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恋愛台帳、時代ズレにつき修正不能  作者: サザルト
第3章 真白な頁に名前が灯る編

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第151話 正式な手順で近づいてくる

■グラウンド


 放課後。


 グラウンドへ向かう恒一の足取りは、いつもより重かった。


 隣には、真白がいる。


 昼休みに、真白は言った。


 陸上部に入りたい、と。


 理由は、恒一を知るため。


 恒一が今、大切にしている場所の一つが陸上部だから。


 だから、そこに身を置きたい。


 言っていることは分かる。


 分かるのだが。


 分かるからこそ、困る。


 陸上部には、巴がいる。


 ひよりもいる。


 佐藤もいる。


 昨日の時点で、すでに十分すぎるほど空気は揺れていた。


 そこへ真白が正式に入ってくる。


 どう考えても、何も起きないはずがなかった。


「恒一様」


 隣を歩く真白が、静かに声をかけてきた。


「はい」


「私が入部を希望することで、恒一様を困らせていることは分かっています」


「……」


 そういうところが、本当に困る。


 強引なのに、自分が強引であることは理解している。


 礼儀正しくて、手順も踏もうとする。


 だから、ただ拒めない。


「分かってるなら」


「はい」


「少し考え直すという選択肢は」


「ありません」


 即答だった。


 そこは迷わないらしい。


「ただ、きちんとお願いはいたします」


「……そうですか」


「はい。顧問の先生にも、部の皆様にも」


 ちゃんとしている。


 ちゃんとしているのに、状況は全然ちゃんとしていない。


 グラウンドが見えてきた。


 そして、そこに巴がいた。


 待っていた。


 明らかに。


 腕を組み、こちらを見ている。


 表情は落ち着いている。


 だが、目は落ち着いていない。


 昨日よりも、今朝よりも。


 何かを確かめようとしている目だった。


 その近くには、千夜もいる。


 千夜はいつものように静かで、余計なことは言わない顔をしていた。


 ただ、何も見ていないわけではない。


 全部見ている顔だった。


 少し離れたところでは、部員たちがこちらを気にしている。


 さらに、昨日からの噂を聞きつけた生徒たちまで、グラウンドの端に集まっていた。


 また観衆だ。


 まただ。


 佐藤は部員たちの近くで、すでに胃のあたりに手を当てていた。


 まだ何も起きていないのに。


 いや、佐藤は賢い。


 起きる前から備えている。


「朝比奈」


 巴が言った。


「真田さん」


「北条」


「はい」


 真白は丁寧に頭を下げた。


「お疲れ様です、巴さん」


 巴の眉が、ほんの少しだけ動いた。


 呼び方に反応したのだと思う。


 ただ、それを指摘する前に、巴は短く言った。


「話がある」


「分かっています」


 真白が静かにうなずく。


 恒一もうなずいた。


 ここで逃げるわけにはいかない。


 逃げたところで、何も解決しない。


「ここではなく?」


 真白が尋ねる。


 巴は周囲を一瞥した。


 観衆。


 部員。


 噂を楽しんでいる者。


 心配そうに見る者。


 全部が混ざっている。


「ここではまずい」


「同感です」


 真白が言った。


 恒一も、心から同感だった。


 ここで話せば、間違いなく広がる。


 ただでさえ、すでに広がりすぎている。


「北条さんは、陸上部に入部したいそうだ」


 恒一が言うと、巴の目が少しだけ動いた。


「入部?」


「ああ」


「北条が?」


「はい」


 真白が答える。


「正式な手順を踏み、入部を希望いたします」


 巴は、しばらく真白を見ていた。


 それから、静かに言った。


「部室棟に行く」


 その言葉で、四人はグラウンドを離れた。


 背後でざわつく声が聞こえる。


「え、三人で行くの?」


「真田先輩と北条さん?」


「朝比奈部長、挟まれてない?」


「修羅場?」


 やめてほしい。


 本当にやめてほしい。


 恒一はもう、修羅場という言葉を聞くだけで疲れる体になりつつあった。


 ■部室棟


 部室棟の一室。


 人の少ない時間帯を選んだつもりだったが、完全に無人というわけではない。


 それでも、グラウンドよりはずっとましだった。


 巴。


 真白。


 千夜。


 恒一。


 四人で向かい合う。


 空気は重い。


 巴は座らなかった。


 真白も立ったままだった。


 千夜も壁際に立っている。


 恒一だけ座るわけにもいかず、結局、全員が立ったままになった。


 なぜだ。


 もう少し落ち着いて話したい。


 だが、この空気で「座ろう」と言える人間がいたら、それはかなり強い。


 恒一には無理だった。


