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恋愛台帳、時代ズレにつき修正不能  作者: サザルト
第3章 真白な頁に名前が灯る編

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第158話 火加減は剣より難しい

■料理部


 放課後。


 巴は、料理部の前に立っていた。


 扉の向こうからは女子生徒たちの笑い声や、食器の触れ合う音が聞こえる。甘い匂いまで漂ってきていた。


 巴は腕を組み、しばらく扉を見つめる。


 別に緊張しているわけではない。


 入るタイミングを見ているだけだ。


 料理部へ来たのも、真白に対抗するためではない。


 恒一が料理を好きだと知った。


 真白が朝比奈家で朝食を作り、両親にも恒一にも喜ばれていた。


 だから、自分も少しくらい料理を学んでみようと思った。


 それだけだ。


「……入る」


 巴が扉に手をかけた瞬間、内側から勢いよく開いた。


「巴姉!」


「……千瀬」


 千瀬が、ぱっと顔を輝かせる。


「来た! 料理部来たね!」


「見学だ」


「仮入部?」


「見学」


「仮入部だね!」


「話を聞け」


 千瀬は聞く気がないらしい。


 そのまま巴の手を取り、部室の中へ引き込んだ。


「部長ー! 巴姉来ましたー!」


「声が大きい」


「嬉しいから!」


 作業台には、ボウルや泡立て器、卵、牛乳、粉類が並んでいる。


 今日はクッキーを作るらしい。


 料理部の部長は巴を見ると少し驚いたものの、すぐに笑顔になった。


「真田さんが料理部って、ちょっと意外」


「料理にも興味が出ました」


「それなら歓迎するよ」


 その時、作業台の奥にいた真白が顔を上げた。


 白いエプロン姿で髪をきれいにまとめ、すでにすっかり料理部に馴染んでいる。


「巴さん」


「……北条」


「料理部へいらしたのですね」


「見学だ」


「そうでしたか。ご一緒できて嬉しいです」


「……そう」


 白いエプロンも、静かな手つきも妙に似合っている。


 悔しいくらい自然だった。


「巴姉、今日はクッキー作るよ!」


 千瀬が明るく言った。


「クッキー」


「初心者向け! 混ぜて、伸ばして、型抜いて、焼くだけ!」


 それならできそうだ、と巴は思った。


 決められた分量を守り、手順どおりに進める。


 武道の型と同じだ。


「では、お願いします」


「よし! まず手洗い! エプロン! 髪まとめる!」


「分かった」


「あと表情やわらかく!」


「それは料理に必要か?」


「部室の空気には必要!」


 巴は少し考えた。


 自分が無表情で立っていると空気が硬くなる可能性はある。


「……努力する」


「今の顔ちょっと怖い!」


「努力中だ」


 千瀬は笑いながら、巴にエプロンを渡した。


 最初は順調だった。


 材料を並べ、分量を確認する。


 巴は秤の数字を真剣に見つめ、薄力粉を一グラム単位で調整した。


「巴姉、顔が決勝戦!」


「分量は大事だろう」


「大事だけど、クッキーだからね!」


 真白も別の作業台から巴の手元を見る。


「巴さんは、とても丁寧ですね」


「普通だ」


「粉を測る目が、少し武道に近いです」


「どういう意味」


「真剣という意味です」


「ならいい」


 問題は、その先だった。


「巴姉、バターは少し柔らかくしてからね」


「柔らかく?」


「冷たいままだと混ざりにくいから」


「分かった」


 巴は木べらを握った。


 そして、力を込める。


「待って待って待って!」


「何?」


「今、叩き潰そうとしたよね!?」


「柔らかくするんだろう」


「バターは敵じゃない!」


 討伐ではないらしい。


 巴は言われたとおり力を抜き、押して、混ぜる。


「……時間がかかる」


「料理は下ごしらえが大事なの!」


「剣道の素振りみたいなものか」


「そうそう! でも床は割らないでね!」


「割らない」


 次は卵だった。


 巴は卵を手に取って、じっと見る。


「巴姉?」


「力加減が難しい」


「優しくね!」


 ぱきっ。


 卵は割れた。


 中身も入った。


 殻も入った。


「……」


「惜しい!」


「駄目では?」


「最初はそんなもの!」


 巴は箸で殻を取ろうとした。


 だが、卵液の中で殻が逃げる。


「……動く」


「動くね!」


「手強い」


「敵にしないで!」


 そこへ真白が近づいてきた。


