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恋愛台帳、時代ズレにつき修正不能  作者: サザルト
第3章 真白な頁に名前が灯る編

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第153話 勝ち方がわからない

■空き教室


 放課後。


 千夜は、巴に呼び出されて空き教室へ来ていた。


 教室には二人しかいない。窓の外からは、まだ部活動の声が聞こえていた。陸上部の掛け声、吹奏楽部の音、どこか遠くで誰かが笑う声。


 そんな日常の音が続く中、巴は椅子に座り、腕を組んだまま黙っていた。千夜はその向かいの席に座り、しばらく待ってから口を開いた。


「……で」


「何?」


 巴はすぐには答えなかった。視線は机の上に落ちたままで、指先だけが軽く机を叩いている。


 苛立っている時の癖だった。


「北条のこと」


「うん」


「どう思う」


 短い問いだったが、軽い話ではない。


 千夜は少しだけ考えてから答えた。


「変わってる」


「それは分かってる」


「距離が近い」


「それも分かってる」


「強い」


 巴の指が止まった。


「……何が?」


「いろいろ。言葉も。行動も。覚悟も」


 千夜が淡々と答えると、巴は少しだけ不満そうに目を細めた。


「褒めてる?」


「たぶん」


「敵を褒めないで」


「敵なの?」


 千夜にそう聞かれ、巴は言葉に詰まった。


 敵。


 そう言い切れれば、もっと楽だった。


 真白は、明らかに恒一との距離が近い。転校初日から抱きつき、婚約者だと名乗り、朝には家まで迎えに行く。家にも上がり、恒一の両親にもすでに気に入られている。


 陸上部にも来た。真田道場にも来た。


 そのうえ妙に礼儀正しく、やることには筋を通そうとする。


 怒りたいのに、完全には怒りきれない。


 そこが、一番腹立たしかった。


「……分からない」


 巴は小さく言った。


「でも、嫌」


「うん」


「朝比奈との距離が近い」


「うん」


「近すぎる」


「うん」


「すぐ抱きつく」


「うん」


「恒一様って呼ぶ」


「うん」


「婚約者って言う」


「うん」


「朝比奈の家に行って、朝比奈の両親とも仲がいいらしい」


「うん」


「道場にも来た」


「うん」


「しかも、祖父様が入門させようとした」


「それは聞いた」


「止めた」


「うん」


「止めたけど……」


 巴はそこで言葉を切った。机を叩いていた指先が、また少しだけ動く。


「よく分からないことも言われた」


「うん」


「あなたも無関係じゃないとか、私たちの話とか」


「うん」


「あれ、何?」


「分からない」


 千夜はあっさり答えた。


 巴が少し睨む。


「千夜にも分からないの?」


「分からない。ただ、適当に言ってる感じではなかった」


「それが嫌」


「うん」


 真白の言葉は、意味が分からない。


 けれど、ただ巴を挑発するために口にしたようにも聞こえなかった。何かを知っている人間の言い方だった。


 それが、巴には気に入らない。


 自分だけが知らない場所から話をされているようで、恒一も何かを知っているのに言えない顔をしていて、真白だけが少し先に立っているように見える。


 それが、どうしようもなく嫌だった。


「朝比奈も、何か隠してる」


「うん」


「言えないって言う」


「うん」


「最近、そればっかり」


「前もあったね」


「……あった」


 約束。


 距離。


 言えないこと。


 巴はそれで、一度かなり傷ついた。


 ようやく少し落ち着いてきたと思ったところで、今度は真白が現れた。


 恒一はまた、何かを言えない顔をしている。


 前と同じようで、少し違う。


 けれど、感じる苛立ちはよく似ていた。


「千夜」


「何?」


「北条のこと、何か知ってる?」


 その問いに、千夜は少しだけ姿勢を変えた。


「少し調べた」


「調べたの?」


「気になったから」


 千夜らしい返事だった。


 自分から積極的に人を動かすようなことはしないが、必要だと思えば情報は集める。そして聞かれれば、答えられることは答える。


「北条真白。九州の学校から転校。二年A組」


「それは知ってる」


「かなり急な転校だったみたい」


「急?」


「うん。手続きは通ってる。でも、普通より急」


「……」


「家もこっちに移ってるらしい」


「家ごと?」


「たぶん」


 巴の眉が寄った。


「そこまでして?」


「朝比奈君に会うため、って本人は言ってる」


「……重い」


「うん」


 千夜はそのまま続けた。


「それと、北条は転校前から、学校外の活動もかなりしてたみたい」


「学校外?」


「地域の清掃活動とか、児童施設の手伝いとか、福祉施設の行事補助とか」


「……何それ?」


「ボランティア」


 巴は黙った。