「北条」


 巴が先に口を開いた。


「はい」


「最近の行動は、かなり目立っている」


「承知しております」


「承知していてやっているのか」


「はい」


 巴の目が細くなる。


「朝比奈に抱きついたことも」


「はい」


「婚約者だと名乗ったことも」


「はい」


「朝比奈の家にまで行ったことも」


「はい」


「今朝、朝比奈の家まで迎えに行ったことも」


「はい」


「全部、分かっていてやったのか」


「はい」


 真白の返事に迷いはなかった。


 巴の声が、少しだけ低くなる。


「それで、朝比奈が困っていることも分かっているのか」


 真白は、一瞬だけ黙った。


 それから、静かに答える。


「分かっています」


「なら、なぜ続ける」


「私は、恒一様に会うために来ました」


「だからといって、相手を困らせていい理由にはならない」


「その通りです」


 真白は丁寧にうなずいた。


「ですから、今は反省しています」


「反省しているなら、距離を取れ」


「それはできません」


 巴の表情が、わずかに変わった。


 怒り。


 たぶん、そう呼べるものが少しだけ混じった。


「北条」


「はい」


「朝比奈は、お前のものではない」


 部室棟の空気が、さらに重くなる。


 真白は、巴の言葉をまっすぐ受け止めた。


 そして、静かに答える。


「分かっています」


「分かっていない」


「いいえ」


 真白の声は柔らかい。


 だが、退かなかった。


「分かっているからこそ、私は恒一様を知りたいのです」


「陸上部に入る理由もそれか」


「はい」


「部活を、そういう理由で使うな」


 巴の言葉は短かった。


 けれど、そこには副部長としての怒りもあった。


 私情で部活を荒らすな。


 そう言っているのだと分かった。


「それについては、真田巴さんのお怒りも当然だと思います」


 真白は深く頭を下げた。


「私は陸上経験がありません。ですから、まずは体験入部として、顧問の先生と部の皆様に認めていただけるかどうかを確認するつもりです」


「そういう話だけではない」


「はい」


「お前がいるだけで、空気が変わる」


「承知しております」


「朝比奈の周りも、部も、白石も」


 巴の声が、ほんの少しだけ揺れた。


「全部、変わる」


 真白は黙った。


 今度は、すぐには返さなかった。


 ひよりの名前が出たからかもしれない。


 あるいは、巴自身の声の揺れに気づいたからかもしれない。


「……真田巴さんは」


 真白が、ゆっくりと言った。


「部のことを、とても大切にされているのですね」


「当たり前だ」


「恒一様のことも」


 巴の目が細くなった。


「今、その話をするな」


「申し訳ありません」


 真白はすぐに頭を下げた。


 謝る。


 すぐに謝る。


 だが、言葉は引っ込めない。


 それが真白だった。


「でも、真田巴さん」


 真白が顔を上げる。


「あなたも、無関係ではないはずです」


「何に」


「私たちの話に」


 恒一の背筋が、少し固まった。


 危ない。


 その先は危ない。


 神様の話に近づく。


 白い空間の話に近づく。


 巴に話してはいけないことに、近づいてしまう。


「北条さん」


 恒一は思わず口を挟んだ。


 真白がこちらを見る。


「そこから先は、今はやめてください」


「……はい」


 真白はすぐにうなずいた。


 驚くほど素直だった。


 その素直さで、逆に空気が変わった。


 巴が恒一を見る。


「朝比奈」


「……」


「今のは何だ」


 当然の問いだった。


 何に無関係ではないのか。


 なぜ恒一が止めたのか。


 なぜ真白がすぐに従ったのか。


 巴から見れば、何もかも分からないはずだ。


 それなのに、恒一は説明できない。


 神様のことは言えない。


 真白の事情も、どこまで言っていいのか分からない。


 そして、恒一自身の始まりの話も。


 今、ここで言えるはずがなかった。


「朝比奈」


 巴がもう一度呼ぶ。


 恒一は、喉の奥が重くなるのを感じた。


「……すまん」


「謝るな」


「今は、説明できない」


 巴の目が、少し冷たくなった。


 いや、冷たいというより、傷ついている。


 分かる。


 分かっているのに、言えない。


 最悪だった。


「またか」


「……」


「また、言えないのか」


「……ああ」


 沈黙。


 重い沈黙だった。


 真白は黙っている。


 恒一に止められたから。


 巴は混乱している。


 恒一が説明できないから。


 千夜は、何も言わずに三人を見ている。


 その沈黙が、一番静かで、一番痛かった。


「巴」


 千夜が、そこでようやく口を開いた。


「今は、ここまでにした方がいい」


「千夜」


「たぶん、ここで聞いても返ってこない」