「巴さん。箸を少し寝かせると取りやすいかもしれません」


「……こう?」


「はい。力を入れすぎずに」


 言われたとおりにすると、殻は簡単に取れた。


「取れた」


「はい」


「……ありがとう」


「いえ」


 真白は静かに微笑んだ。


 巴は少し複雑な気持ちになった。


 真白に料理を教わっている。


 だが、教わったのなら礼を言うしかない。


 その後の生地作りでも、力加減は巴を悩ませた。


「混ぜすぎると固くなるよ!」


「混ぜ足りないと?」


「まとまらない!」


「……どっちだ」


「ちょうどいいところ!」


「それが分からない」


「そこが料理!」


 剣道なら、間合いが近すぎるか遠すぎるかは分かる。


 踏み込みが深いか浅いかも分かる。


 だが、生地の「ちょうどいい」は分からない。


「巴姉、今度は優しすぎ!」


「優しくと言っただろう」


「優しいにも種類があるの!」


「種類?」


「強すぎると壊れるし、弱すぎると進まない。相手を見ながら、ちょうどいい力で!」


 巴の手が一瞬止まった。


「……相手」


「うん、生地!」


「……何でもない」


 少しだけ力を変えて混ぜる。


「そうそう! 今の感じ!」


 どうにか生地はまとまった。


 だが、まだ終わりではない。


 生地を伸ばすと、中央だけが妙に厚くなった。


「巴姉、真ん中に力集めすぎ!」


「そうなのか」


「そこに敵がいると思ってる?」


「思っていない」


「ほんと?」


「……少し」


「やっぱり!」


 型抜きでは、星型が妙に鋭くなった。


 ハート型も少し歪んでいる。


「巴姉、これすごい!」


「何が」


「ハートが戦ってる!」


「戦わせた覚えはない」


 真白も一枚を見て、静かに言った。


「力強い形ですね」


「北条」


「悪い意味ではありません」


「本当に?」


「巴さんらしいです」


 自分らしいハートが、なぜ戦っているのか。


 巴には分からなかった。


 そして最後に、焼く。


「焼きすぎると焦げるし、足りないと生焼け!」


「分かった」


「途中で何度も開けない! でも様子は見る!」


「開けずに?」


「窓から!」


「なるほど」


 巴はオーブンの前に立った。


 少しずつ色づいていくクッキーを、試合でも見るような目で見つめる。


「巴さん」


 真白が声をかけた。


「何」


「顔が怖いです」


「焼き加減を見ている」


「敵を見る目になっています」


「クッキーは敵ではない」


「はい。でも、少し焦げそうです」


「やはり?」


 慌てて千瀬を呼び、天板を取り出す。


 焼き上がったクッキーを見て、三人は黙った。


 星は手裏剣らしさを増していた。


 ハートは戦場帰りの盾のようだった。


 丸型も、妙に硬そうだ。


「……」


 千瀬が明るく言った。


「ロックだね!」


「ろくな結果ではない、の間違いでは」


「巴姉、自分で言っちゃう!?」


 部員たちが笑った。


 悪意のある笑いではない。


 巴も一枚持ってみる。


 硬い。


 かなり硬い。


「……これは食べられるのか」


「食べられるよ! たぶん!」


「たぶん」


「歯が強ければ!」


「料理部で歯の強さを要求するな」


 すると真白が一枚手に取った。


「いただいてもよろしいですか」


「やめた方がいい」


「巴さんが作ったものですので」


「だからやめた方がいい」


 真白は一口かじった。


 かりっ、ではない。


 ごりっ。


 真白の表情が一瞬止まった。


「……力強い味です」


「無理に褒めなくていい」


「香ばしいです」


「焦げているだけでは?」


「少し、強めに」


 巴は黒っぽいクッキーを見る。


 朝比奈にこれを食べさせる姿を想像した。


 真面目な顔で「うまい」と言いそうだ。


 そして、歯を痛めそうだ。


「……駄目だ」


「巴姉?」


「これは朝比奈に出せない」


「出す予定だったんだ!?」


「違う」


「今、完全に考えてたよね!?」


「違う」


 否定したものの、少し声が弱かった。


 真白は、そんな巴を見て静かに言った。


「料理は、慣れだと思います」


「……」


「私も最初から上手くできたわけではありません」


「北条にも失敗があるの?」


「あります。何度も」


 意外だった。


 真白は何でもきれいにこなすように見える。


 だが、料理も積み重ねて身につけたものらしい。


 武道や陸上と同じなのかもしれない。


 巴はしばらくクッキーを見てから、息を吐いた。


