第154話 朝食と抱擁は別問題
■朝比奈家
朝。
目が覚めた時点で、恒一は少しだけ嫌な予感がしていた。
理由は分からない。ただ、最近の恒一の生活において、嫌な予感というものはだいたい当たる。
昨日もそうだった。一昨日もそうだった。その前も、たぶん当たっていた。
だから、布団から起き上がった時点で、恒一は少し警戒していた。
顔を洗い、着替えて、階段を下りる。
すると台所から、楽しそうな母さんの声が聞こえてきた。
「あら、真白ちゃん、手際がいいわね」
「ありがとうございます、お母様。まだ不慣れなところもありますが」
「そんなことないわよ。すごく丁寧」
「お母様にそう言っていただけると、励みになります」
恒一は階段の途中で止まった。
聞き間違いではない。
真白の声だった。
朝。
自分の家。
台所。
母さんと真白。
「……」
逃げたい。
だが、ここは自分の家だ。逃げ場がない。
恒一はゆっくり階段を下り、リビングへ入った。
そこには当然のように真白がいた。
黒髪を軽くまとめ、白いエプロンをつけている。日本人形のような顔立ちなのに、母さんの隣で台所に立つ姿は妙に馴染んでいた。
真白は味噌汁をよそいながら恒一に気づくと、いつものように丁寧に頭を下げた。
「おはようございます、恒一様」
「……おはようございます」
ただし、手にはお玉を持っていた。
なぜだ。
「北条さん」
「はい」
「なぜ、朝からうちにいるんですか」
「お母様にご挨拶を兼ねて、朝食のお手伝いをさせていただいております」
「ご挨拶の頻度が高い」
「大切なことですので」
「高すぎる」
恒一の言葉に、真白は少しだけ首を傾げた。
母さんは笑っている。
「いいじゃない。真白ちゃん、すごく助かるわ」
「母さん」
「それに、朝早くから来てくれるなんて、可愛いじゃない」
「可愛いの問題じゃない」
「可愛いわよ」
母さんは完全に真白側だった。
昨日から分かっていたが、改めて分かった。
母さんは、真白にかなり弱い。
食卓には、すでに朝食が並んでいた。
白いご飯に味噌汁、焼き魚、卵焼き、小鉢。
いつもの朝食より少し品数が多く、見た目もかなり整っている。
その横では、父さんが席に座り、なぜか目元を押さえていた。
「父さん」
「恒一」
「どうした」
「うまい」
「まだ食べてたのか」
「うまいんだ」
父さんは、箸を持ったまま震えていた。
「朝からこんなに丁寧な料理を作ってくれる子がいるなんてな……」
「泣くほどか」
「泣くほどだ」
「泣かないでほしい」
父さんは、本当に少し涙ぐんでいた。
真白は照れたように微笑む。
「お口に合ったようで、安心いたしました」
「合うどころじゃないよ、真白ちゃん」
父さんは感動した顔でうなずいた。
「恒一」
「何」
「お前は幸せ者だな」
「まだ何も起きてない」
「起きてるだろ。朝食が」
「そこじゃない」
母さんが恒一の席にご飯を置いた。
「ほら、食べてみなさい」
「……いただきます」
恒一は椅子に座り、箸を取った。
まず味噌汁を飲む。
出汁がきいていて、優しい味だった。
次に卵焼きを口にする。甘すぎず、柔らかい。
普通にうまい。
かなりうまい。
「……おいしい」
思わず口にすると、真白の表情がぱっと明るくなった。
「本当ですか」
「ああ」
「嬉しいです」
その笑顔は、かなり素直だった。
昨日から何度も思っているが、真白は喜ぶ時、本当に分かりやすい。
見ていると少し困る。
可愛いと思ってしまうからだ。
だが、それを顔に出せば、またややこしくなる。
恒一はできるだけ普通に続けた。
「料理、得意なんですね」
「はい。まだ未熟ですが、好きです」
「そうなんですか」
「恒一様も、お料理がお得意だと伺いました」
「……誰から」
「お母様からです」
恒一は母さんを見た。
母さんはにこにこしている。
「言ったわよ。恒一は料理が好きだって」
「余計なことを」
「余計じゃないわよ。いいところじゃない」
真白は、まっすぐ恒一を見た。
「恒一様も、お料理がお好きなのですか」
「まあ、好きです」
「では」
真白の瞳が、静かに輝いた。
「私、料理部に入りたいと思います」
「……はい?」
「もっと美味しいものを作れるようになりたいのです」
真白は少しだけ父さんと母さんを見た。
母さんは嬉しそうにうなずいている。
父さんは、もう半泣きだった。
「お父様にも、お母様にも、喜んでいただけました。恒一様にも、美味しいと言っていただけました」
「はい」
「なら、もっと学びたいです」
「それで料理部」
「はい」
「理由は分かりました」
「ありがとうございます」
「納得はしていません」
