第161話 外堀はだいぶ埋まっている
■前田家
夕方。
巴は、また千夜の部屋に来ていた。
最近、この部屋に来る回数が増えている。
理由は分かっている。
真白が来てから、分からないことも、腹が立つことも増えた。そして、そういう時に話せる相手は、今のところ千夜くらいだった。
千夜はいつものように湯呑みを持って座っている。
「千夜」
「うん」
「北条、陸上部には入らないらしい」
「そうなんだ」
千夜は少しだけ目を動かした。
「よかったね」
「……別に」
「よかったでしょ」
「……まあ」
認めるのは悔しい。
だが、かなりほっとしていた。
陸上部は巴にとって大事な場所だ。
自分が走り、恒一が部長として立ち、ひよりや佐藤たちと努力する場所。
そこへ、恒一を知るためという理由で真白まで入ってきたら、たぶん落ち着かなくなる。
佐藤の胃も危ない。
「本人が朝比奈に言ったらしい」
「理由は?」
「朝比奈と私に、これ以上迷惑をかけたくないからって」
「ちゃんと考えたんだね」
「……そこも腹が立つ」
「うん」
「そこは否定して」
「でも、腹が立つんでしょ」
「……立つ」
真白は押しが強い。
距離も近い。
けれど、迷惑だと分かれば引くこともできる。
単純に嫌な相手にできない。
そこが余計に腹立たしかった。
「でも」
巴は少し考えてから言った。
「陸上部に来ないだけなんだよね」
「うん」
「他は、もうかなり入ってる」
千夜が湯呑みを置いた。
「外堀、だいぶ埋まってるね」
「……やっぱり?」
「うん」
千夜は淡々と数え始める。
「朝比奈君の両親には気に入られてる。家で朝食も作ってる。学校でも礼儀正しいって見られてる。薙刀部では即戦力扱い」
「……うん」
「近所の清掃活動にも、もう参加してるらしいよ」
巴が顔を上げた。
「もう?」
「うん」
「転校して何日?」
「まだ数日」
「早すぎない?」
「早いね」
巴は額に手を当てた。
朝比奈家。
学校。
薙刀部。
近所。
真白は、どこへ行っても正面からきちんと入り込んでいる。
「……外堀どころじゃない」
「朝比奈君の家の台所には、もう入ってるからね」
「それを言うな」
正しいから余計に嫌だった。
「じゃあ、私はどうすればいいの?」
「また勝つ話?」
「勝つというか……負けたくない」
巴は正直に言った。
「でも、北条と同じことはできない」
「しなくていいと思う」
「じゃあ何をするの」
千夜は少し考えた。
「朝比奈君の周りの人と、もう少し話したら?」
「周り?」
「友達」
巴は目を瞬いた。
「三浦とか、彩音?」
「うん」
「朝比奈本人じゃなくて?」
「本人も大事。でも、朝比奈君は一人で生きてるわけじゃないから」
千夜は淡々と続けた。
「三浦君や彩音は、朝比奈君のことをよく知ってる。巴が分からないことも、あの二人なら分かる時があるでしょ」
それは否定できなかった。
基樹は恒一の親友だ。
彩音は幼馴染で、恒一のことをよく見ている。
巴が恒一の言動に戸惑っている時でも、二人なら「ああ、恒一だから」と理解してしまうことがある。
「北条さんは家族や近所の方へ自然に入っていってる」
「うん」
「だったら、巴は同じ方向から行かなくてもいいんじゃない」
「……別の方向」
「うん」
巴は腕を組んだ。
朝から恒一の家へ行っても、結局練習の話になる。
お父様、お母様などと言うのも無理だ。
抱きつくのはもっと無理。
急にボランティアを始めても、自分でも不自然だと思う。
なら、別のやり方があってもいい。
「でも、三浦とはほとんど話したことない」
「話せば?」
「簡単に言う」
「話さないと始まらないから」
「……そうだけど」
「彩音とは少し話してるでしょ」
「彩音は、何でも分かってそうで少し苦手」
「分かる」
即答だった。
巴が千夜を見る。
「千夜も?」
「笑ってるけど、だいたい見てるから」
「分かる」
二人はそこで初めて、妙に意見が合った。
「でも、朝比奈のことを知るなら避けて通れないか」
「たぶん」
「三浦も?」
「三浦君は、朝比奈君にかなり踏み込めるから」
「……そうだね」
巴は少し考えた。
自分はこれまで、恒一本人ばかりを見ていた。
だが、恒一の周りには、彼を心配する人も、叱る人も、昔から知っている人もいる。
その人たちと話すことは、恒一を知ることにもつながる。
「白石さんとも、もう少し話してもいいかも」
千夜が付け加えた。
「白石とも?」
「同じ陸上部だし」
「……多い」
「うん」
巴は深く息を吐いた。
真白。
ひより。
恒一の友人たち。
考える相手が増えていく。
「恋愛って、面倒だね」
「うん」
「走る方が楽」
「うん」
「剣道も薙刀も、まだ分かる」
「うん」
「人と親しくなる方が難しい」
千夜は少しだけ笑った。
「でも、朝比奈君と親しくなりたいなら、それも必要なんじゃない」
「……分かってる」
巴はしばらく考えてから、千夜を見た。
「千夜も来て」
「どこに?」
「三浦たちと話す時」
「私も?」
「一人よりいい」
千夜は少し黙り、それからうなずいた。
「必要なら」
「必要」
「分かった」
それだけで、巴は少し安心した。
「何を話せばいい?」
「普通に朝比奈君のことからでいいんじゃない」
「普通が難しい」
「練習のこととか」
「それなら話せる」
「そこからでいいと思う」
巴はうなずいた。
いきなり親しくなる必要はない。
まず話す。
それくらいなら、できるかもしれない。
「外堀」
巴は小さく呟いた。
「うん」
「北条には、かなり埋められてる」
「うん」
「なら私は……」
少し考える。
「橋をかける」
千夜が少しだけ目を動かした。
「橋?」
「同じ外堀を埋めるのは無理。でも、渡る道くらいなら作れるかもしれない」
「いいと思う」
巴は立ち上がった。
真白との差がなくなったわけではない。
むしろ、家族や近所との距離だけを見ればかなり先へ行かれている。
それでも、自分まで同じことをする必要はない。
恒一の友人たちと話す。
ひよりとも、もう少し向き合う。
まずはそこからだ。
部屋を出ようとした時、千夜が言った。
「巴」
「何?」
「橋をかけるなら、まず挨拶からだと思う」
「……そこから?」
「うん」
巴は小さくため息をついた。
真白はもう朝比奈家の台所にいる。
自分は、まだ挨拶から。
差は大きい。
だが、道場でも走りでも、最初はいつもそうだった。
最初の一歩は、だいたい地味だ。
外堀は、だいぶ埋まっている。
それでも、まだ門が閉まったわけではなかった。




