第156話 懐かれることは少し怖い
■二年A組
昼休み。
恒一は、教室の自分の席で弁当を食べていた。
最近の昼休みは、あまり落ち着かない。
理由は、だいたい真白だった。
隣に来る。話しかけてくる。恒一が少し褒めれば、かなり嬉しそうにする。
そして、油断すると抱きついてくる。
だから今日も、恒一はそれなりに警戒していた。
しかし。
「恒一様」
隣から、いつもより少し控えめな声がした。
「はい」
恒一が顔を上げると、真白が立っていた。
いつものように姿勢がよく、丁寧で、綺麗だった。
ただ、表情が少し違う。
嬉しそうでも、押し切ろうとしている顔でもない。どこか迷っているように見えた。
「少し、ご相談してもよろしいでしょうか」
「相談?」
「はい」
珍しい。
真白が恒一に相談。
それだけで少し身構えた。
最近、相談という言葉の重みが増している気がする。
「ここでいいんですか」
「できれば、少しだけ人の少ない場所で」
「分かりました」
恒一は弁当を閉じた。
近くにいた基樹が、ちらりとこちらを見る。彩音も見た。
二人とも何か言いたそうだったが、今は何も言わなかった。
真白の様子が、いつもと少し違うことに気づいたのかもしれない。
恒一は真白と一緒に教室を出て、人通りの少ない廊下の窓際まで移動した。
昼休みの校舎は騒がしい。
教室から笑い声が聞こえ、廊下を走りかけた誰かが先生に注意されている。
そんな普通の学校の音の中で、真白は少しだけ視線を落としていた。
「それで、相談というのは」
「料理部のことです」
「料理部」
恒一は少しだけ安心した。
神様の話ではない。
縁の間でもない。
よく分からない運命の話でもない。
料理部なら、まだ普通の相談に近い。
そう思った。
「前田千瀬さんが」
「ああ」
千夜の妹。
一年生で、ひよりと同じクラス。
料理部所属。
明るくて、遠慮が少なくて、人との距離を一気に詰める子。
恒一は直接そこまで話したことがあるわけではないが、千夜やひよりの話、それに料理部で見た様子から、そういう子だということは何となく分かっていた。
真白は、少し言葉を選ぶようにして続けた。
「とても、親しくしてくださいます」
「いいことじゃないですか」
「はい。悪いことでは、ありません」
「白石の話だと、千瀬ちゃんは明るい子ですからね。すぐ誰とでも仲良くなるというか」
「そうなのですね」
「ええ。悪気なく踏み込みますけど、本当に悪気はないと思います」
千瀬ちゃんなら、初対面でも普通に話しかけるだろう。
相手が真白みたいな美少女でも、たぶんあまり関係ない。
むしろ、喜んで近づく。
真白さん綺麗、真白さんすごい、真白姉って呼んでいいですか。
とか言いそうだ。
かなり言いそうだ。
「昨日も、料理部で教えてもらったんですよね」
「はい」
真白は小さくうなずいた。
「一緒に作業をさせていただきました」
「千瀬ちゃん、かなり話しかけてきたんじゃないですか」
「はい」
真白は少しだけ目を伏せた。
「とても、明るい方でした」
「でしょうね」
「それに、とても自然に距離を詰めてこられる方で」
「それも千瀬ちゃんらしいです」
「はい」
真白の声は柔らかかった。
嫌がっているようには見えない。
むしろ、少し嬉しそうだった。
「それなら、問題ないんじゃないですか」
「……はい」
「千瀬ちゃんが慕ってくれるなら、嬉しいことだと思います」
恒一がそう言うと、真白は少しだけ目を伏せた。
「嬉しいです」
「なら」
「嬉しいのです」
真白は、もう一度言った。
その声は、さっきより少し小さかった。
「ですが、このままでは、大変なことになるかもしれません」
「大変なこと?」
恒一は眉を寄せた。
料理部で仲良くなる。
真白姉と呼ばれる。
一緒に活動する。
そこから、大変なこと。
普通に考えれば、特に問題はない。
むしろ、真白にとって学校の中に居場所が増えるのは良いことだと思う。
「どういうことですか?」
恒一が尋ねると、真白はすぐには答えなかった。
窓の外を見る。
グラウンドでは、昼休みに軽く走っている生徒がいた。陸上部ではないだろう。ただ遊んでいるだけかもしれない。
それを見ながら、真白は静かに言った。
「恒一様は、神様から何かお聞きになっていませんか?」
「神様から?」
「はい」
「千瀬ちゃんのことを?」
「いえ。私のことを」
恒一は黙った。
縁の間。
神様。
真白。
九州から関東へ来たこと。
恒一に会うために願ったこと。
恒一が特別だと言われたこと。
ただ、その先のことはほとんど知らない。
真白が何を抱えているのか。
なぜ、誰かに懐かれることを怖がるのか。
恒一は、知らない。
「すみません」
恒一は正直に言った。
「何も聞いていません」
「……そうですか」
「少なくとも、千瀬ちゃんと親しくなると何が起きるのかは、何も」
「はい」
真白は小さくうなずいた。
その表情が、少しだけ沈んだように見えた。
「神様なら、恒一様にはもう少しお話ししているのかと思っておりました」
