第13話 遠くからの視線
二年A組教室
昼休み。
教室の窓際で、俺は何となく外を見ていた。
グラウンドが見える。昼休みなのに、何人かの運動部員が軽く体を動かしていた。
その中に、真田巴がいた。
スタートラインに立つ。
姿勢を低くする。
無駄がない。
ただ構えただけなのに、空気が少し変わった気がした。
(……来る)
次の瞬間。
真田が地面を蹴った。
速い。
足が前に出るというより、体ごと前へ飛び出していくようだった。腕の振りも、上体の角度も、何もかもがきれいに噛み合っている。
風を切るように、真田はグラウンドを駆け抜けた。
(速っ……)
何度見ても思う。
あれは、別物だ。
努力している人間の走りなのに、才能まで当たり前みたいに乗っている。
ずるいくらい、綺麗だった。
ゴール。
真田が少しだけ息を吐く。
すぐに近くの先輩がタイムを確認した。
「真田、今のかなりいいぞ」
「本当ですか?」
「タイム、更新してる」
「……本当ですか!」
声までは、教室には届かない。
でも、表情で分かった。
真田は、嬉しそうだった。
普段の強い顔とは違う。
褒められて、結果が出て、素直に喜んでいる顔。
(……よかったな)
思わず、口元が緩んだ。
自分のことではない。
俺が走ったわけでもない。
俺がタイムを出したわけでもない。
それでも、少し嬉しかった。
その時。
「ねえ」
後ろから声がした。
「なにニヤニヤしてんの」
振り向く。
女子が三人立っていた。
その中心にいるのは、西園寺さつき。
真田巴ファンクラブの中心人物。
いわゆる、かなり本気の人だ。
彼女たちは、真田のことを巴様と呼ぶ。
冗談ではなく、かなり本気で。
「別に、ニヤニヤはしてない」
「してた」
西園寺は即答した。
「窓際で巴様を見ながらニヤニヤしてた」
「……言い方」
「事実でしょ」
周りの女子が、くすっと笑う。
俺は少しだけ息を吐いた。
「悪かったな」
「悪いとは言ってないけど」
西園寺は腕を組んだ。
「気持ちはちょっと分かるし」
「分かるのか」
「巴様だから」
当然のように言った。
それはそれで、少し怖い。
「でもさ」
西園寺が、こちらをじっと見る。
「まだいたんだ」
「誰のことだよ」
「告一」
「誰だそれ」
「週一で告白してた人」
周りの女子がまた笑った。
「……それ、俺か?」
「そうでしょ?」
「恒一な」
ちゃんと訂正する。
朝比奈恒一。
今はもう、その名前を覚えてもらいたいと思っている。変なあだ名で呼ばれるのは、あまり嬉しくない。
「へえ」
西園寺は少しだけ目を細めた。
「まだ諦めてないんだ」
「……」
「まあ、無理だと思うけど」
さらっと言った。
悪気はない。
たぶん、ただの事実として言っている。
真田巴は遠い。
人気がある。
見ている人も多い。
俺みたいな、少し前まで何度も軽く告白していた男が、本気で届く相手ではない。
そう思われても仕方ない。
だから、刺さる。
けれど、前ほど揺れなかった。
「別に」
俺は窓の外へ視線を戻した。
「今は、そういうのじゃない」
「じゃあ何?」
西園寺がすぐに食いつく。
「興味あるだけ」
「興味?」
「最近、走ってるから」
俺は淡々と言った。
「参考にしてる」
「……本当?」
西園寺が、疑うように俺を見る。
「まあ」
「巴様を?」
「ああ」
「参考にできると思ってるの?」
「できるところだけ」
全部は無理だ。
真田の走りをそのまま真似できるとは思っていない。
でも、姿勢。
足の運び。
スタートの集中。
見れば分かるものもある。
いや、分かるというより、分かりたい。
「ふーん」
西園寺は、少しだけ考えるように俺を見た。
「まあ、見るだけなら勝手にすれば」
「そうする」
「でも、変な見方したら怒るから」
「変な見方って何だ」
「巴様を困らせる見方」
「しない」
「ならいい」
西園寺はそう言って、また窓の外へ視線を向けた。
グラウンドでは、真田が先輩と話している。
まだ嬉しそうだった。
西園寺の目が、ほんの少し柔らかくなる。
「今日の巴様、いい顔してる」
「そうだな」
「分かるの?」
「分かるくらいには見てる」
言ってから、少しだけしまったと思った。
西園寺がこちらを見る。
「……ふーん」
「なんだ」
「別に」
彼女はそれ以上は言わなかった。
ただ、少しだけ警戒された気がする。
俺は窓際を離れた。
これ以上ここにいると、いろいろ聞かれそうだった。
「じゃあな」
「うん」
西園寺は軽く手を振る。
「朝比奈」
呼ばれて、少しだけ足を止めた。
告一ではなく。
朝比奈。
それだけで、少しだけ気分が違った。
「巴様はすごいから」
「ああ」
「ちゃんと見なよ」
「……分かった」
「見てるだけじゃなくて」
西園寺は、窓の外を見たまま言った。
「ちゃんと分かるように見なよ」
その言葉は、少し意外だった。
ただのファンの言葉ではなかった。真田巴を本気で見ている人間の言葉だった。
「分かった」
俺はもう一度答えた。
それから教室を出る。
■廊下
廊下に出て、少しだけ息を吐いた。
(……言われたな)
無理だと思う。
変な見方をするな。
ちゃんと分かるように見ろ。
全部、軽くはなかった。
でも、もうあの頃とは違う。
勢いだけで告白していた頃とは違う。
ただ、見ているだけでもない。
(ちゃんと、近づいてる)
少しずつ。
本当に少しずつ。
名前を覚えてもらった。
手紙を受け取ってもらった。
またグラウンドに来てもいいと言われた。
まだ遠い。
でも、ゼロではない。
階段へ向かいながら、俺はもう一度グラウンドの方を見た。
遠くで、真田巴が走っている。
やっぱり速い。
やっぱり遠い。
けれど、その遠さを見ても、もう諦めたいとは思わなかった。
ただ見上げるだけではなく。
ただ憧れるだけでもなく。
いつか、ちゃんと分かるように見たい。
そして、いつか。
真田巴にも、朝比奈恒一として見てもらいたい。
そう思いながら、俺は階段を降りた。