真白は、少し不思議そうにした。
父さんが恒一の背中を、ばしん、と叩く。
「痛い」
「恒一」
「何」
「幸せ者だな」
「父さん、痛い」
「こんな子が、お前のために料理を覚えるって言ってるんだぞ」
「だから、背中を叩く理由にはならない」
「朝から泣かせるなあ」
「俺は泣かせてない」
ばしん。
「痛いって」
父さんは半泣きのまま、さらに背中を叩いてきた。
かなり痛い。
感動を息子の背中で表現しないでほしい。
「真白ちゃん」
母さんが嬉しそうに真白を見る。
「料理部、いいと思うわ。真白ちゃんなら、きっともっと上手になるわよ」
「ありがとうございます、お母様」
「今度、恒一とも一緒に作ったら?」
「母さん」
「まあ」
真白の頬が、ほんのり赤くなる。
「恒一様と一緒にお料理……」
「想像しないでください」
「失礼しました」
真白はすぐに頭を下げた。
だが、少し嬉しそうだった。
父さんがまた恒一の背中を叩く。
ばしん。
「痛い」
「青春だなあ」
「朝食の話です」
「朝食から始まる青春もある」
「ないと思う」
「ある」
父さんは楽しそうだった。
母さんも楽しそうだった。
真白は嬉しそうだった。
恒一だけが痛かった。
いろいろな意味で。
朝食を終えると、学校へ向かう時間になった。
真白は母さんに丁寧に礼を言い、父さんにも深く頭を下げた。
「本日は朝からお邪魔いたしました」
「いつでも来てね、真白ちゃん」
「ありがとうございます、お母様」
「また朝食、楽しみにしてるよ」
「はい、お父様」
父さんの顔がまた崩れた。
昨日から何度も崩れている。
そろそろ戻らなくなるのではないかと、恒一は少し心配になった。
鞄を持って玄関を出ると、当然のように真白も隣に並んで歩き出す。
「北条さん」
「はい」
「朝食はおいしかったです」
「ありがとうございます」
「でも、毎朝来るのはやめてください」
「……ご迷惑でしたか」
「迷惑というか、家族がすごい勢いで巻き込まれています」
「それは、申し訳ありません」
真白は素直に頭を下げた。
こういうところは、本当にちゃんとしている。
だから、強く言いづらい。
「事前に連絡してくれれば」
「はい」
「いや、事前に連絡があっても毎日は困る」
「では、時々であれば」
「……要相談で」
「承知しました」
真白は嬉しそうだった。
また少し譲歩したつもりが、前進に変換された気がする。
恒一は小さく息を吐き、そのまま通学路を歩いた。
朝の光の中で、真白は昨日より少し落ち着いて見える。
昨日のように、すぐ腕へ抱きついてくることもない。
半歩横を、丁寧に歩いている。
「そういえば」
真白が言った。
「はい」
「陸上部には、入りません」
恒一は思わず足を止めそうになった。
「……本当ですか」
「はい」
「それは」
少しだけ、ほっとした。
正直に言えば、かなりほっとした。
陸上部は、今の恒一にとって大事な場所だ。
巴がいる。
ひよりもいる。
佐藤もいる。
恒一が基準タイムに届くために向かっている場所でもある。
そこに真白が入れば、どうしても騒ぎになる。
だから、入らないと言ってくれたことは助かった。
「ありがとうございます」
恒一が言うと、真白は少しだけ首を横に振った。
「お礼を言われることではありません」
「でも、正直助かります」
「恒一様と、巴さんに、これ以上ご迷惑をおかけしたくありませんので」
「……」
恒一は真白を見る。
真白は、まっすぐ前を見ていた。
「私は、恒一様を知りたいと思いました。だから陸上部に入りたいと申し上げました」
「ああ」
「ですが、あの場所は、恒一様がご自身のために努力される場所であり、巴さんにとっても大切な場所です」
「……」
「そこへ私情だけで入るのは、違うと考え直しました」
恒一は驚いた。
いや、真白がちゃんと考える人だということは分かっていた。
だが、ここまではっきり言われると、少し胸が痛くなる。
真白を、ただ困った存在として見すぎていたのかもしれない。
「……すみません」
自然に言葉が出た。
真白がこちらを見る。
「なぜ謝るのですか」
「俺が、少し警戒しすぎていたかもしれません」
「警戒される行動をしたのは、私です」
「それでも」
恒一は少しだけ言葉を探した。
「君は、ちゃんと考えてくれていた」
真白の目が、わずかに揺れた。
それから、嬉しそうに微笑んだ。
「恒一様にそう言っていただけると、救われます」
「大げさです」
「私にとっては、大げさではありません」
そう言われると、返せなかった。
真白は続ける。
「その代わり、薙刀部に入ります」
「薙刀部」
「はい」
「それは、北条さんの得意分野ですね」
