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恋愛台帳、時代ズレにつき修正不能  作者: サザルト
第3章 真白な頁に名前が灯る編

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第152話 道場の門は少し狭い

■住宅地


 放課後、部活終了後


 恒一は、真田道場へ向かっていた。


 学校から少し離れ、住宅街を抜け、古い塀の続く道へ入る。


 いつもの道だった。


 夕方の風は少し冷たく、道場の方角からは、どこか乾いた木の匂いが流れてくるような気がする。


 今日は、少し落ち着いて稽古ができる。


 そう思っていた。


 思っていたのだが。


「恒一様」


 隣から、澄んだ声がした。


「本日は、こちらへ向かわれるのですね」


「……北条さん」


「はい」


「なぜ、ついて来ているんですか」


 真白は、当然のように隣を歩いていた。


 黒髪は夕方の光を受けて静かに艶めき、小柄な体はいつものように整っている。


 学校帰りの道を歩いているだけなのに、どこか場違いなくらい綺麗だった。


「恒一様が、何を見て、何を学んでおられるのか知りたいのです」


「それは分かりました」


「ありがとうございます」


「分かっただけで、許可したわけではありません」


「では、許可をいただけますか」


「……」


 恒一は少し黙った。


 断るべきだ。


 それは分かっている。


 真田道場は、恒一の家ではない。


 恒一が勝手に人を連れて行っていい場所ではない。


 だが、真白は一度言えば、ちゃんと聞く。


 昨日も、困っていると言えば少し離れた。


 朝の件も謝罪した。


 昼の件でも、言いすぎたことは認めた。


 強引ではある。


 かなり強引ではある。


 ただ、こちらの言葉を完全に無視するわけではない。


 だから、余計に断りづらい。


「真田道場は、俺の家じゃありません」


「はい」


「真田さんの家です」


「存じております」


「だから、俺が勝手に連れていく場所じゃない」


「では、真田家の方にご挨拶いたします」


「そういう問題でもなくて」


「難しいですね」


「難しいんです」


 恒一は、深く息を吐いた。


 最近、このため息が増えた気がする。


 主に真白が来てから。


「見学だけです」


 恒一は言った。


「稽古の邪魔はしないでください」


「承知しました」


「あと、勝手に何か始めないでください」


「はい」


「師匠に何か言われても、すぐ返事しないでください」


「……何か、ですか」


「あります」


 断言した。


 巴の祖父は、悪い人ではない。


 むしろ、恒一にとっては師匠だ。


 ただし、たまに軽い。


 いや、かなり軽い時がある。


 以前、彩音に対しても、よく分からない流れで才能があると言い出したことがあった。


 あの時の記憶が、恒一の頭をよぎる。


 真白は、真面目にうなずいた。


「分かりました。恒一様のお言葉を守ります」


「お願いします」


 それでも、不安は消えなかった。


 むしろ、道場が近づくにつれて、少しずつ増えていった。


 門が見える。


 古い木の門。


 その奥に、真田道場がある。


 恒一は、一度立ち止まった。


「北条さん」


「はい」


「本当に、見学だけです」


「はい」


「本当に」


「はい」


 真白は丁寧にうなずいた。


 それを確認してから、恒一は門をくぐった。


 その瞬間。


 奥から、声がした。


「おう、朝比奈。来たか」


 師匠だった。


 道場着姿で、庭の方からゆっくり歩いてくる。


 いつものように穏やかで、どこか飄々としている。


 その目が、恒一の隣にいる真白へ移った。


「……ほう」


 師匠の目が、わずかに細くなる。


 嫌な予感がした。


 恒一の中で、警報が鳴る。


「師匠」


「なんじゃ」


「今日は見学です」


「まだ何も言っておらん」


「言いそうだったので」


「お主、最近読みが鋭くなったのう」


「読みたくなかったです」


 真白は、一歩前へ出て丁寧に頭を下げた。


「初めまして。北条真白と申します。本日は突然お邪魔してしまい、申し訳ございません」


「これは丁寧なお嬢さんじゃ」


 師匠は感心したようにうなずいた。


「北条、とな」


「はい」


「……どこかで聞いたような」


「薙刀の大会で、巴さんとは一度お会いしております」


「おお、そうか。巴の知り合いか」


「はい」


 師匠の顔が、少し楽しそうになった。


 恒一の不安は、さらに増えた。


「ふむ」


 師匠は真白を上から下まで見る。


