第157話 迎えに来たわけではない
■朝比奈家
朝。
巴は、朝比奈家の前で固まっていた。
目の前には門があり、その奥には玄関。玄関横のチャイムを押せばいいだけなのに、指がなかなか動かない。
朝の住宅街を通勤途中の大人や、自転車に乗った生徒が通り過ぎるたび、巴は少しだけ背筋を伸ばした。
怪しいことをしているわけではない。
恒一に、練習の話をしに来ただけだ。
基準タイムのこと。スタートの力み。後半の腕の振り。
言うべきことはある。
だから、これは必要なことだ。
迎えに来たわけではない。
(……押せ)
昨日、千夜に言われた。
真白と同じやり方をする必要はない。自分の距離で恒一と話せばいい、と。
その言葉を思い出し、巴はようやくチャイムを押した。
ピンポーン。
やけに大きく聞こえた音に、早くも後悔しそうになる。
やがて玄関が開き、恒一の母が顔を出した。
「はい」
「初めまして。真田巴と申します」
「あら」
巴は反射的に背筋を伸ばし、武道の礼に近い角度で頭を下げた。
「朝比奈……恒一さんには、陸上部で、その……」
いつもは朝比奈と呼んでいる。
だが、初対面の母親の前で呼び捨てにするのも妙な気がして、結果として自分でも違和感のある呼び方になった。
「あなたが巴ちゃん?」
「……はい」
「恒一から聞いてるわ。すごく速くて、真っ直ぐな人だって。恒一が走るようになったのも、あなたの影響なのよね」
巴は固まった。
恒一が、家で自分の話をしている。
「……私は、特に何も」
どうにか答えた時、家の奥から聞き慣れた声がした。
「お母様、お味噌汁はこちらでよろしいでしょうか」
巴の動きが止まった。
「あ、ごめんなさいね、真白ちゃん。少し待ってて。恒一のお友達が来てくれたの」
真白ちゃん。
お母様。
味噌汁。
家の奥から、白いエプロン姿の真白が現れた。
黒髪を軽くまとめ、まるで最初から朝比奈家の台所にいるのが自然であるかのように馴染んでいる。
「おはようございます、巴さん」
「……なぜ、いる」
「朝食のお手伝いです」
「朝から?」
「はい」
「朝比奈の家で?」
「はい」
「エプロンまで?」
「はい」
真白は何もおかしいことはないという顔で答えた。
(負けている)
何に負けているのかは分からない。
だが、チャイム一つ押すのにあれほど時間がかかった自分に対し、真白はもう台所で味噌汁をよそっている。
差がある。
かなり大きい。
「母さん、誰か来たのか」
奥から恒一が顔を出した。
巴を見ると、目を丸くする。
「真田さん?」
「……朝比奈」
「どうしたんだ、朝から」
巴は慌てて本来の目的を思い出した。
「……練習の話がある」
「練習?」
「ああ」
「わざわざ来てくれたのか」
「……ついでだ。朝の……通学の」
自分でも苦しいと思う。
恒一は少し不思議そうにしたものの、深く追及しなかった。
「そうか。朝からすまない。練習のことなら、学校で聞くべきだった」
「……」
違う。
そうじゃない。
たしかに練習の話はあるが、それだけなら学校でよかった。
けれど、恒一は完全にそう受け取っている。
言い方が悪いのは自分だと分かっていても、少し腹立たしい。
「せっかくだから、巴ちゃんも朝ごはん食べていく?」
恒一の母にそう言われ、巴は戸惑った。
「いえ、私は」
「遠慮しなくていいのよ。真白ちゃんが作ってくれた卵焼き、とてもおいしいの」
真白が控えめに頭を下げる。
「お口に合うかは分かりませんが」
巴は恒一を見た。
「時間があるなら、少しだけでも」
恒一にそう言われると断りづらい。
「……少しだけなら」
促されるまま家に上がり、巴は朝比奈家の食卓についた。
白いご飯、味噌汁、焼き魚、卵焼き、小鉢。
どれもきれいに整っている。
「真白ちゃん、今日もおいしいよ」
「ありがとうございます、お父様」
恒一の父も、すっかり真白を気に入っているようだった。
「恒一、お前は幸せ者だな」
「父さん、それは昨日も聞いた」
「何度でも言うぞ」
「言わなくていい」
恒一の背中を、父が軽く叩く。
「痛い」
母は笑い、真白も微笑んでいる。
巴だけが、この食卓にどう入ればいいのか分からなかった。
とりあえず、真白が作ったという卵焼きを食べる。
「……」
おいしい。
悔しいくらいに。
「どうかしら、巴ちゃん」
「……おいしいです」
「ありがとうございます、巴さん」
「……別に」
真白が嬉しそうに微笑む。
その横で恒一も卵焼きを食べた。
「うまいな。本当に上手い」
「ありがとうございます、恒一様」
真白の顔がぱっと明るくなる。
巴は卵焼きを見た。
(料理……)
妙に、その言葉が胸に残った。
「そういえば、真白ちゃん。昨日、料理部に入ったのよね」
「はい。もっと美味しいものを作れるようになりたいと思いましたので」
「もう十分おいしいのに」
「まだ学ぶことばかりです」
恒一の父も嬉しそうに身を乗り出す。
「恒一のために?」
「恒一様にも、お父様にも、お母様にも、もっと喜んでいただけるようになりたいと思いまして」
「恒一、お前は本当に幸せ者だな」
「もう分かったから」
また背中を叩かれ、恒一が顔をしかめる。
その様子を見ながら、巴はますます居心地が悪くなった。
真白は料理部にも入り、朝比奈家にもすっかり馴染んでいる。
