第160話 佐藤、祈る
■陸上部部室
放課後。
佐藤は、陸上部の部室前で立ち尽くしていた。
グラウンドからは、準備運動をする部員の声や、軽く走る足音が聞こえてくる。
いつも通りの放課後。
いつも通りの陸上部。
そうであってほしかった。
だが、先ほど廊下で耳にした言葉が、まだ頭から離れない。
「北条真白さん、陸上部に入るかもしれないらしいよ」
誰が言ったのかは覚えていない。
ただ、その言葉を聞いた瞬間、佐藤の胃はきり、と痛んだ。
「……まだ早いだろ」
何が早いのか、自分でもよく分からない。
だが、早い。
真白が悪い子だとは思っていない。
礼儀正しく、挨拶も丁寧で、むしろかなり感じのいい生徒だ。
問題はそこではなかった。
今の陸上部には、恒一と巴がいる。
ひよりもいる。
その時点ですでに、佐藤から見れば十分にややこしい。
そこへ、恒一の婚約者を名乗り、本人に平然と抱きつく真白まで加わる。
想像しただけで、胃がもう一度痛んだ。
「……無理だ」
佐藤は胃を押さえながら、空を見上げた。
「頼むから、入らないでくれ」
誰に祈っているのかは分からない。
神様か。
顧問か。
真白本人か。
ただ、祈らずにはいられなかった。
陸上部は走る場所だ。
恋愛の修羅場を処理する場所ではない。
少なくとも佐藤は、そう信じていたい。
「佐藤」
声をかけられて振り向くと、巴が立っていた。
「真田」
「何してるの」
「いえ、特には」
「胃、押さえてた」
「……少し」
「また?」
「最近、少し多いですね」
否定はできなかった。
巴は不思議そうに佐藤を見る。
佐藤は少し迷ってから、聞いた。
「あの、真田」
「何」
「北条さんが、陸上部に入るかもしれないという話は」
巴の表情が、ほんの少し固まった。
それだけで佐藤は察した。
地雷だった。
「……聞いた」
「そうですか」
「本人が、朝比奈を知るために入りたいって言ってた」
「……なるほど」
何も納得していないのに、口からそう出た。
直球すぎる。
胃に悪い。
「でも、まだ決まってない」
巴は続けた。
「顧問にも話す必要があるし、部の空気もある。朝比奈の練習のこともある」
「非常にありますね」
思わず強く返してしまった。
巴がこちらを見る。
「……そんなに?」
「部として入部希望者は歓迎すべきだと思います。ただ、今は状況がかなり複雑です」
「……そう」
巴は少し気まずそうに視線を逸らした。
「北条が入ったら、やっぱり困る?」
とても困る。
かなり困る。
胃が終わる。
そこまで言うのは危険な気がして、佐藤は慎重に答えた。
「少なくとも、平穏ではなくなると思います」
「……」
「かなり」
「そう」
巴は小さく答えた。
それから、佐藤の腹を見る。
「胃、大丈夫?」
「まだ大丈夫です」
「まだ?」
「まだです」
「無理しないで」
「ありがとうございます」
気遣いはありがたい。
ありがたいが、原因の一端が目の前にいることは言わないでおいた。
胃がそうしろと告げている。
そこへ、今度は恒一がやってきた。
「佐藤」
「朝比奈」
「体調悪いのか」
「少し胃が」
「大丈夫か?」
「たぶん」
佐藤は恒一を見た。
この男は悪いやつではない。
むしろ誠実で、努力家だ。
ただし、本人に悪意がないまま周囲を巻き込む力が強すぎる。
「朝比奈」
「何だ」
「北条さんのことなんだが」
「ああ」
「陸上部に入るという話を聞いた」
「ああ、それか」
恒一はあっさり答えた。
「北条さん、陸上部には入らないらしい」
佐藤は固まった。
「……え?」
「今朝、本人から聞いた」
「入らない?」
「ああ」
「本当に?」
「本当に」
「陸上部に?」
「入らない」
確認しても答えは変わらない。
佐藤の胃から、何か重いものがすっと消えていった。
「……そうか」
「ああ」
「そうか……」
「そんなに安心したのか?」
「した」
即答だった。
恒一が少し驚く。
「そこまで?」
「そこまでだ」
佐藤は空を見上げた。
夕方の空が、少しだけ綺麗に見える。
「よかった……」
本音が漏れた。
少し先にいた巴も、わずかに肩の力を抜いたように見えた。
どうやら巴も相当に気にしていたらしい。
佐藤はそこには触れなかった。
触れない方がいい。
これも胃が告げている。
「北条さんは、考え直したらしい」
恒一が言った。
「俺と真田さんに迷惑をかけたくないって」
「なるほど」
今度の「なるほど」は、本当に納得できた。
「朝比奈」
「何だ」
「お前はもう少し、自分の周りで何が起きているのか自覚した方がいい」
「俺が?」
「そうだ」
「でも、北条さんが陸上部に入らないことになったなら、いいことだろ」
「いいことだ」
「なら」
「そこだけはな」
佐藤は深く息を吐いた。
問題が全部なくなったわけではない。
だが、少なくとも真白は陸上部には入らない。
今日は、それだけで十分だった。
「佐藤、本当に大丈夫か?」
「ああ」
佐藤は久しぶりに少し笑った。
「今、かなり大丈夫になった」
「それならよかった」
恒一は素直にうなずく。
たぶん、何も分かっていない。
だが、今日だけはそれでもいい。
「じゃあ、練習するか」
恒一が言った。
「そうだな」
佐藤もうなずいた。
陸上部は走る場所だ。
少なくとも今日は、ちゃんとそう言えそうだった。
佐藤の胃は、久しぶりに勝利した。
ただし、その勝因が他人の入部取りやめだったことについては、深く考えないことにした。