 いやらしい視線ではない。


 武道家として、立ち方や姿勢を見ている目だった。


「お嬢さん」


「はい」


「なかなか筋がよさそうじゃな」


 来た。


 恒一は、心の中でそう思った。


 真白は静かに首を傾げる。


「筋、ですか」


「立ち方がよい。目もよい。重心も悪くない」


「ありがとうございます」


「少し構えてみるか」


「師匠」


 恒一は止めようとした。


 だが、師匠はすでに木刀を手に取っていた。


「何、少しだけじゃ」


「その少しだけが怖いんです」


「見るだけ見るだけ」


 完全に軽い。


 これは止まらない。


 真白は恒一を見る。


「恒一様」


「……」


 さっきの約束を思い出したのだろう。


 勝手に返事をしない。


 そこは守っている。


 守っているからこそ、恒一が判断しなければならない。


 それはそれで困る。


「……少しだけなら」


「はい」


 真白は静かにうなずいた。


 そして、師匠から渡された木刀を受け取る。


 その瞬間、空気が少し変わった。


 真白の指が木刀に触れた時、彼女の雰囲気が、ほんのわずかに沈んだ。


 いや。


 整った。


 足の位置。


 肩の力。


 視線。


 どれも自然だった。


 無理がない。


 小柄で華奢な少女のはずなのに、立ち姿に妙な安定感がある。


 師匠の顔から、軽さが消えた。


「……ほう」


 今度の声は、先ほどと違った。


 本当に感心している声だった。


「構えてみよ」


「はい」


 真白が構える。


 道場の庭先。


 夕方の光。


 その中で、小柄な少女が静かに木刀を構える。


 姿勢は美しかった。


 派手ではない。


 力強く見せようとしているわけでもない。


 ただ、無駄がなかった。


 恒一は、思わず息を呑んだ。


「……できるんですね」


「多少、たしなんでおります」


 真白は淡々と言った。


 多少。


 その言葉を信じていいのか分からない。


 少なくとも、素人の立ち方ではなかった。


 師匠が、軽く足を動かす。


「一歩、前へ」


 真白は動いた。


 音が小さい。


 足運びが滑るようだった。


 次の瞬間、師匠の眉が上がる。


「もう一度」


「はい」


 もう一歩。


 さらに一歩。


 姿勢が崩れない。


 目線も乱れない。


 師匠が腕を組んだ。


「……本当に筋がよいではないか」


「師匠?」


 恒一は嫌な予感がした。


 師匠の目が光っている。


 これはまずい。


 完全に、才能を見つけた時の目だった。


「お嬢さん」


「はい」


「うちへ入門せんか」


「師匠」


 恒一は即座に言った。


 だが、師匠は止まらない。


「いや、これは惜しい。立ち方もよいし、目もよい。薙刀をやっておるなら基礎もある。少し鍛えれば伸びるぞ」


「ありがたいお言葉です」


 真白は丁寧に頭を下げる。


「もし真田家の皆様がお許しくださるのであれば、学ばせていただきたく思います」


 その時だった。


「祖父様」


 低い声がした。


 庭の空気が、さらに変わった。


 恒一はゆっくり振り向く。


 巴が立っていた。


 道場着ではない。


 学校帰りなのか、まだ制服姿だった。


 ただし、顔が笑っていない。


 まったく笑っていない。


「巴」


 師匠が、ほんの少しだけ表情を硬くした。


「お帰り」


「ただいま戻りました」


 巴は短く答えた。


 そして、師匠と真白の間を見る。


 木刀。


 真白の構え。


 師匠の楽しそうな顔。


 すべてを一瞬で理解したようだった。


「祖父様」


「なんじゃ」


「何を考えているのですか」


 静かな声だった。


 静かすぎて怖い。


「いや、才能があると思っての」


「何を考えているのですか」


 二回目だった。


 師匠が黙った。


 恒一も黙った。


 真白も、木刀を持ったまま静かに立っている。


 巴は一歩、こちらへ近づいた。


 その一歩で、師匠の肩が少し下がった。


「北条は、朝比奈に会うために来ているのでしょう」


「はい」


 真白は素直に答えた。


「そして、朝比奈がここで稽古をしているから来た」


「はい」


「なら、入門は認めない」


 即答だった。


 真白は少しだけ目を瞬かせる。


「理由を伺ってもよろしいでしょうか」


「朝比奈が集中できなくなる」


 巴は言った。


 少しも迷わず。


 恒一は何も言えなかった。


 その通りだった。


 今でもすでに集中できていない。


 真白がここに入門したら、確実にもっと集中できなくなる。