さらに話は千瀬へ移った。
「料理部では、前田千瀬さんにもお世話になりました」
「千瀬?」
「はい。とても明るく、親切にしてくださいました。それと、真白姉と呼んでもよいか、と」
「……」
「あら、もうそんなに仲良くなったの?」
「仲良くなれたのかは分かりませんが、とても嬉しかったです」
巴は思った。
早い。
何もかも早い。
朝比奈家に馴染むのも、料理部へ入るのも、千瀬に「真白姉」と呼ばれるのも。
自分がチャイムの前で固まっていた間に、真白はずいぶん先へ進んでいる。
そんな巴へ、恒一の母が何気なく尋ねた。
「巴ちゃんは、お料理するの?」
「……」
全員の視線が集まった。
巴は少し考えた末、正直に答えた。
「……カップラーメンなら」
沈黙。
真白だけが真剣にうなずいた。
「お湯加減も大切です」
「そこを広げるな」
「三分を守ることも重要かと」
「そういう話ではない」
恒一の母が、くすっと笑った。
「巴ちゃん、面白いのね」
「……面白くはありません」
少し恥ずかしくなった巴へ、恒一が助け舟を出した。
「カップラーメンも、たまに食べるとうまい」
「朝比奈」
「なんだ」
「フォローが下手だ」
「すまん」
すると真白が、静かに言った。
「料理部に入れば、基礎から学べます。千瀬さんもいらっしゃいますし」
「料理部……」
巴はもう一度、その三文字を意識した。
朝食を終えると、恒一、真白、巴の三人で家を出た。
「巴ちゃん、また来てね」
「……はい。ありがとうございました」
「巴ちゃんも、恒一をよろしくな」
「……はい」
恒一の父にそう言われ、巴は余計な意味を考えないようにした。
家を出ると、真白は少し後ろを歩く。
恒一が巴を見た。
「それで、練習の話って?」
「……ああ」
ようやく本題だった。
「標準タイムのことだ。今の走り方だと、後半で少し落ちる」
「やっぱりか」
「スタートも力みすぎている。腕も後半で少し乱れる」
「見ていたのか」
「……見ていた」
これは練習の話だ。
問題ない。
たぶん。
「助かる。自分では分からないところもあるから」
「……そう」
「真田さんに見てもらえるなら、ありがたい」
巴は視線を逸らした。
「別に、特別に見ているわけじゃない。練習だから」
「そうか」
恒一は普通に納得した。
やはり、少しずれている。
「次にテストを受けるなら、直前に一度見てやる」
「いいのか」
「ただし、甘くは見ない」
「それでいい。甘く見られたら意味がない」
その答えに、巴は少しだけ口元が緩みそうになった。
「……ならいい」
三人で学校まで歩いた。
真白は少し後ろ。
巴と恒一は横に並んでいる。
以前なら、それだけで巴は十分に動揺していただろう。
今も多少はしている。
けれど、頭の片隅には朝食で食べた卵焼きと、料理部という言葉が残り続けていた。
学校に着くと、当然のように周囲から視線が集まった。
「え、朝比奈と真田さんと北条さん?」
「どういう組み合わせ?」
「修羅場?」
巴は無視した。
教室の近くまで来ると、真白が丁寧に頭を下げる。
「では、私は先に教室へ向かいます」
「ああ」
「巴さん」
「何」
「朝食をご一緒できて嬉しかったです。料理部でお会いすることがありましたら、よろしくお願いいたします」
巴は固まった。
「……まだ決めてない」
「はい。ですが、巴さんは来られる気がいたしました」
「……」
読まれている。
それが、かなり悔しかった。
昼休み。
巴は、いつもの空き教室で千夜と向かい合っていた。
「で。朝比奈君の家に行ったの?」
「……練習の話をしに行った」
「うん」
「迎えに行ったわけではない」
「うん」
「本当に」
「うん」
千夜は何も否定しない。
巴は少し黙ってから、朝の出来事を簡単に話した。
「北条がいた。台所に。エプロンで朝食を作ってた」
「うん」
「朝比奈の母親とは自然に話してるし、お母様って呼んでる。父親にも気に入られてる」
「うん」
「しかも料理部にも、もう入った」
「早いね」
「早すぎる」
「千瀬もいた?」
「いたらしい。真白姉って呼んでる」
「やっぱり」
巴は眉を寄せた。
「なんで分かるの」
「千瀬なら呼びそうだから」
それは否定できなかった。
少し沈黙してから、巴は低い声で尋ねた。
「千夜」
「何?」
「料理って、どうやる」
千夜が箸を止めた。
「……料理?」
「カップラーメン以外」
「そこからなんだ」
「悪い?」
「悪くないよ」
巴は腕を組んだ。
「料理部に入る」
「うん」
「北条だけに、朝比奈の好きなものを作らせるわけにはいかない」
「うん」
「別に対抗ではない」
「うん」
「料理に興味があるだけ」
「うん」
「本当に」
「うん」
千夜は、最後まで否定しなかった。
「火加減は、千瀬に聞くといいよ」
「……火加減」
「うん」
「恋愛の話にされそう」
「たぶんされる」
巴は深く息を吐いた。
それでも、決意は変わらない。
真白のようにはなれない。
朝比奈家の台所に自然に立つことも、「お父様」「お母様」と呼ぶことも、今は無理だ。
けれど。
カップラーメン以外を作れるようになることくらいは、できるかもしれない。
それが勝ち方なのかは、まだ分からない。
でも、何もしないよりはましだった。