「はい。武道であれば、自分の場所として向き合えます」
それはいいと思った。
真白が、真白自身の場所に立つ。
恒一を知るためだけでなく、自分の力を使える場所へ行く。
その方が、ずっと自然だった。
「それと、先ほど申し上げた通り、料理部にも入る予定です」
「本当に入るんですね」
「はい」
「朝食の流れで」
「はい」
「行動が早いですね」
「思い立ったことは、早めに形にした方がよいと思いまして」
「北条さんらしいです」
「ありがとうございます」
「褒めたかどうかは微妙です」
「褒め言葉として受け取ります」
真白は静かに微笑んだ。
「恒一様は料理がお好きです。お父様とお母様も、私の朝食を喜んでくださいました。ですから、もっと美味しいものを作れるようになりたいのです」
「そこは俺のためだけじゃなくて、自分のためでいいんじゃないですか」
「もちろん、自分のためでもあります」
「ならいいです」
「ですが、一番は恒一様と、恒一様の大切な方々に喜んでいただくためです」
「そこを少し抑えてほしい」
「努力します」
努力。
この場合の努力は、どちらへ向かうのだろう。
少し不安だった。
それでも、陸上部に入らないと聞いて、恒一の気持ちはかなり軽くなっていた。
「北条さん」
「はい」
「考えてくれて、ありがとう」
そう言った瞬間、真白が足を止めた。
そして次の瞬間。
恒一に抱きついてきた。
「……っ」
まただった。
朝の通学路。
学校へ向かう途中。
真白の小柄な体が、恒一の胸元へ飛び込んでくる。
柔らかい。
いい匂いがする。
分かっていても、動揺する。
「恒一様」
「北条さん」
「嬉しいです」
「それは分かりました」
「私のことを、少し認めてくださった気がしました」
「……」
違う、とは言えなかった。
実際、少し見直した。
真白は困った存在だ。
だが、それだけではない。
ちゃんと考え、反省し、引くところは引ける。
そのことが分かった。
だからこそ。
「でも、通学路なので離れてください」
「はい」
真白は素直に離れた。
そこまではよかった。
よかったのだが。
「あ……」
小さな声がした。
恒一は、ゆっくり振り向いた。
道の少し先に、ひよりが立っていた。
鞄を胸の前で抱えるようにして、こちらを見ている。
目が、完全に固まっていた。
ひよりは恒一と真白を見た。
それから、真白が離れたばかりの距離を見た。
そして、もう一度恒一を見る。
「朝比奈先輩……」
「白石」
まずい。
非常にまずい。
誤解される。
いや、誤解ではない。
抱きつかれていたのは事実だ。
でも、文脈が違う。
文脈を説明するには、いろいろ長い。
そして説明したところで、たぶんさらにややこしい。
真白は、ひよりへ向かって丁寧に頭を下げた。
「おはようございます。北条真白と申します」
「……お、おはようございます」
ひよりは反射的に頭を下げた。
その目は、まだ揺れている。
真白は静かに微笑む。
「白石ひよりさんですね」
「え」
「恒一様の後輩で、陸上部の方だと伺っております」
「……はい」
ひよりの声が小さくなる。
恒一は頭を抱えたくなった。
まただ。
また、何かが始まりそうだった。
「白石」
「はい」
「これは」
説明しようとして、止まった。
これは、何だ。
恒一にも分からない。
真白が陸上部に入らないと言ってくれて、薙刀部と料理部に入ると言って、恒一が礼を言ったら、嬉しくなって抱きついてきた。
そのまま説明しても、かなり危ない。
いや、完全に危ない。
「……すまん」
なぜか謝った。
ひよりは、さらに困った顔になった。
「いえ、その……」
ひよりの視線が、恒一と真白の間を何度も行き来する。
真白。
婚約者を名乗る美少女。
朝から恒一の家で朝食を作っていた。
恒一と一緒に登校している。
そして、目の前で恒一に抱きついていた。
ひよりにとっては、相当な情報量だろう。
真白は、そんな空気の中でも変わらず礼儀正しく立っている。
「白石さん」
「はい」
「よろしければ、今後ともよろしくお願いいたします」
「……こちらこそ」
ひよりは戸惑いながら答えた。
恒一は、ただ立っていた。
朝から真白が朝食を作っていて、父さんが半泣きになって、背中を叩かれた。
料理部に入ると言われ、陸上部には入らないと聞いて安心した。
少し見直して礼を言ったら抱きつかれ、その場面をひよりに見られた。
まだ学校にも着いていない。
それなのに、もうかなり疲れている。
ひよりの目には、明らかに疑問符が浮かんでいた。
そして恒一も、心の中で同じものを浮かべていた。
今日を、どう乗り切ればいいのだろうか。