 師匠が、小さく咳払いした。


「いや、巴。稽古は稽古としてだな」


「祖父様」


「うむ」


「朝比奈は、ここへ何をしに来ていますか」


「……強くなるためじゃな」


「なら、余計なものを増やさないでください」


「余計なもの」


 真白が少しだけ首を傾げる。


 巴は真白を見た。


「北条が悪いと言っているわけじゃない」


「はい」


「でも、今ここに入ったら、朝比奈の稽古が稽古じゃなくなる」


「……」


「それは困る」


 巴の声は、少しだけ強かった。


 嫉妬だけではなかった。


 確かに嫉妬もあるのだろう。


 恒一にも、それは少し分かった。


 でも、それ以上に、巴はこの場所を守ろうとしていた。


 恒一が強くなるために来ている場所。


 師匠に指導を受け、自分の弱さと向き合う場所。


 そこへ、真白との騒動を持ち込ませたくない。


 そういう意思があった。


 恒一は、胸の奥が少し熱くなるのを感じた。


 真白は、しばらく巴を見ていた。


 それから、静かに木刀を下ろす。


「承知しました」


「……」


「巴さんの言葉には、筋があります」


 真白は木刀を師匠へ返し、丁寧に頭を下げた。


「本日は見学のみといたします」


 巴は少しだけ目を細めた。


「そうして」


「はい」


 師匠は、かなり惜しそうだった。


「本当に、よい筋なのじゃがなあ」


「祖父様」


「はい」


 巴の声に、師匠がすぐ返事をした。


 恒一は思った。


 強い。


 今日の巴は、かなり強い。


 真白はそんな巴を見て、ふっと小さく微笑んだ。


「巴さん」


「何」


「あなたは、やはり恒一様をよく見ておられますね」


 巴の表情が、少しだけ変わった。


「……どういう意味」


「そのままの意味です」


 真白は丁寧に答える。


「私がここに入ることで、恒一様が乱れると判断された」


「見れば分かる」


「そうですね」


 真白はうなずく。


「恒一様は、少々乱れやすい方です」


「北条さん」


 恒一は思わず口を挟んだ。


「そこは否定してください」


「事実ですので」


「事実でも言い方があると思います」


「失礼しました」


 真白は素直に頭を下げた。


 巴が、少しだけ口元を動かした。


 笑いかけたようにも見えたが、すぐに消えた。


 師匠は、まだ真白の方を見ている。


「見学だけならよかろう?」


 巴が師匠を見る。


「祖父様」


「見学だけじゃ」


「余計なことは言わないでください」


「……努力する」


「断言してください」


「言わん」


「はい」


 師匠が少しだけ小さく見えた。


 恒一は何とも言えない気持ちになった。


 師匠が、孫に完全に押されている。


 真白は、そんなやり取りを静かに見ていた。


 そして、もう一度巴へ頭を下げる。


「本日は、ご迷惑をおかけしました」


「……別に」


「ですが、見学はさせていただきます」


「邪魔しなければ」


「はい」


 真白は一歩引いた。


 その立ち位置は、確かに見学者のものだった。


 恒一は、ようやく少しだけ息を吐く。


「朝比奈」


 巴がこちらを見た。


「はい」


「稽古」


「はい」


「集中して」


「……はい」


 真白の前で言われるのは、少し恥ずかしかった。


 でも、反論はできない。


 師匠が木刀を手にする。


「では、始めるか」


「お願いします」


 恒一は姿勢を正した。


 真白は少し離れた場所で、静かに見ている。


 巴も腕を組んで立っている。


 師匠は、少しだけ残念そうに真白を見たあと、恒一へ向き直った。


「朝比奈」


「はい」


「今日は、いつもより集中せんと斬られるぞ」


「誰にですか」


「主に巴に」


「……はい」


 恒一は木刀を握り直した。


 真白が見ている。


 巴も見ている。


 師匠は、どこか楽しそうだ。


 集中できる気は、正直あまりしなかった。


 けれど。


 ここは、自分が強くなるために来た場所だ。


 巴が守ろうとしてくれた場所でもある。


 なら、逃げるわけにはいかない。


「お願いします」


 恒一はもう一度、頭を下げた。


 稽古が始まる。


 木刀の音が、夕方の道場に響く。


 真白は何も言わずに見ていた。


 巴も、何も言わなかった。


 ただ、師匠だけが時々、惜しそうに真白を見ていた。


 そのたびに、巴の視線が師匠へ刺さった。


 師匠は、すぐに前を向いた。


 その日、真田道場の門は開いていた。


 ただし、巴の前では少しだけ狭かった。


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