 千夜は恒一を責めるようには言わなかった。


 ただ、事実だけを置いた。


 その事実が、余計に痛い。


「それに、今の北条さんも、全部は言わない」


 真白が千夜を見る。


 千夜は表情を変えない。


「だから、今ここで続けても、巴が一方的に傷つくだけ」


 巴は黙った。


 悔しそうだった。


 今朝の廊下と同じように。


 それ以上に。


「……そうだな」


 巴は小さく言った。


 恒一は何か言おうとした。


 だが、言葉が出なかった。


 何を言っても、また傷つけそうだった。


「入部の話は、顧問を通せ」


 巴は真白を見た。


「はい」


「部活に入るなら、部の規律に従え」


「もちろんです」


「朝比奈に近づくためだけに来るなら、迷惑だ」


「……はい」


 真白は、そこで少しだけ目を伏せた。


「肝に銘じます」


「本当にそうしてくれ」


 巴の声は静かだった。


 怒鳴っているわけではない。


 けれど、弱くもなかった。


 部を守る副部長の声だった。


 そして、たぶん。


 恒一に傷つけられた一人の女の子の声でもあった。


「朝比奈」


「……はい」


「顧問のところへ行くなら行け」


「ああ」


「私は練習に戻る」


「真田さん」


「何だ」


 呼び止めたのに、続く言葉が出てこなかった。


 謝りたい。


 説明したい。


 でも、ここではできない。


 何を言っても足りない。


 足りないくせに、余計なものだけ増えそうだった。


「……あとで、ちゃんと話す」


 やっと、それだけ言った。


 巴は、少しだけ恒一を見る。


「ちゃんと、か」


「……」


「朝比奈のちゃんとは、ときどき何も分からない」


 何も返せなかった。


 巴はそれ以上言わず、部室棟を出ていった。


 千夜もその後に続く。


 扉が閉まる直前、千夜が一度だけこちらを見た。


 責めるでもなく、慰めるでもない目だった。


 ただ、覚えておくという目だった。


 扉が閉まる。


 部室に、恒一と真白だけが残った。


 ■部室棟


 しばらく、何も言えなかった。


 真白も黙っていた。


 さっきまでの丁寧な強さは少し薄れていて、今は少しだけ俯いている。


「北条さん」


「はい」


「さっきの話は、危ない」


「……はい」


「真田さんに、何かを言いたい気持ちは分かります」


「はい」


「でも、言えないことなら、匂わせるのも駄目です」


 真白の指先が、少しだけ重なった。


「申し訳ありません」


「俺も、人のことは言えないけど」


「……」


「言えないことで、人を傷つけてるから」


 自分で言って、恒一の胸が痛くなった。


 巴の顔が浮かぶ。


 今朝の廊下。


 さっきの部室。


 何度も、恒一の「言えない」で傷ついた顔。


「真田さんには、悪いことをした」


「はい」


 真白は静かにうなずいた。


「私も、傷つけました」


「……」


「真田巴さんは、強い方です」


「ああ」


「けれど、強い方だから傷つかないわけではないのですね」


「そうだと思う」


「……はい」


 真白は、少しだけ目を伏せた。


「分かっていたつもりでした」


「つもり?」


「はい」


「今は?」


「少し、違ったのだと思います」


 真白は正直だった。


 それが、また困る。


 嘘をつかない。


 謝る。


 学ぼうとする。


 でも、最初の一歩が強すぎる。


「北条さん」


 真白が顔を上げた。


「はい」


「入部の話は、顧問に通します」


「はい」


「でも、俺は部長として対応します」


「承知しております」


「特別扱いはしません」


「はい」


「あと、部活では真田さんの指示にも従ってください」


「もちろんです」


「部の空気を乱さないこと」


「はい」


「俺に近づきすぎないこと」


「……努力いたします」


「努力じゃなくて、守ってください」


「守ります」


 真白は丁寧に頭を下げた。


 その姿は本当に綺麗だった。


 綺麗で、礼儀正しくて。


 それなのに、今日の恒一には少し怖かった。


 悪い意味ではない。


 ただ、彼女が本気であることが、怖かった。


「行きましょう」


「はい」


 顧問の先生のところへ向かうため、二人は部室を出た。


 廊下に出ると、外の空気が少しだけ軽かった。


 でも、胸の中は軽くならない。


 巴には、また何も説明できなかった。


 真白は、また何かを知っている顔をした。


 恒一は、また間に挟まれた。


 そして、今回も一番傷ついたのは、たぶん巴だった。


 恒一の苦労は続く。


 そう一言で片づけられるなら、まだ楽だった。


 だが実際には。


 苦労の先で、誰かの心が少しずつ削れている気がして。


 恒一は、ただ足を止めないことしかできなかった。


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