「全然です」
「全然」
「はい。あの神様は、大事なことほどぼかします」
恒一がそう言うと、真白はほんの少しだけ目を瞬かせ、それからわずかに笑った。
「そうなのですね」
「そうです」
「私には、比較的いろいろお話しくださった気がしていたのですが」
「たぶん、人によって話すことを変えているんだと思います」
「神様らしいですね」
「困ります」
「はい」
少しだけ、空気が和らいだ。
だが、真白の表情はすぐに戻った。
静かで、少し寂しそうな顔。
「では、今はまだ、話さない方がよいのかもしれません」
「北条さん」
「申し訳ありません」
「謝らなくていいです」
「いずれ、恒一様は知ることになると思います」
「いずれ」
「はい」
また、その言葉だった。
いずれ。
今はまだ。
最近、恒一の周りにはそういう言葉が多すぎる。
巴とのこともそうだった。
真白のこともそうだ。
言えないこと。
聞けないこと。
知ったら変わってしまうこと。
そういうものばかりが増えていく。
「その、大変なことというのは」
恒一は慎重に聞いた。
「千瀬ちゃんが北条さんに懐くと、何かまずいということですか」
真白は少しだけ唇を結んだ。
「千瀬さんが悪いわけではありません」
「それは分かります」
「私も、嬉しいのです」
「はい」
「真白姉、と呼ばれて」
その言葉を口にした時、真白の声が少しだけ揺れた。
「とても、嬉しかったのです」
「……」
「私は一人っ子ですから。あのように、まっすぐ親しくしていただくことに、慣れておりません」
「そうなんですね」
「はい」
真白は、指先をそっと重ねた。
「だから、嬉しいです。嬉しいからこそ、怖いのです」
「怖い」
「はい」
恒一は何も言えなかった。
嬉しいから怖い。
その感覚は、何となく分かるようで、分からない。
ただ、真白が本当にそう感じていることは分かった。
千瀬ちゃんに懐かれたことを嫌がっているのではない。
むしろ嬉しい。
だが、そこに何か別の不安がある。
恒一の知らない理由が。
「北条さん」
「はい」
「俺は、神様から何も聞いていません」
「はい」
「だから、理由は分かりません」
「……はい」
「でも、千瀬ちゃんが北条さんを慕っているなら、それ自体は悪いことじゃないと思います」
真白が、ゆっくり恒一を見る。
「嬉しいなら、嬉しいと思っていいんじゃないですか」
「……」
「怖い理由があるなら、それはいつか聞きます」
「はい」
「でも、今は」
恒一は少しだけ考えてから言った。
「千瀬ちゃんと仲良くなっても、いいと思います」
真白の目が、わずかに揺れた。
「恒一様は」
「はい」
「それを、許してくださるのですか」
「許すというか」
恒一は困った。
許す立場ではない。
真白と千瀬ちゃんの関係だ。
恒一が許すとか、許さないとか、そういう話ではない。
「俺が決めることじゃありません」
「……」
「でも、北条さんがそれを嬉しいと思っているなら、俺は嬉しいです」
「……嬉しい」
「はい」
真白は、しばらく恒一を見ていた。
黒曜石のような瞳が、少しだけ潤んでいるようにも見えた。
だが、涙は落ちなかった。
代わりに、真白は静かに微笑んだ。
「ありがとうございます」
「いえ」
「恒一様にそう言っていただけると、少しだけ安心します」
「少しだけですか」
「はい」
「もう少し安心してもいいと思います」
「努力します」
努力するところなのか。
そう思ったが、恒一は口には出さなかった。
真白は、胸の前でそっと手を重ねる。
「では、今日も料理部へ行ってまいります」
「はい」
「千瀬さんにも、きちんとお礼を伝えます」
「それがいいと思います」
「それと」
「はい」
「真白姉、と呼ばれることにも」
真白は少しだけ頬を赤くした。
「少しずつ、慣れようと思います」
「いいと思います」
恒一がそう言うと、真白は嬉しそうに微笑んだ。
その笑顔は、いつものように恒一へ向けられる強い笑顔とは少し違った。
もっと静かで。
少し不安で。
でも、確かに嬉しそうだった。
「ありがとうございます、恒一様」
真白は丁寧に頭を下げ、教室へ戻る方へ歩き出した。
数歩進んだところで、振り返る。
「恒一様」
「はい」
「いつか、きちんとお話しします」
「分かりました」
「その時まで、少しだけ待っていただけますか」
「待ちます」
恒一が答えると、真白は安心したように小さく息を吐いた。
そして、今度こそ教室へ戻っていった。
恒一は窓際に残されたまま、しばらく立っていた。
千瀬ちゃんが懐くこと。
真白姉と呼ぶこと。
それが嬉しいのに、怖いということ。
神様は何も言っていない。
真白も、今はまだ話さないと言った。
また、知らないことが増えた。
ただ一つだけ分かったことがある。
真白は、恒一に近づくことだけを考えているわけではない。
人に近づかれることにも、ちゃんと揺れる。
嬉しくて。
怖くて。
それでも、近づこうとしている。
恒一は、まだ真白のことをよく知らない。
そう思いながら、教室へ戻った。




