第155話 相談も少し難しい
■ニ年 A 組
昼休み。
恒一は、なんとか真白から離れることに成功した。
成功した、と言っていいと思う。
ここ最近の恒一にとって、真白から自然に離れるだけでも、それなりに難しいことになっている。教室で昼食を取る時も、真白は当然のように近くへ来るし、話しかければ嬉しそうに笑う。
少し褒めれば、かなり嬉しそうにする。困っていると言えば引いてくれる。
だが、こちらが何も言わなければ距離は近い。
かなり近い。
なので恒一は、昼食を終えたあと、基樹を呼んだ。
「基樹」
「ん?」
「少し話せるか」
基樹は、恒一の顔を見るなり、すぐに察したようだった。
「……また何かあったのか」
「ありすぎて整理したい」
「重いな」
「重い」
基樹は小さく息を吐いて、教室の隅へ移動してくれた。
彩音も、当然のようについてくる。
「彩音」
「聞くよ」
「まだ何も言ってない」
「聞いた方がよさそうな顔してる」
否定できなかった。
恒一は、できるだけ順番に話した。
今朝、起きたら真白が朝比奈家の台所にいたこと。母さんと一緒に朝食を作っていたこと。父さんが料理を食べて半泣きになっていたこと。そして、その料理が普通においしかったこと。
さらに、恒一が褒めたら真白が料理部に入ると言い出したこと。父さんに背中を叩かれたこと。かなり痛かったこと。
そこまで聞いて、基樹は額を押さえた。
「情報が多い」
「俺もそう思う」
彩音は少し笑っていた。
「朝からすごいね」
「すごいで済ませていいのか分からない」
「でも真白さん、料理できるんだ」
「ああ。かなりうまかった」
「へえ」
彩音の目が、少し興味深そうに細くなる。
「しかも朝比奈家に入り込む速度が速い」
「入り込むって言い方」
「外堀を埋める速度、と言い換えてもいいよ」
「どっちも怖い」
基樹が横から言った。
「で、道場の話は?」
「ああ」
恒一は続けた。
昨日、真田道場へ行ったこと。真白がついてきたこと。師匠が軽い気持ちで才能があると言ったこと。そして、実際に構えさせたら本当に才能があったこと。
さらに師匠が入門させようとしたこと。その瞬間、巴がかなり怖い顔になったこと。最終的に師匠が諦めたこと。
そこまで聞いて、基樹は少しだけ口元を引きつらせた。
「真田さん、怒ったのか」
「怒ったというか」
「というか?」
「鬼のようだった」
「お前が言うなら、本当に怖かったんだな」
「かなり」
彩音は楽しそうにうなずく。
「巴らしいね。道場は譲れなかったんだ」
「たぶん」
巴は、真白が道場に入ることを拒んだ。
理由は、恒一が集中できなくなるから。
それは、単なる嫉妬だけではなかったと思う。
あの場所は、恒一が強くなるために通っている場所だ。巴は、それを守ろうとしてくれた。
「真田さんは、ちゃんと見てくれてる」
恒一がそう言うと、彩音が少しだけ笑った。
「うん。そうだと思う」
基樹もうなずいた。
「それはいいことじゃん」
「ああ」
「でも、北条さんもさ」
基樹が、少し考えながら言った。
「普通にいい子じゃないか?」
「……」
「いや、困るのは分かるよ。距離近いし、婚約者とか言うし、いきなり家に来るし」
「分かってるなら」
「でも、礼儀正しいし、真っ直ぐだし、ちゃんと謝れるし、相手のことも考えられる」
それは否定できなかった。
真白は、陸上部には入らないと言った。恒一と巴に迷惑をかけたくないからだと。
真田道場でも、巴に止められれば引いた。朝の件も、恒一の家族を巻き込んだことは謝ってくれた。
確かに、いい子だ。
困るくらいに。
「それにさ」
基樹は、少しだけ言いにくそうに続けた。
「真っ直ぐで、礼儀正しくて、妙なところで頑固で」
「うん」
「結構、恒一に似てるよな」
「……俺に?」
「うん」
彩音が横で、すぐにうなずいた。
「分かる。方向は違うけど、二人ともかなり真っ直ぐ」
「……」
「しかも、真白さんはちゃんと綺麗で礼儀正しくて、恒一に好意全開でしょ?」
基樹が少し肩をすくめる。
「お似合いかもな、とは思う」
「基樹」
恒一の声が、少し低くなった。
基樹はすぐに手を上げる。
「悪い。言い方間違えた」
「……いや」
恒一も息を吐いた。
