第149話 朝から詰んでいる
■朝の廊下
恒一は、気づけば観衆に囲まれていた。
昨日から続く、真白の騒動。
転校初日に抱きつかれ、婚約者と名乗られ、陸上部に来られ、家にまで挨拶に来られた。
そして今朝は、家まで迎えに来られた。
そのうえ、登校中に彩音に見られた。
学校に着けば、すでに噂になっていた。
当然のように、廊下で人が集まる。
恒一。
真白。
彩音。
そして目の前には、巴と千夜。
これだけ揃えば、人が集まらない方がおかしかった。
「朝比奈」
巴の声は静かだった。
静かすぎて、むしろ怖い。
「はい」
「どういう状況だ」
「俺にも分からない」
恒一は正直に答えた。
だが、たぶん正直さだけで許される空気ではなかった。
巴の視線が、恒一の横に落ちる。
そこで、恒一も気づいた。
真白が、いつの間にか恒一の袖を掴んでいた。
抱きついてはいない。
昨日よりは控えめだ。
控えめなのだが、十分近い。
「……北条さん」
「はい、恒一様」
「いつの間に」
「先ほどからです」
「先ほどから」
「はい」
自然すぎて気づかなかった。
いや、気づかなかった恒一も悪いのかもしれない。
ただ、昨日からあまりにも距離を詰められすぎて、感覚がおかしくなっている気がする。
よくない。
かなりよくない。
巴の眉が、わずかに動いた。
「北条」
「はい」
「離れろ」
短い言葉だった。
真白は、巴を見上げるようにして微笑む。
「昨日よりは、控えております」
「そういう話ではない」
「では、どういうお話でしょうか」
声は丁寧だった。
けれど、退く気配はない。
巴の声の温度が、少しだけ下がった。
「朝比奈が困っている」
「恒一様は、お優しい方ですから」
「答えになっていない」
巴の視線が、真白の指先に落ちる。
真白は、恒一の袖を掴んだままだった。
「朝比奈は嫌がっている」
「……」
「嫌がられているなら、離れろ」
廊下の空気が、少しだけ硬くなった。
真白は、わずかに目を伏せた。
その仕草だけを見ると、傷ついたようにも見えた。
けれど、次に顔を上げた時、その瞳はまっすぐだった。
「恒一様は、昨日」
嫌な予感がした。
かなりした。
ここで止めるべきだった。
だが、恒一が言葉を挟むより先に、真白は静かに続けた。
「私のことを、好きだと仰ってくださいました」
廊下の空気が凍った。
いや。
凍ったあと、爆発した。
「えええええ!?」
「好きって言った!?」
「朝比奈が!?」
「昨日!?」
「どこで!?」
「婚約者、本当なの!?」
観衆が一気に騒ぎ出す。
彩音が「あ」と小さく声を漏らした。
千夜は無表情のまま、少しだけ目を細める。
巴は固まっていた。
それから、ゆっくり恒一を見る。
「朝比奈」
「……はい」
「本当か」
逃げたい。
全力で逃げたい。
陸上部で鍛えた足を、今すぐ使いたい。
だが、ここで逃げたら終わる。
たぶん、本当に終わる。
恒一はゆっくり息を吐いた。
「弁解はしません」
廊下が少し静かになる。
「確かに、言いました」
巴の表情が、ほんの少し変わった。
怒っている、というより。
悔しそうだった。
恒一の胸が痛んだ。
言い方を間違えた。
昨日も。
そして、今も。
「……そうか」
巴が小さく言った。
声を荒げているわけではない。
ただ、いつもより少しだけ温度が低い。
恒一は、すぐに言葉を足そうとした。
「ただ、それは」
「朝比奈君」
千夜が割って入った。
声は低くない。
むしろ、いつも通りに近い。
だが、その一言で空気が少し止まった。
「ここではまずい」
千夜は廊下を見回す。
観衆。
ざわめき。
興味本位の視線。
ここで話す内容ではない。
それは恒一にも分かる。
分かるが、ここで止めるのも怖い。
「続きは放課後」
千夜が言った。
巴は黙ったままだった。
「巴」
「……分かった」
短く答える。
巴は恒一を見た。
何か言いたそうだった。
でも、言わなかった。
そのまま、千夜と一緒に廊下の向こうへ歩いていく。
背中が、昨日よりさらに硬い。
恒一は、その背中を見送るしかなかった。
放課後。
その言葉が、頭の中に残る。
確実に、何かを話すことになる。
だが、恒一はどこまで話せるのか。
神様のことは言えない。
真白の事情も、まだほとんど知らない。
