第159話 近所でも評判らしい
■朝比奈家
朝。
恒一は、食卓で味噌汁を飲んでいた。
今日は真白はいない。
母さんが作った、いつもの朝食だった。
白いご飯に味噌汁、焼き魚、卵焼き。
最近は朝からいろいろ起きすぎていたので、普通の朝食というだけで少し安心する。
そう思っていたのだが。
「そういえば、恒一」
父さんが新聞を畳みながら言った。
「真白ちゃん、近所でも評判らしいぞ」
「……北条さんが?」
恒一は箸を止めた。
母さんも楽しそうにうなずく。
「真白ちゃん、うちからそんなに遠くないところに住んでるみたいなの。それで最近、この辺りの清掃活動とか、地域の手伝いにも顔を出してるらしいのよ」
「……早くないか」
転校してきて、まだそれほど経っていない。
なのに、もう近所で評判になっているらしい。
「年配の方たちが、すごく褒めてるんですって。礼儀正しいし、よく気がつくし、嫌な顔をしないって」
「中には、聖女みたいな子だって言ってる人もいるらしいぞ」
「聖女」
少し大げさな気もする。
ただ、真白ならそう言われても不思議ではなかった。
礼儀正しく、所作が綺麗で、ボランティアまでしている。
もっとも恒一は、その「聖女みたいな子」が自分に抱きつき、婚約者だと名乗り、朝から家に来て朝食まで作ることを知っている。
聖女だけでは説明が足りない。
「父さんも鼻が高いよ」
「なぜ父さんの鼻が高くなる」
「近所で評判の美少女が、うちの息子の嫁になりに来てくれてるんだぞ」
「嫁ではない」
「朝食も作ってくれるし、料理もうまいし、気立てもいい」
「それは否定しない」
「ほら見ろ」
「嫁ではない」
そこだけは譲れなかった。
母さんも笑っている。
「ご近所さんにも羨ましがられちゃった」
「羨ましがられなくていい」
「いいじゃない。真白ちゃん、本当にいい子なんだから」
それも否定できない。
真白がいい子なのは分かっている。
だからこそ、余計に扱いが難しい。
父さんが立ち上がった。
嫌な予感がした。
「恒一」
「何」
「お前は幸せ者だな」
「またそれか」
ばしん、と背中を叩かれた。
「痛い」
「父さんは嬉しいぞ」
「嬉しさを背中で表現しないでくれ」
もう一度叩こうとする父さんから少し距離を取る。
母さんは笑っている。
止めてほしい。
できれば母親として。
「でも、本当に偉いわね」
母さんが言った。
「学校も変わって、引っ越してきたばかりなのに、もう周りの人のために動いてるんだから」
「……そうだな」
恒一は味噌汁を見下ろした。
真白は恒一に会うために転校してきた。
それだけなら知っている。
だが、薙刀部や料理部へ入り、近所の活動にも参加している。
そこまでしている理由までは知らない。
朝食を終えて家を出ると、背中にはまだ少し痛みが残っていた。
母さんには「真白ちゃんによろしくね」とまで言われた。
よろしくと言われても困る。
そんなことを考えながら歩いていると、前方に見覚えのある黒髪の少女がいた。
真白だった。
恒一に気づくと、丁寧に頭を下げる。
「おはようございます、恒一様」
「おはようございます」
「ご一緒してもよろしいでしょうか」
「学校は同じなので」
「ありがとうございます」
真白は少し嬉しそうに隣へ並んだ。
以前よりも、ほんの少しだけ距離を取っている。
それだけでも、恒一には分かった。
「今朝、両親が北条さんの話をしていました」
「私の話、ですか」
「近所で評判がいいって。地域の清掃とか、年配の方の手伝いとか、いろいろしていると聞きました」
「ああ」
真白は静かにうなずいた。
「褒められるようなことではありません」
返事は早かった。
「そうなんですか」
「はい。私は、自分のためにしております」
「自分のため?」
「誰かのためだけに、というほど綺麗なものではありません。そうする必要があると思っているから、しています」
その言い方に、恒一は少し引っかかった。
善意だけではない。
けれど、悪意でもない。
真白は、ときどきこういう言い方をする。
何か理由を知っているのに、そのすべては話せないような言い方を。
「恒一様は、神様からそのようなお話は聞いていらっしゃいませんか」
「神様から?」
「はい。慈善活動やボランティアの理由についてです」
恒一は少し考えた。
縁の間。
神様。
真白が九州から来たこと。
恒一に会うために願ったこと。
それ以外に、今の話につながるような説明は受けていない。
「聞いていません」
「……そうですか」
真白の声が、少しだけ小さくなった。
「神様からは、そういう話は何も」
「はい」
「すみません」
「恒一様が謝ることではありません」
真白はすぐに微笑んだ。
けれど、少しだけ寂しそうに見えた。
「北条さん」
「はい」
「聞いてもいい話なら、いつか聞かせてください」
真白の目が、わずかに揺れる。
「……はい」
「今じゃなくていいです」
「ありがとうございます」
真白は丁寧に頭を下げた。
「いつか、きちんとお話しします」
その言葉に、恒一はうなずいた。
学校が近づくにつれて、生徒の姿も増えていく。
真白は恒一の隣を、少しだけ距離を取って歩いていた。
その距離も、たぶん真白なりに考えた結果なのだろう。
近所では、礼儀正しくて親切な子として評判になっている。
けれど本人は、自分のしていることを善意だけで説明しようとはしない。
そこには、まだ恒一の知らない理由がある。
「では、教室へ参りましょう」
「はい」
二人はそのまま校門をくぐった。
真白について知っていることは増えている。
それでも、その奥にはまだ知らないことが残っていた。




