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恋愛台帳、時代ズレにつき修正不能  作者: サザルト
第3章 真白な頁に名前が灯る編

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第148話 朝から逃げ場がない

■朝比奈家


 朝。


 恒一は目を覚ますと、しばらく天井を見ていた。


 昨日のことを思い出す。


 真白が転校してきた。


 恒一に抱きついた。


 婚約者だと名乗った。


 陸上部に来た。


 巴と向かい合った。


 家に来た。


 両親に挨拶した。


 泣いた。


 抱きついた。


 そして、両親が完全に真白側へ傾いた。


「……」


 寝たはずなのに、疲れが取れていない。


 むしろ増えている気がする。


 布団の中に戻りたい。


 だが、学校はある。


 逃げても来る相手がいる以上、布団の中にいても安全とは限らない。


 恒一は諦めて起き上がった。


 顔を洗い、着替えて、食卓へ向かう。


 母は、いつも通り朝食を用意していた。


「おはよう、恒一」


「おはよう」


 父は新聞を読んでいる。


 いつも通りの朝。


 そう思いたかった。


「昨日の真白ちゃん、丁寧な子だったわね」


 母が言った。


 いつも通りではなかった。


「そうだな」


 父が新聞から顔を上げる。


「いやあ、あの年であれだけしっかり挨拶できるのはすごいぞ」


「……」


「しかも、綺麗で礼儀正しい。ああいう子は大事にしないとな」


「付き合ってない」


「またまた」


「本当に」


 父と母は、顔を見合わせて微笑んだ。


 信じていない。


 完全に信じていない。


「でも、真白ちゃん、恒一のことをちゃんと見ていたわよ」


 母が言う。


「見ていたというか、かなり見ていたというか」


「いいじゃないか」


 父は妙に嬉しそうだった。


「父さんなんて、高校時代にあんな可愛い子が家まで挨拶に来たこと、一度もないぞ」


「普通はないと思う」


「お前は恵まれてるなあ」


「だから、そういう話じゃない」


 恒一は味噌汁を飲んだ。


 味はする。


 ただ、胃は少し重い。


 佐藤の気持ちが、日に日に分かってきている。


 朝食を終え、鞄を持つ。


「行ってきます」


 そう言って玄関へ向かおうとした。


 その時だった。


 ――ピンポーン。


 チャイムが鳴った。


 恒一は固まった。


 かなり嫌な予感がした。


「あら、誰かしら」


 母が先に玄関へ向かう。


 少しして。


「あら、真白ちゃん!」


 喜ぶ声が聞こえた。


 恒一は、その場で目を閉じた。


 やはりだった。


 嫌な予感は、最近よく当たる。


 当たらなくていい時に限って、よく当たる。


 ■玄関


 玄関へ行くと、真白が立っていた。


 昨日と同じように黒髪は艶やかで、姿勢はよく、朝の光の中で人形のように整って見えた。


 ただ、昨日より少しだけ表情が柔らかい。


 恒一を見ると、真白はすぐに丁寧に頭を下げた。


「おはようございます、恒一様」


「……おはようございます」


「朝早くから失礼いたしました」


「本当に早いですね」


「はい。恒一様とご一緒したく、参りました」


「……」


 母が横でにこにこしている。


 やめてほしい。


 その微笑ましいものを見るような顔をやめてほしい。


 真白は改めて恒一の方へ向き直った。


「それと、昨日の件で謝罪をさせてください」


「昨日?」


「はい」


 真白は深く頭を下げた。


「昨日、私が取り乱してしまったことで、恒一様を困らせてしまいました。申し訳ありません」


「……」


 かなり丁寧だった。


 きちんと謝っている。


 恒一は少し言葉に詰まった。


 昨日の真白は、恒一が付き合っていないとはっきり言うと泣いた。


 悪いところは直すので嫌いにならないでください、と頭を下げた。


 その結果、恒一が悪人のようになった。


 だが、今の真白は落ち着いている。


 自分が困らせたことを理解して、謝っている。


 だから、責めづらい。


「……謝らなくていい」


「いえ、謝らせてください。感情が先に出ました」


「そうですか」


「ですが」


「ですが?」


 真白が顔を上げる。


 澄んだ目が、まっすぐ恒一を見た。


「恒一様を大切に思う気持ちは、変わりません」


「……」


 母が胸の前で手を合わせそうな顔をしている。


 だめだ。


 母の評価が、また上がった。


