第15話 その距離で指輪は重い
二年A組教室
放課後の教室の隅。
俺は、机の上に小さな箱を置いた。
「これ、見てほしい」
基樹と彩音が、同時にこちらを見る。
「なに、それ?」
彩音が首を傾げた。
「見れば分かる」
「その言い方、ちょっと嫌な予感するんだけど」
基樹が眉をひそめる。
俺は箱を開けた。
中には、シンプルな指輪が入っている。
飾り気は少ない。
でも、ちゃんとしたものだ。
バイト代を貯めて買った。
その瞬間。
教室の空気が、少しだけ止まった。
「……は?」
基樹が固まる。
「え、ちょっと待って」
彩音も目を見開いた。
「恒一、それ、どうしたの?」
「買った」
「何で?」
「バイト代で」
「いや、そうじゃなくて」
彩音が額に手を当てる。
基樹が、ゆっくり口を開いた。
「ちなみに、いくらくらい?」
「三ヶ月分」
もう一度、沈黙。
「……お前さ」
基樹の声が低くなる。
「何してんの?」
「指輪を買った」
「見れば分かるわ!」
基樹が机を軽く叩いた。
彩音は指輪と俺を交互に見ている。
目が完全に警戒していた。
「恒一」
「なんだ」
「これ、どうする気?」
「決まってるだろ」
俺は箱を見た。
「七月八日」
「……」
「真田の誕生日に渡す」
空気が、完全に止まった。
さっきの沈黙とは違う。
これは、危険物を見つけた時の沈黙だった。
「やめとけ」
基樹が即答した。
「無理」
彩音も即答した。
「なんでだよ」
「早すぎるだろ!」
基樹が声を抑えながらも叫ぶ。
「まだそんな仲じゃねえだろ!」
「名前は覚えてもらった」
「そこから指輪に飛ぶな!」
かなり真剣に怒られた。
「でも」
「でもじゃない」
彩音が手で制した。
表情がいつもより真面目だった。
「恒一、それは重い」
「そうか?」
「重い」
「かなり?」
「かなりだよ」
彩音はきっぱり言った。
「その距離で指輪は重い」
言葉がまっすぐ刺さった。
その距離で。
指輪は重い。
「でも、正々堂々渡せば、真田なら受け取ってくれるかもしれないだろ」
俺が言うと、彩音は少しだけ困った顔をした。
「受け取るかもしれないよ」
「なら」
「でも、それが問題」
「問題?」
彩音は、指輪の箱をそっと見た。
「巴さんって、たぶん真っ直ぐ来られたら、ちゃんと向き合うと思う」
「ああ」
「だからこそ、困るんだよ」
「……」
「断りにくいものを渡すのは、相手の優しさに負担をかけることでもある」
その言葉に、胸が少し詰まった。
俺は、そんなつもりではなかった。
真田を困らせたいわけじゃない。
真田に負担をかけたいわけでもない。
ただ、ちゃんと気持ちを形にしたかった。
「優しさに負担」
俺が繰り返すと、基樹が続けた。
「そうだよ」
基樹の声は、さっきより少し落ち着いていた。
「お前はまっすぐ渡すつもりなんだろうな」
「ああ」
「でも、まっすぐだから全部正しいわけじゃない」
「……」
「相手が断りにくい状況を作ったら、それはちょっと違うだろ」
何も言えなかった。
箱の中の指輪を見る。
自分では、正しいと思っていた。
バイトをした。
貯めた。
選んだ。
誕生日に渡す。
正面から逃げずに。
それは、まっすぐなことだと思っていた。
(違うのか……?)
真田が困る。
そう言われると、急に分からなくなった。
「恒一」
彩音が静かに言う。
「その指輪、気持ちはすごいと思う」
「……」
「でも、今渡すものじゃない」
「今じゃない」
「うん」
基樹も頷いた。
「今のお前と真田の距離なら、指輪じゃなくて、もっと軽いものにしろ」
「軽いもの」
「そう。相手が受け取っても困らないもの」
「たとえば」
俺が聞くと、二人は少し考えた。
「……ハンカチとか?」
彩音が言う。
「練習で使えるものとか」
「タオルとか、スポーツ系の小物とかさ」
基樹も続ける。
「誕生日にタオル」
「指輪より百倍いい」
「そんなにか」
「そんなにだよ」
基樹は真顔だった。
「でも、誕生日だぞ」
「だからこそだよ」
彩音が言う。
「相手が素直にありがとうって言えるものがいい」
「素直にありがとう」
「うん」
「指輪だと?」
「ありがとうの前に、え、どうしよう、になる」
「……」
想像した。
真田が、指輪を見て固まる。
困る。
断れない。
あるいは受け取ってしまう。
でも、それは嬉しいからではなく、どうすればいいか分からないからかもしれない。
その想像は、かなり嫌だった。
「……それは、だめだな」
「うん」
彩音が少しだけ表情を緩める。
「そこに気づけたなら大丈夫」
「大丈夫なのか」
「今回はギリギリ」
「ギリギリか」
「渡す前だったからね」
基樹が深く頷いた。
「本当に渡す前でよかった」