「北条さんが悪い子じゃないのは分かってる」
「うん」
「礼儀正しいし、誠実だし、真っ直ぐだし」
「うん」
「すごい可愛い」
そこまで言った瞬間。
背後から、椅子が鳴る音がした。
「……」
恒一は、ゆっくり振り返った。
真白が立っていた。
いつからいたのかは分からない。ただ、黒曜石のような瞳が、こちらをまっすぐ見ている。
そして、その顔がものすごく嬉しそうだった。
「恒一様」
「……北条さん」
「ありがとうございます」
「何がですか」
「礼儀正しく、誠実で、真っ直ぐで、すごい可愛いと」
「聞いてましたか」
「はい」
真白は、胸に手を当てて微笑んだ。
「とても嬉しいです」
「待ってください。今のは」
「はい」
「話の流れで」
「はい」
「いや、嘘ではないですけど」
「嘘ではないのですね」
しまった。
自分で逃げ道を塞いだ。
基樹が頭を抱える。
彩音は口元を押さえていた。
笑っている。
完全に笑っている。
「恒一様」
真白が一歩近づく。
「そのように思ってくださっていたのですね」
「いや、だから」
「嬉しいです」
次の瞬間、真白が飛びついてきた。
「……っ」
まただった。
昼休みの教室。
基樹と彩音の前。
クラスメートも普通にいる。
その中で、真白は恒一に抱きついてきた。
柔らかい。
いい匂いがする。
そして周囲がざわつく。
この流れを、恒一は最近何度経験しているのだろう。
「北条さん」
「はい」
「教室です」
「承知しております」
「では離れてください」
「少しだけ」
「少しも長いです」
真白は、名残惜しそうに離れた。
だが、笑顔だった。
かなりの笑顔だった。
「恒一様に褒めていただけたので、本日はとても良い日です」
「……そうですか」
「はい」
基樹が、低く呟いた。
「相談も難しいな」
「ああ」
恒一は心から同意した。
真白から少し離れて相談したはずだった。
なのに、結局聞かれていた。
そして抱きつかれた。
彩音は、まだ少し笑っている。
「恒一」
「なんだ」
「褒める時は場所を選ぼうね」
「覚えておく」
「あと、声量」
「覚えておく」
真白は、そんな二人のやり取りを見ながら嬉しそうにしている。
悪意はない。
むしろ、あまりにも素直に喜んでいる。
だからこそ、困る。
恒一は真白を傷つけたいわけではない。
でも、真白に流され続けるわけにもいかない。
その日の放課後、真白は予定どおり薙刀部へ向かった。
恒一がついて行く必要はないはずだった。
ないはずだったが、真白がこちらを見て、静かに言った。
「恒一様」
「はい」
「よろしければ、入部のご挨拶だけ見届けていただけませんか」
「なぜ俺が」
「安心するからです」
「……」
そう言われると弱い。
基樹が遠くで、また額を押さえていた。
彩音は小さく手を振っている。
行ってらっしゃい、という顔だった。
結局、恒一は薙刀部の活動場所までついて行くことになった。
体育館の一角では、薙刀部の部員たちが準備運動をしている。
真白が入口で丁寧に頭を下げた。
「失礼いたします」
その声に、部員たちが一斉に振り向いた。
部長らしい三年生の女子が、真白を見て目を丸くする。
「……北条真白さん?」
「はい。本日より、入部を希望しております」
「え、本当に?」
部長の顔が、一気に明るくなった。
「大会で見たことある。あなた、かなり強かったよね?」
「多少、たしなんでおります」
「いや、多少じゃないでしょ」
部長はすぐに顧問へ視線を向けた。
顧問も、真白の名前を知っているらしい。少し驚いた顔をしていた。
「入部希望はありがたいけれど、うちは見ての通り人数が多い部ではないわ。大丈夫?」
「はい」
真白は姿勢よく答えた。
「毎日参加できます。学業や他の予定に支障が出ない範囲で、きちんと稽古いたします」
その一言で、部長の目がさらに輝いた。
「毎日?」
「はい」
「毎日来てくれるの?」
「可能な限り」
「助かる……!」
部長は、かなり本気で喜んでいた。
「巴はすごく強いんだけど、剣道が本業だし、陸上部もあるし、弓道もあるし、こっちには毎日は来られないのよ」
「ああ……」
恒一は思わず納得した。
巴は何でもできる。