昨日の「好き」の意味を説明しても、言い訳に聞こえるかもしれない。
巴を傷つけたことは、たぶん変わらない。
「……」
恒一は頭を抱えた。
まただ。
本当に、まただ。
朝から、もう何度目か分からない。
「恒一様」
真白が、そっと声をかけてくる。
「大丈夫ですか」
「大丈夫ではありません」
「申し訳ありません」
真白は少しだけ目を伏せた。
その声は、本当に申し訳なさそうだった。
けれど、袖を掴む指は離れていない。
「北条さん」
「はい」
「手」
「あ」
真白は自分の指先を見た。
それから、名残惜しそうに袖から手を離す。
「申し訳ありません。無意識でした」
「無意識でそれは困ります」
「努力いたします」
「何を」
「控えることを」
「今からお願いします」
「はい」
素直だった。
かなり素直だった。
だから余計に困る。
真白は悪びれていないわけではない。
謝るべきところでは謝る。
ただ、近い。
とにかく近い。
彩音が横で小さく息を吐いた。
「恒一」
「何」
「朝からすごいね」
「俺が一番そう思ってる」
「放課後、大変そう」
「言わないでほしい」
「でも、逃げない方がいいよ」
「分かってる」
「分かってる顔じゃないけど」
「分かってはいる」
彩音は少しだけ苦笑した。
その目は、いつものように面白がっているだけではなかった。
少し心配している。
それが分かった。
「恒一様」
真白が言う。
「ここにいると、さらに人が集まります。教室へ参りませんか」
「……そうですね」
それは正しかった。
真白は周囲に向かって丁寧に頭を下げる。
「申し訳ありません。通ります」
声は柔らかい。
だが、不思議とよく通る。
ざわついていた生徒たちが、少しずつ道を開けた。
真白は恒一の少し前に出る。
手は取らない。
袖も掴まない。
昨日よりは控えている。
けれど、恒一の進む方向は完全に真白が作っていた。
人の波が割れる。
恒一はその後ろを歩く。
完全に、真白のペースだった。
■二年A組 教室
教室に入った瞬間、空気が変わった。
いや。
変わったというより、止まった。
恒一と真白が一緒に入ってきたからだ。
しかも、廊下であれだけ騒ぎになった直後である。
教室にいたクラスメイトたちの視線が、一斉に二人へ向いた。
「あ、来た」
「北条さん、今日も朝比奈と一緒なんだ」
「やっぱり本当なんじゃない?」
「朝から一緒って、もうそういうことだろ」
小声は、小声になっていなかった。
恒一は聞こえないふりをした。
真白は気にした様子もなく、丁寧に頭を下げる。
「おはようございます」
その一言だけで、教室の何人かが少し黙った。
礼儀が強い。
礼儀が強すぎる。
真白は昨日と同じ席へ向かい、静かに座った。
周囲の視線を集めても、姿勢は乱れない。
まるで最初からそこにいるのが当然だったように、自然だった。
その自然さが、また教室をざわつかせる。
「本当に綺麗だよな」
「でも朝比奈か……」
「なんで朝比奈なんだよ」
「恒一様って呼ばれてたぞ」
聞こえている。
全部、聞こえている。
聞こえているが、反応したら負けだと思った。
恒一は自分の席に座り、鞄を机の横に掛けた。
いつもの朝のはずだった。
いつもの教室のはずだった。
けれど、昨日から何かが少しずつ変わっている。
真白が来た。
巴が傷ついた。
放課後に話すことになった。
そして恒一は、何をどこまで言えるのか、まだ分かっていない。
窓の外には、普通の朝の光が差していた。
教室のざわめきも、たぶんいつも通りだった。
普通に見える。
でも、その普通の中に、もう真白がいる。
恒一は静かに息を吐いた。
まだ朝なのに。
もう詰んでいる気がした。
■昼休み
昼休みになるまでが長かった。
授業中も、何度か視線を感じた。
前から。
横から。
後ろから。
たぶん、気のせいではない。
真白は授業中は静かだった。
姿勢よく座り、教師の話を聞き、必要なことはノートに書いている。
普通にしていれば、本当に礼儀正しい転校生だった。
普通にしていれば。
問題は、普通ではないことが多すぎるところだった。
昼休みになると、恒一はすぐに基樹を呼んだ。
「基樹」
「分かってる」
基樹は、恒一の顔を見るなりそう言った。
「場所変えるか」
「ああ」
二人は教室を出た。
彩音も少しこちらを見たが、今回はついて来なかった。