「学校の先生からの評価も高い。成績もいい。礼儀もいい。大会実績もある。そういう奉仕活動の記録も多い。こっちに来る前から、かなり真面目にやってたみたい」


「外堀だけじゃないの?」


「うん」


 巴の声が低くなる。


「そこまでちゃんとしてるの」


「ちゃんとしてる」


「……嫌な情報」


「うん」


「なんでそういうことするの」


「いい子だからじゃない?」


「敵を褒めないで」


「敵かどうか、まだ分からない」


「嫌な言い方」


 巴は顔をしかめた。


 真白は強引だ。


 かなり強引だ。


 けれど、ただのわがままな転校生ではない。


 礼儀正しく、筋も通そうとする。それだけでも厄介なのに、転校する以前から奉仕活動まで続けていた。


 嫌いになるには、材料が足りない。


 腹は立つ。


 近づかれるのも嫌だ。


 それなのに、悪い人間だと決めつけられない。


 そのことが、さらに腹立たしかった。


「あと」


 千夜は続けた。


「北条、陸上部に入ろうとしてるらしい」


 巴の指が止まった。


「……知ってる」


「そう」


「今日、道場の前にもその話があった」


「うん」


「本当に入る気なんだ」


「たぶん」


「陸上経験は?」


「ないらしい」


「ないのに?」


「朝比奈君が陸上部だから」


 巴は、ゆっくり息を吐いた。


「……強い」


「うん」


「意味が分からないくらい、強い」


「うん」


「朝比奈がいるから陸上部に入るって、普通に言えるんだ」


「言えるタイプだと思う」


「私は無理」


「うん」


「無理っていうか、言ったら終わる気がする」


「巴が言ったら、たぶん朝比奈君が固まる」


「……嫌」


「うん」


 千夜は少しだけ視線を落とした。


「でも、そこが北条の厄介なところだと思う」


「何が?」


「まっすぐ来るところ」


 巴は黙った。


「もし北条が、裏で何かを画策して、朝比奈君を追い込むような人だったら、朝比奈君はたぶん好きにならない」


「……」


「少なくとも、雑に嫌えない相手にはならないと思う。でも北条は、かなりまっすぐ来てる」


「まっすぐ?」


「うん。近い。強い。重い。でも、隠れて嫌なことをする感じじゃない」


 千夜は一度言葉を切ってから続けた。


「抱きつく時は抱きつく。婚約者だと言う時は言う。家にも行く。陸上部にも入りたいと言う。全部、正面から来てる」


「それが嫌」


「うん」


「隠れてやってくれた方が嫌えるのに」


「そうだね」


 千夜はうなずいた。


「しかも、礼儀正しい」


「……」


「謝るところは謝る」


「……」


「人の話も、一応聞く」


「……」


「奉仕活動もしてる」


「もう言わないで」


「うん」


 巴は額に手を当てた。


 真白が嫌いだ。


 そう言ってしまいたい。


 けれど、千夜の話を聞けば聞くほど、それが難しくなっていく。


 嫌なのは確かだった。


 近づかれるのも嫌だし、恒一の隣にいるのを見るのも嫌だ。


 それでも、悪い人間だと決めつけるには、真白はあまりにも正面から来ている。


 そして恒一は、そういう相手を雑に扱えない。


 相手が真剣なら、困っていても、逃げたくても、ちゃんと受け止めようとする。


 巴は、恒一がそういう人間だと知っている。


 知っているからこそ、苦しかった。


「朝比奈君も、北条をないがしろにはできないと思う」


 千夜が言った。


「分かってる」


 巴は小さく答えた。


「朝比奈は、そういうやつだから」


「うん」


「まっすぐ来る相手を、嫌ったりできない」


「うん」


「それが、朝比奈のいいところ」


「うん」


「でも、今は最悪」


「うん」


 千夜は否定しなかった。


 否定してほしかったわけではない。


 ただ、分かってもらえればよかった。


「千夜」


「うん」


「どうしたら勝てる?」


 千夜が、珍しく少しだけ目を見開いた。


「勝つ?」


「北条に」


「……」


「真剣に聞いてる」


 巴の声は、本当に真剣だった。


 恥ずかしがっている様子もなく、怒ってもいない。ただ、自分では分からないことを聞いている顔だった。


 千夜は少し考えた。


「勝つって、何で?」


「……何で?」


「料理? 家族への挨拶? 距離の近さ? 部活? 道場? 奉仕活動?」


「全部」


「欲張り」


「うるさい」


 巴は少しだけ視線を逸らした。


「だって、北条は全部やってくる」


「うん」


「私は、何をすればいいか分からない」


「うん」


「朝比奈に近づくと、変な感じになる」


「変な感じ?」


「……怒りたくなる」


「うん」


「でも、怒りたいわけじゃない。北条に近づかれると嫌。でも、私が朝比奈に近づく理由も分からない」


「好きだからじゃない?」


 千夜が普通に言った。


 巴は固まった。


「……」


「違うの?」