でも、何でもできるからこそ、全部に毎日いるわけではない。
部長は、真白を見る目を輝かせたまま続ける。
「北条さんが毎日来てくれるなら、かなり大きいよ。巴に匹敵する実力がある子が入るなら、来年、本当に全国も狙えるかも」
「過分なお言葉です」
「いや、本気で言ってる」
部長は完全に浮かれていた。
いや、浮かれるのも分かる。
薙刀部にとって、真白は即戦力なのだろう。しかも礼儀正しく、毎日来ると言っている。
それは喜ぶ。
かなり喜ぶ。
「じゃあ、少しだけ動きを見せてもらってもいい?」
「はい」
真白は静かにうなずき、用意された薙刀を受け取った。
その瞬間、昼休みや教室で見せていた雰囲気が少し消えた。
黒髪の小柄な少女が静かに構えると、すっと姿勢が整い、周囲の空気まで締まったように感じられた。
薙刀が動く。
音が鋭い。
速い。
だが、派手ではない。
滑るように足を運び、切っ先が迷わず通る。部員たちが息を呑む気配がした。
部長は、もう完全に笑っていた。
「すごい……!」
恒一も何も言えなかった。
真白が武道をたしなんでいることは知っていたし、真田道場でもその姿は見ている。
でも、薙刀を持った真白は、また違った。
ここが自分の場所だと言われれば、納得できる。
そんな動きだった。
「お願いします」
動きを終えると、真白は丁寧に頭を下げた。
「こちらこそお願いしたい!」
部長は即答した。
「本当に助かる。北条さんが入ってくれるなら、部の雰囲気も締まると思う」
「未熟者ですが、精一杯努めます」
「未熟者じゃないよ。絶対」
部長は嬉しそうに笑った。
恒一は、少しだけほっとした。
真白が、恒一を追いかけるためだけではない場所に立っている。
それは、たぶん良いことだ。
少なくとも、陸上部に入るよりはずっと自然だった。
ただ、薙刀部の部長があまりに嬉しそうだったので、真白はここでもあっという間に受け入れられそうだった。
それはそれで、少しすごかった。
薙刀部への挨拶を終えると、その足で真白は料理部にも顔を出した。
正直、行動が早すぎる。
思い立ったらすぐ動くというより、思い立った時にはもう半分動いている。
料理部は家庭科室で活動していた。
中から甘い匂いが漂ってくる。どうやらプリンを作っているらしい。
真白は入口で、また丁寧に頭を下げた。
「失礼いたします。北条真白と申します。料理部への入部を希望しております」
料理部の部長らしい女子が、ぱっと顔を明るくした。
「入部希望? 助かる!」
部員の数は、思っていたより少なかった。
テーブルもいくつか空いている。
「最近、部員が少なくてね。手が足りない日もあるから、来てくれるなら本当に助かるよ」
「ありがとうございます」
真白は丁寧に答えた。
「まだ未熟ですが、学ばせていただければと思います」
「未熟とか言える子、だいたいちゃんとしてるんだよね」
部長は笑った。
その横から、明るい声が飛んできた。
「あっ、転校生の真白さんだ!」
千瀬だった。
千夜の妹。
一年生。
料理部。
千瀬は、ぱっと花が咲いたような笑顔で、真白の前に駆け寄ってくる。
「やっぱり真白さんだ! わー、近くで見るとほんとに綺麗! お人形さんみたい!」
「え、あの」
真白が、少しだけ押されたように瞬きをする。
千瀬はまったく気にしていない。
「私、前田千瀬です。千夜の妹です!」
「前田千瀬さん」
真白が、少しだけ目を瞬かせる。
「前田千夜さんの妹さんですか」
「そうそう。お姉ちゃん知ってる?」
「はい。巴さんと親しくされている方ですよね」
「うん! 巴姉と仲いいよ!」
千瀬は、まったく遠慮のない調子でうなずいた。
真白はその呼び方に、ほんの少しだけ反応したようだった。
「巴姉、ですか」
「そう。巴姉! 強いし綺麗だし、たまにちょっと怖いけど、そこも巴姉って感じ!」
「……親しいのですね」
「親しいっていうか、巴姉は巴姉だから!」
説明になっていない。
だが、千瀬はそれで十分だと思っているようだった。
真白は少しだけ考え、それから柔らかく微笑んだ。
「素敵な関係ですね」
「でしょ!」
千瀬は、にっと笑う。
「それでそれで、真白さんって料理できるんですか?」
「少しだけ」
「あ、それ絶対できる人の言い方だ!」
