第14話 小さな変化
グラウンド
放課後、グラウンドの隅。
俺はスタートラインの前に立っていた。
まだ陸上部の正式な練習に混ざっているわけではない。ただ、最近は少しずつ、走る場所としてこのグラウンドに来ることが増えていた。
最初は、邪魔にならないように端の方で。
今も、それは変わらない。
「よし、もう一本」
声に、前より少しだけ張りがある。
自分でも分かる。
疲れ方が、前と違う。
ただ苦しいだけではない。
足が地面を押す感覚が、少しだけ分かるようになってきた。
スタートの姿勢を取る。
地面に手をつく。
指先に、乾いた土の感触。
足に力を込める。
(前より、いける)
息を整える。
低く構えて。
「ドン」
自分で合図を切って、走り出す。
一歩目。
二歩目。
三歩目。
前より、足が前に出る。
体が浮きすぎない。
少しだけ、地面を押せている気がする。
(……速い)
自分でも分かった。
もちろん、真田とは比べものにならない。
陸上部の先輩たちにも、まだ遠い。
でも、前の自分とは違う。
それだけは、分かる。
ゴールラインを越える。
「……っ、はぁ……!」
膝に手をついた。
息が荒い。
胸も苦しい。
でも。
(まだ動ける)
前なら、ここで足が止まっていた。
でも今は、まだもう一本いけそうだった。
無茶をするな、と基樹にも彩音にも言われている。
だから、無理はしない。
しないつもりだ。
少しだけ不安な言い方だが、今はちゃんと余力がある。
「おー」
声がした。
振り向くと、陸上部の先輩が一人、こちらを見ていた。
「朝比奈、ちょっと速くなってない?」
「え」
思わず声が出る。
先輩はタイムを取っていたわけではない。
ただ、見ていただけだと思う。
それでも、その一言は十分だった。
「前より全然マシ」
「……本当ですか」
「うん。フォームも少し良くなってる」
胸の奥が、少し熱くなる。
「ありがとうございます」
「ちゃんとやってるな」
先輩は軽く笑って、そのままグラウンドの方へ戻っていった。
ちゃんとやってる。
その一言が、やけに嬉しかった。
結果が出たわけではない。
大きく変わったわけでもない。
でも、見てくれた人がいた。
少しでも変わったと分かってくれた人がいた。
「……よし」
小さく拳を握る。
その時だった。
「へえ」
聞き慣れた声がした。
振り向く。
そこに、真田巴がいた。
練習着姿で、腕を組んでいる。
汗を少しかいていて、髪が揺れていた。
まっすぐな目で、こちらを見ている。
「ちょっと速くなってるじゃん」
「……見てたのか」
「たまたま」
軽く言う。
でも、その目はちゃんと見ていた目だった。
適当に流している感じではない。
走りを見て、前との違いを見て、その上で言っている。
「最初より全然いい」
「……そっか」
口元が、少しだけ緩む。
「ちゃんとやってるね」
その一言が、先輩に言われた時より、さらに深く刺さった。
嬉しい。
かなり。
ただ、嬉しすぎると顔に出そうだったので、俺はできるだけ普通に返した。
「まあな」
「今、ちょっと嬉しそうだった」
「気のせいだ」
「気のせいじゃない」
真田は少しだけ笑った。
その笑顔を見て、また少し呼吸が乱れそうになる。
多分、走った後だからだ。
「でも」
真田が腕を組み直す。
「まだまだ遅いけど」
「知ってる」
「知ってるならいい」
正直すぎる。
でも、不思議と嫌ではなかった。
真田の言葉は、ちゃんと見た上での言葉だった。
だから、きつくても受け取れる。
「フォームは前より良くなってる。でも、三歩目で少し浮いてる」
「三歩目」
「うん。そこで上に逃げる」
「前に出るつもりだった」
「気持ちは前だけど、体が上に行ってる」
「なるほど」
「あと、腕が少し硬い」
「硬いか」
「硬い」
真田は短く言った。
遠慮がない。
けれど、分かりやすい。
「直せば、もう少し良くなる」
「分かった」
「それと」
「まだあるのか」
「ある」
真田は当然のように言う。
「走り終わった後、すぐ次に行こうとするな」
「なぜ」
「疲れてる時に雑に走ると、変な癖がつく」
「……」
「それに、倒れそうに見える」
「倒れない」
「その返事、信用できない」
「基樹にも言われた」
「なら、相当信用できないんだね」
真田は少し呆れたように言った。
俺は反論できなかった。
「でも」
真田は、少しだけ表情を柔らかくする。
「いいじゃん、その感じ」
「その感じ?」
「ちゃんと積んでる感じ」
真田はグラウンドを見る。
夕方の光が、彼女の横顔に当たっていた。
「速くなろうとしてるのは、分かる」
「……」
「だから、悪くない」
悪くない。
またその言葉だった。
真田の「悪くない」は、たぶんかなり良い意味だ。少なくとも、今の俺にとっては。
「もう少し仕上がったらさ」
「うん?」
「その時、勝負しよ」
少しだけ空気が変わった。
グラウンドの音が、一瞬遠くなる。
「……いいのか?」
「今はまだ差がありすぎるし」
「正直だな」
「嘘ついても仕方ないでしょ」
「それはそうだ」
真田は少しだけ笑った。
「だから、ちゃんと形になってから」
まっすぐな目だった。
試されている。
いや、期待されているのかもしれない。
少なくとも、ただ見下されているわけではない。
「朝比奈が、ちゃんと走れるようになったら」
「……」
「その時、一本勝負」
胸の奥で、何かが鳴った。
名前を覚えてもらった時とは違う。
手紙を受け取ってもらった時とも違う。
目標が、形になった気がした。
「……やる」
俺は答えた。
「勝負する」
真田は満足そうにうなずく。
「じゃあ、楽しみにしてる」
「本当に楽しみにしてるのか」
「うん」
即答だった。
「朝比奈、変だけど真面目だから」
「変は余計だ」
「変だよ」
「そうか」
「でも、真面目」
真田はそう言って、少しだけ笑った。
俺は何も言えなかった。
変だと言われたのに、なぜかあまり嫌ではない。むしろ、真面目と言われた方が強く残った。
「じゃあ、練習戻る」
「ああ」
真田は背を向ける。
数歩進んだところで、振り返った。
「朝比奈」
名前を呼ばれる。
もう、前より自然だった。
「サボんなよ」
軽く手を振る。
「サボらない」
「無茶もするなよ」
「……努力する」
「そこは断言しなよ」
真田が呆れたように言う。
それから、グラウンドの方へ戻っていった。
俺はその背中を見送る。
(……よし)
目標ができた。
ただ速くなるだけじゃない。
ただ追いつこうとするだけでもない。
いつか、真田と勝負する。
そのために走る。
そのために、強くなる。
(勝つために、やる)
意識が、少し変わった。
遠くにいた人が、まだ遠いまま。
でも、ほんの少しだけ。
同じ線の上に立ってくれた気がした。
それが、たまらなく嬉しかった。
俺はもう一度スタートラインを見る。
今日は、もう無茶はしない。
でも、明日からまた積めばいい。
少しずつ。
本当に少しずつ。
朝比奈恒一は、ようやく走る理由を一つ増やした。




