まで強い。
それだけで十分に噂になる。
「あれが北条さん?」
「すごい綺麗」
「本当に強いんだ」
武道場の入口や廊下から、真白の練習を覗く生徒が少しずつ増えていく。
その光景は、巴が走る時にグラウンドへ人が集まるのと、どこか似ていた。
真白自身は、あまり気にしていない。
見られていても動きは乱れず、声をかけられれば丁寧に挨拶する。
ただ、たまに遠くを見る。
「北条さん、また考えごと?」
「はい」
「朝比奈くん?」
「はい」
「即答なんだ」
部員たちは、もう驚かなくなっていた。
むしろ、完璧に見える真白が恒一のことになると少し崩れるのを、親しみやすく感じ始めていた。
部長も苦笑する。
「北条さん効果で見学者増えたね」
「ご迷惑でしょうか」
「全然。部員も増えるかもしれないし。ただ、練習中に朝比奈くんのこと考えすぎないようにね」
「努力します」
「努力なんだ」
そして練習が終わると、真白は丁寧に片づけをして部員たちへ挨拶した。
「本日もありがとうございました」
「お疲れ様、北条さん」
「また明日ね」
「はい」
そこまでは完璧だった。
挨拶を終えると、真白は鞄を持ち、迷わず武道場を出る。
向かう先はグラウンドだった。
陸上部の練習が終わる頃を見計らって、恒一を迎えに行くためだ。
最初は部員たちも驚いていた。
だが、数日もすると日課として受け入れられた。
「北条さん、今日も朝比奈くん迎えに行くの?」
「はい」
「本当に毎日なんだ」
「恒一様が、今日どのように過ごされたのか伺いたいので」
「本当に好きなんだね」
「はい」
迷いのない返事だった。
夕方。
グラウンドの端にいた佐藤は、遠くから歩いてくる真白の姿を見つけた。
「……来た」
隣にいた恒一が振り向く。
「何が?」
「北条さん」
「ああ」
「今日も迎えに来たぞ」
「そうだな」
「そうだな、じゃないんだが」
佐藤は胃を押さえた。
真白は陸上部には入らない。
それは本当にありがたい。
だが、薙刀部の練習が終わるたびに迎えには来る。
陸上部の平和は、一応守られた。
ただし、グラウンドの外からやって来るものまでは防げないらしい。
平和にも、いろいろ種類があるようだった。