「そうでしょうか?」
「そうそう。料理できない人は『少しだけ』って言わないから。『全然できないですう』って言うから」
「なるほど」
「で、できる人はだいたい静かに『少しだけ』って言う。私の中の料理部あるある!」
「勉強になります」
「真白さん、素直!」
千瀬はすでに楽しそうだった。
真白は少し押され気味だったが、嫌そうではない。
むしろ、少し戸惑いながらも目元が柔らかくなっている。
「じゃあ、真白さん。プリン混ぜます?」
「よろしいのですか」
「もちろん! 料理部は手を動かした人から仲間です!」
「素敵な考え方ですね」
「でしょ! はい、泡立て器どうぞ!」
千瀬は遠慮がなかった。
でも、嫌な遠慮のなさではない。
人の懐に、するっと入っていくような明るさだった。
真白も少し戸惑いながら、泡立て器を受け取る。
料理部の部長も、ほっとしたようにうなずいた。
「千瀬ちゃんがいるなら、すぐ馴染めそうだね」
「はい! 私、仲良くなるの得意です!」
「自分で言うんだ」
「得意なので!」
千瀬は堂々と言った。
真白は千瀬に案内されて、ボウルの前へ立つ。
白い指が泡立て器を持つ。
姿勢がいい。
料理部の空気の中でも、やはりどこか目立つ。
けれど、薙刀を持った時とは違う。
今の真白は、少しだけ肩の力が抜けていた。
「真白さん、混ぜる時は力を入れすぎないでね」
「はい」
「優しく。でもちゃんと混ぜる。人間関係みたいな感じ」
「人間関係、ですか」
「うん。強く混ぜすぎると空気入りすぎるし、弱すぎると混ざらないからね」
「……深いですね」
「でしょ!」
千瀬は胸を張った。
「でも、私はたまに混ぜすぎてお姉ちゃんに止められます!」
「止められるのですか」
「うん。『千瀬、そこまで』って言われる」
「……想像できます」
「あ、真白さん笑った!」
「え」
「今ちょっと笑いましたよね? やった、笑顔いただきました!」
「いただきました?」
「料理部では笑顔も材料です!」
「そうなのですか」
「今決めました!」
勢いがすごい。
恒一は少し離れた場所で、その様子を見ながら思った。
千瀬は強い。
真白とは別の方向で強い。
真白が丁寧に距離を詰めるのだとしたら、千瀬は明るさで一気に踏み込む。
しかも悪意がない。
真白は完全に押されている。
でも、なぜか楽しそうだった。
「真白さん、明日も来ますよね?」
「はい。そのつもりです」
「やった! じゃあ明日も一緒に作ろう!」
「はい。よろしくお願いいたします」
「あとさあとさ」
千瀬が、ふと思いついたように顔を近づけた。
「真白さんって、真白姉って呼んでもいい?」
「……真白姉、ですか」
真白の動きが、ほんの少しだけ止まった。
一瞬だけ、表情が揺れる。
嬉しいような。
戸惑っているような。
怖がっているような。
そんな小さな揺れだった。
けれど千瀬は、悪びれずに笑っている。
「うん! なんか真白さんって、綺麗なお姉さんって感じするし! だめ?」
「……」
真白は少しだけ目を伏せた。
それから、静かに微笑む。
「だめでは、ありません」
「じゃあ、真白姉!」
早い。
呼び始めるのが早すぎる。
真白は少し驚いた顔をした。
だが、すぐに小さく笑った。
「はい、千瀬さん」
「千瀬でいいよ!」
「……千瀬さん」
「まあ、今日はそれでいっか。明日には千瀬になってるかもだし!」
「努力します」
「やった!」
千瀬は本当に嬉しそうだった。
真白は少し困ったように笑っている。
けれど、その笑みは、教室で恒一に向けるものとは少し違っていた。
押されている。
戸惑っている。
でも、嬉しい。
そんな顔だった。
恒一は、そのやり取りを見ていた。
真白は、少しだけ楽しそうだった。
でも、その嬉しさの奥に、ほんのわずかな不安があるようにも見えた。
近づかれること。
懐かれること。
それを本当は嬉しいと思っているのに、同時に怖がっているような。
そんな顔だった。
昼休みに、基樹が言った。
北条さん、普通にいい子じゃないか。
その言葉を、恒一は否定できなかった。
否定できないまま。
真白が千瀬に「真白姉」と呼ばれて、少しだけ困ったように笑う姿を、ただ見ていた。