「……私は、料理部には入らない」


「巴姉!?」


「まだ一回目だよ!」


「諦めるわけじゃない」


 巴は首を横に振る。


「私がここで北条に対抗しようとすると、料理がかわいそうなことになる」


「料理がかわいそう」


「クッキーもかわいそうだった」


「そこまで!?」


 黒っぽいハートを見る。


 たしかに、少しかわいそうだった。


「料理部は、北条がちゃんと向き合っている場所だ」


 真白が巴を見る。


「私は対抗心で入ろうとした。それは違う」


 口にすると少し恥ずかしかった。


 だが、事実だった。


 部長が優しく笑う。


「仮入部は、合うかどうかを見るためのものだから。また料理したくなったら来ればいいよ」


「ありがとうございます」


 千瀬は少し寂しそうだった。


「巴姉、もう来ないの?」


「見学には来るかもしれない」


「クッキーリベンジは?」


「考える」


「やった!」


「まだ何も決めてない」


 千瀬は、それでも嬉しそうだった。


 真白が静かに手を上げる。


「巴さん」


「何」


「今日のクッキーを一枚いただいてもよろしいでしょうか」


「なぜ」


「記念に」


「記念になる出来ではない」


「私にとっては、なります」


 巴は少し迷い、一番焦げていない丸型を渡した。


「歯に気をつけて」


「はい。ありがとうございます」


「……別に」


 料理部を出ると、千瀬も一緒についてきた。


「巴姉」


「何」


「料理部、嫌だった?」


「嫌ではない」


「じゃあ楽しかった?」


「……疲れた。でも、悪くはなかった」


「じゃあまた来て!」


「考える」


「考えるは前向き!」


 相変わらず千瀬は明るい。


 巴は少しだけ口元を緩めた。


「ただ、料理部に入るのはやめる」


「うん」


「北条に対抗するために料理を始めるのは、たぶん違う」


「巴姉、それ分かったのすごいよ」


「そう?」


「うん。焦げたけど成長した!」


「焦げたことを添えるな」


 千瀬はけらけら笑った。


 少し歩いてから、ふいに言う。


「巴姉はさ、真白姉と同じところで勝負しなくていいと思うよ」


 巴は足を止めた。


「……どういう意味」


「料理とか朝ごはんとか、そういうのは真白姉が得意なところでしょ。でも巴姉には、巴姉っぽいところがあるじゃん」


「私っぽいところ?」


「走ってるところとか、道場とか。朝比奈先輩の走りをちゃんと見てるところとか」


 千瀬は、にっと笑う。


「そういうところで勝負した方が強いと思う」


「勝負……」


「料理で無理にハートを戦わせるより」


「戦わせた覚えはない」


「戦ってたよ、あれ」


 否定しきれなかった。


「巴姉は、真白姉みたいにならなくていいんだよ」


 明るい声だったが、その言葉は妙に真っ直ぐだった。


 料理部の甘い匂い。


 焦げたクッキー。


 静かに笑う真白。


 そして、グラウンドを走る恒一。


 少しずつ頭の中でつながっていく。


「……そう」


 巴は小さく答えた。


「それなら、少し分かる」


「でしょ?」


「料理は、今は北条に任せる」


「今は?」


「いつか、カップラーメン以外は作れるようになる」


「目標低い!」


「今の私には高い」


「じゃあ、まず卵をちゃんと割るところからだね!」


「そこからか」


「そこから!」


 千瀬は楽しそうに笑った。


 巴も少しだけ笑う。


 結局、料理部への仮入部は一日で終わった。


 クッキーは硬くなった。


 ハートは戦った。


 星は手裏剣になった。


 それでも、完全な失敗だったとは思わない。


 真白と同じ場所で競う必要はない。


 自分には、自分が積み重ねてきた場所がある。


 そう分かったからだ。


 別れ際、千瀬が言った。


「お姉ちゃんにも報告する?」


「何を」


「料理部どうだったって聞かれると思うよ」


「……火加減は剣より難しかった、とだけ言っておく」


「それで全部伝わるかな?」


「伝わらなくていい」


 巴はそう言って、グラウンドの方へ歩き出した。


 遠くから陸上部の声が聞こえてくる。


 甘い匂いより、夕方の風と土の匂いの方が、今の巴には落ち着いた。


 料理で真白に勝つ必要はない。


 恒一の走りなら、自分は見られる。


 道場でも、自分にできることがある。


 巴は少しだけ歩く速度を上げた。


 自分の場所へ戻るために。


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