「……違わない、かもしれない」


「なら、それでいいんじゃない」


「よくない」


 巴は机に視線を落とした。


「北条みたいに言えない」


「うん」


「抱きつけない」


「うん」


「婚約者とか言えない」


「言わなくていいと思う」


「家に挨拶とかできない」


「今はしなくていいと思う」


「お父様、お母様とか無理」


「それはたぶん無理」


「ボランティアで評価されるのも、今から急にやったら変」


「急にやったら変」


「陸上部にはもういる」


「それは勝ってる」


 巴が少しだけ顔を上げた。


「勝ってる?」


「うん」


「そこ、勝ってる?」


「北条はこれから入ろうとしてる。巴はもういる。副部長だし、朝比奈君と同じ場所で、ちゃんと積み重ねてる」


 巴は黙った。


 千夜の言葉は、慰めではなかった。


 ただ、千夜から見ればそうだという話だった。


「北条は北条の戦い方をしてる」


「うん」


「巴は同じことしなくていい」


「でも」


「たぶん、朝比奈君は巴に北条みたいなことを求めてない」


 巴は黙って千夜を見る。


「朝比奈君は、巴が走ってるところを見てる。巴が違うことを違うって言ったことも、たぶんすごく残ってる」


「そうかな」


「うん」


「……」


「それに、北条のおかげで朝比奈君と話す機会も増えてる」


 巴の眉が動いた。


「おかげ?」


「うん」


「嫌な言い方」


「でも事実」


 千夜は淡々と言った。


「北条が来てから、巴は朝比奈君と話す回数が増えた。怒ってる時もあるけど、それでも話してる」


 巴は返せなかった。


 確かにそうだった。


 真白が来てから、恒一と話す場面は増えた。


 陸上部で。


 廊下で。


 道場で。


 教室の噂の件でも。


 以前なら遠くから見て、苛立って、何も言えないまま終わっていたかもしれない。


 今は違う。


 嫌でも話さなければならない。


 それは腹立たしい。


 けれど、確かに接点でもあった。


「……北条のおかげっていうのが嫌」


「うん」


「かなり嫌」


「分かる」


「でも、否定できない」


「うん」


 巴は額に手を当てた。


「どうしたらいいの」


「まず、朝比奈君と普通に話せば」


「普通に?」


「うん」


「何を」


「練習のこととか」


「練習?」


「陸上部の基準タイム、次いつ受けるのかとか」


 巴は少しだけ考えた。


 それなら話せる。


 恋とか、真白とか、婚約者とかではなく。


 練習。


 走り。


 努力。


 それなら巴にも言葉がある。


「……それなら、話せるかも」


「じゃあ、それで」


 千夜は短く言った。


「北条みたいに全部を一気に詰めなくていいと思う」


「詰める?」


「距離」


「ああ」


「巴は、巴の距離でいいんじゃない」


 巴は黙った。


 自分の距離。


 真白は、いきなり近い。


 近すぎる。


 自分にはできない。


 でも、自分が同じになる必要はない。


 そう思うと、少しだけ呼吸がしやすくなった。


「……千夜」


「何?」


「私、負けたくない」


「うん」


「でも、どう勝てばいいか分からない」


「うん」


「だから」


 巴は、少しだけ恥ずかしそうに目を逸らした。


「また聞く」


「いいよ」


 千夜はすぐに答えた。


「ただ、私はどうしろとは言わない」


「分かってる」


「意見は言う」


「それでいい」


 巴は、少しだけ息を吐いた。


 まだ何も解決していない。


 真白は強い。


 恒一との距離も近く、両親にも好かれている。礼儀正しく、外堀を埋めるのも早い。


 しかも、ただ近づいてくるだけではなく、これまで善行まで積み重ねている。


 陸上部にまで、正面から入ろうとしていた。


 巴には、まだ分からないことが多すぎる。


 それでも、ひとつだけ分かった。


 同じ土俵に立つ必要はない。


 自分は、自分の距離で恒一と向き合うしかない。


「……練習のこと」


 巴は小さく呟いた。


「うん」


「聞いてみる」


「うん」


 千夜はうなずいた。


 窓の外から、陸上部の声が聞こえている。


 たぶん、恒一もどこかで走っている。


 真白も、またどこかから見ているかもしれない。


 そう考えると、少しだけ腹が立つ。


 でも今は、その腹立たしさごと前に持っていくしかなかった。


 巴は立ち上がった。


「行く」


「どこへ?」


「グラウンド」


「今から?」


「うん」


「朝比奈君に聞くの?」


「……練習のことだけ」


 千夜は、ほんの少しだけ口元を緩めた。


「それでいいと思う」


 巴は何も言わず、教室を出た。


 勝ち方は、まだ分からない。


 でも、少なくとも立ち止まっている場合ではなかった。



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