「そこまでか」
「そこまでだよ」
俺は、もう一度指輪を見る。
綺麗だった。
ちゃんと選んだ。
真田に似合うと思った。
でも、今の自分が渡すには、重い。
たぶん、本当に。
「じゃあ」
俺は顔を上げた。
「どうすればいい?」
基樹と彩音がこちらを見る。
「どうしたら、真田と親しくなれる」
素直に聞いた。
指輪が駄目なら。
重すぎるなら。
段階が違うなら。
俺は、何をすればいいのか。
基樹と彩音は顔を見合わせた。
「……うーん」
彩音が腕を組む。
「難しいな、それ」
「難しいのか」
「恒一の場合は、特に」
「そうなのか」
「そうだよ」
基樹がため息をつく。
「そもそも段階飛ばしすぎなんだよ」
「段階」
「いきなり指輪じゃなくてさ」
「ああ」
「普通に話すとか」
「一緒に何かするとか」
「練習の話をするとか」
「相手が困らない範囲で関わるとか」
彩音が続ける。
「そういう積み重ね」
積み重ね。
それは最近、よく考える言葉だった。
走ることもそうだ。
一日で速くなるわけじゃない。
一回で追いつけるわけじゃない。
少しずつ、積む。
恋愛も同じなのかもしれない。
「……なるほどな」
俺は小さく頷いた。
「焦るなってことか」
「そう」
基樹が即答する。
「焦るな」
「でも、何もしないのは違うよ」
彩音が言う。
「少しずつ近づく」
「少しずつ」
「うん。朝比奈恒一です、から始めたんでしょ?」
「ああ」
「だったら、次は普通に話せる時間を増やすとかでいいんじゃない?」
「普通に話す」
「そう」
彩音は少し笑った。
「告白とか指輪とかじゃなくて、普通の会話」
「普通の会話……」
今の俺には、それが一番難しい気がした。
好きです。
そう言う方が、まだ分かりやすい。
指輪を渡す方が、形としては分かりやすい。
でも、普通に話す。
相手が困らないように。
少しずつ。
それが、一番大事らしい。
「難しいな」
「難しいけど、そこ飛ばしたら駄目」
基樹が言った。
「お前、走る時は基礎やるだろ」
「ああ」
「それと同じ」
「恋愛にも基礎があるのか」
「あるだろ、たぶん」
「たぶんか」
「俺も専門家じゃねえし」
彩音が横で笑った。
「でも、基樹にしてはいい例え」
「にしては、って何だよ」
「褒めてる」
「半分だろ」
「うん」
「知ってた」
少しだけ空気が軽くなる。
俺は指輪の箱を閉じた。
ぱちん、と小さな音がした。
その音で、少しだけ頭が冷えた気がした。
「これは」
俺は箱を手に取る。
「今は渡さない」
「絶対な」
基樹がすぐに言った。
「分かった」
「本当に?」
「渡さない」
「よし」
彩音がほっとしたように息を吐く。
「そこまでやったのは、すごいと思うよ」
「そうか」
「うん。バイト頑張ったんでしょ」
「ああ」
「気持ちはちゃんとある」
「……」
彩音は、指輪の箱を見ながら続けた。
「方向は、ちょっとズレてるけど」
「ちょっとか?」
基樹が口を挟む。
「だいぶだろ」
「だいぶか」
「だいぶ」
彩音も否定しなかった。
三人で、少しだけ笑った。
笑えるくらいのところで止まれてよかったのだと思う。もし渡していたら、たぶん笑えなかった。
俺は、閉じた箱を鞄にしまった。
(焦るな)
(積み重ねろ)
それが、一番の近道。
遠回りに見えても。
たぶん、それしかない。
「じゃあ、誕生日は別のものを考える」
「それがいい」
「指輪以外で」
「絶対に指輪以外で」
基樹が念を押す。
「分かった」
「あと、ネックレスとかも駄目だからな」
「駄目なのか?」
「駄目!」
基樹と彩音の声が揃った。
俺は少し驚いた。
「じゃあ、さっきの中なら何が一番いいんだ」
「無難なのはタオルかな」
彩音が言った。
「練習でも使えるし、重くないし」
「スポーツタオルとかなら、変に意味深にもならないだろ」
基樹も頷く。
「相手が普通にありがとうって受け取れるやつな」
「普通にありがとう」
「そう。それが大事」
彩音は、指輪の箱を見てから俺を見る。
「気持ちを全部乗せるんじゃなくて、相手が困らない形にするの」
「……なるほど」
俺は頷いた。
基樹が、まだ疑わしそうにこちらを見る。
「不安だ……」
「そこまでか」
「お前だからな」
「便利な理由だな」
「実績があるからな」
反論はできなかった。
基樹が念を押す。
でも、少なくとも一つ分かった。
好きだからといって、重いものを渡せばいいわけじゃない。
気持ちは、相手が受け取れる重さにしないといけない。
それは、たぶん俺にとってかなり難しい。
けれど、覚えないといけないことだった。
その日の俺は、指輪を渡さなかった。
ただ、少しだけ、恋愛にもスタート練習が必要なのだと知った。