たぶん、分かってくれたのだろう。
■廊下の端
人通りの少ない階段近くで、恒一は足を止めた。
基樹が壁にもたれる。
「で?」
「ああ」
「放課後の件だろ」
「そう」
恒一はうなずいた。
「どうしたらいいと思う」
基樹は、すぐには答えなかった。
腕を組み、少しだけ眉を寄せる。
「正直に言うぞ」
「ああ」
「俺に相談されても、言えることはかなり少ない」
「……」
「北条さんとお前の関係を、俺は全部聞いてるわけじゃない」
「それは」
「分かってる。話せないんだろ」
基樹は、そこを責めなかった。
だから余計に、恒一の胸が重くなる。
「昨日の時点でもそうだった。今日もそうだ。お前は何か知ってる。でも全部は言えない。俺はそこまでは分かる」
「……ああ」
「だから、俺が言えるのは、かなり普通のことだけだ」
「普通のこと」
「放課後、気をつけろ」
短い言葉だった。
だが、軽くはなかった。
「余計なことを言うと、さらにこじれる」
「……」
「真田さんに嫌われるぞ」
その言葉は、まっすぐ刺さった。
恒一は何も言えなかった。
基樹は続ける。
「今朝の真田さん、怒ってるというより、傷ついてた」
「……分かってる」
「分かってるならいい。でも、分かってる顔じゃない」
「またそれか」
「またそれだよ」
基樹はため息をついた。
「お前、誠実に話そうとして、逆に全部言いすぎる時がある」
「……」
「でも今回は、全部言えばいいって話じゃないんだろ」
「そうだ」
「なら、言えることと言えないことをちゃんと分けろ」
基樹の声は、いつもより少しだけ真面目だった。
「それと、前田さん」
「前田さん?」
「あの人、たぶん相当見てる」
「……」
「真田さんの横で黙ってただけじゃない。周囲の空気も、お前の反応も、北条さんの出方も見てたと思う」
「そうなのか」
「たぶん」
基樹は少しだけ目を細めた。
「あの人、感情で押してくるタイプじゃない。ちゃんと考えて動くタイプだと思う」
「……」
「だから、適当な言い訳は通らない」
「言い訳はしない」
「それはいい。でも、言い訳しないからって、黙りすぎても駄目だ」
「難しいな」
「難しいよ」
基樹は即答した。
「だから詰んでる」
「言わないでくれ」
「朝から詰んでるだろ」
「分かってる」
恒一は壁に背を預けた。
放課後。
真田さん。
前田さん。
北条さん。
恒一。
何を言うべきか。
何を言わないべきか。
頭の中で考えても、答えは簡単に出ない。
「基樹」
「何?」
「俺は、真田さんを傷つけたよな」
基樹は少し黙った。
それから、短く答える。
「傷つけたと思う」
「……」
「でも、それで終わりじゃないだろ」
「終わりじゃない?」
「放課後、ちゃんと向き合えばいい」
「何を話せばいい」
「それは俺には分からない」
基樹は正直だった。
「ただ、ひとつだけ言える」
「何」
「北条さんのことをどう説明するかより先に、真田さんに何を伝えたいのかを間違えるな」
「……」
「朝比奈恒一は、真田巴をどう思っているのか」
基樹は恒一を見た。
「そこを誤魔化すと、終わる」
胸の奥が重くなった。
誤魔化すつもりはない。
ないはずだった。
でも、恒一はすでに何度も言葉を間違えている。
間違えた言葉は、相手に届く。
意味を変えて。
傷に変わって。
「……分かった」
「本当に?」
「たぶん」
「たぶんか」
「今は、それ以上言えない」
「まあ、お前らしい」
基樹は少しだけ苦笑した。
「とにかく、放課後は逃げるな」
「ああ」
「真田さんの前で、北条さんを雑に扱うな」
「分かってる」
「でも、北条さんを庇いすぎるな」
「難しい」
「難しいよ」
基樹はまた即答した。
「だから、気をつけろって言ってる」
「……ああ」
昼休みの終わりを告げる予鈴が鳴った。
二人は教室へ戻る。
廊下を歩きながら、恒一は考え続けていた。
何を言えるのか。
何を言ってはいけないのか。
誰に対して、何を誠実と呼ぶのか。
真白のことも。
巴のことも。
どちらも、雑には扱えない。
でも、どちらにも同じ言葉を使えば、たぶん誰かを傷つける。
教室の扉が見えてくる。
その向こうには、真白がいる。
放課後には、巴が待っている。
朝から詰んでいた状況は。
昼になっても、まったく解けていなかった。