「おや、真白ちゃんか」


 奥から父まで出てきた。


 なぜ出てくる。


 いや、声が聞こえれば出てくるか。


 父は真白を見た瞬間、分かりやすく顔を明るくした。


「おはよう、真白ちゃん。朝から来てくれたのか」


「おはようございます、お父様」


「お、お父様」


 父の顔が、朝から崩れた。


 まだ早い。


 朝からその顔は重い。


 しかも父は、なぜか恒一の隣に来ると、ばしん、と背中を叩いた。


「痛っ」


「恒一」


「何」


「いい子じゃないか!」


 ばしん。


「痛い」


「朝から迎えに来てくれるなんて、なかなかできることじゃないぞ!」


 ばしん。


「だから痛いって」


 父は聞いていない。


 完全に浮かれている。


 真白は少しだけ目を瞬かせたあと、丁寧に頭を下げた。


「昨日は突然お邪魔してしまい、申し訳ありませんでした」


「いやいや、いいんだよ。礼儀正しいねえ」


 父の評価が上がった。


 同時に、恒一の背中はかなり痛くなった。


 真白は恐ろしい。


 行動は重いのに、礼儀で周囲を味方につけていく。


 そして、その被害はなぜか恒一の背中に来る。


「真白ちゃん、朝ごはんは?」


 母が聞く。


「お気遣いありがとうございます。ですが、今朝はいただいてまいりましたので」


「そうなの? 遠慮しなくていいのよ」


「ありがとうございます、お母様。次の機会がございましたら、ぜひ」


 母の顔も崩れた。


 もうだめだ。


 朝比奈家の両親は、完全に真白に弱い。


「次の機会だって」


 父が嬉しそうに恒一を見る。


「恒一、聞いたか」


「聞こえてる」


「次は朝ごはんも一緒だな」


「決めないで」


「いやあ、家が明るくなるな」


「まだ何も始まってない」


「始まればいいじゃないか」


「父さん」


「なんだ」


「本当に話を聞いて」


「聞いてるぞ。真白ちゃんは礼儀正しくて、朝から迎えに来てくれて、お前は照れている」


「ほぼ間違ってる」


 父は笑っていた。


 完全に楽しんでいる。


 それどころか、もう真白の味方だった。


「恒一」


 父が言う。


「一緒に行くんだろ」


「……学校は同じなので」


「ちゃんと送ってあげなさい」


「同じ方向です」


「そういうところだぞ」


「どういうところだ」


 父は答えず、また恒一の背中を叩いた。


 ばしん。


「痛い」


「男なら、こういう時はしっかりしないとな」


「何を」


「色々だ」


「説明して」


「説明されないと分からないところが、まだまだだな」


 母も楽しそうだった。


 恒一だけが、全然楽しくなかった。


「では、行ってまいります」


 真白が両親に丁寧に頭を下げる。


「行ってらっしゃい、真白ちゃん」


「はい、お母様」


「気をつけるんだよ、真白ちゃん」


「ありがとうございます、お父様」


「うんうん」


 父は満面の笑みだった。


 そして、また恒一の背中を叩いた。


 ばしん。


「痛いって」


「恒一、ちゃんと守ってやれよ」


「通学するだけだよ」


「通学も大事だ」


「何が」


「青春だ」


「雑だな」


 父は最後まで嬉しそうだった。


 母も嬉しそうだった。


 真白は丁寧に微笑んでいた。


 恒一は何も分からないまま、真白と家を出た。


 ■通学路


 朝の通学路。


 恒一の隣を、真白が歩いている。


 距離は近い。


 ただし、昨日よりは半歩ほど離れていた。


 たぶん、昨日、恒一が困っていると言ったからだろう。


 そこは守ってくれている。


 守ってくれているが、近いことには変わりない。


「北条さん」


「はい」


「朝、家まで来るのは」


「ご迷惑でしたか」


 真白がすぐに恒一を見る。


 その目があまりに真剣で、恒一は言葉を選ぶ必要があった。


「迷惑というか、驚く」


「なるほど」


「事前に連絡してくれると助かる」


「承知しました」


 真白は素直にうなずいた。


「次からは、事前にご連絡いたします」


「……ありがとう」


「はい」


 こういうところは本当に素直だ。


 だから余計に困る。


 拒絶しづらい。


 雑に扱えない。


 真白は歩きながら、何度か周囲の視線を集めていた。


 すれ違う生徒が振り返る。


 通学中の男子がちらちら見る。


 女子も、小声で「綺麗」とか「誰?」と言っている。


 分かる。


 真白は見られる。


 小柄で儚げなのに、妙に目を引く。


 人形のようで、それでも歩き方には芯がある。


 この存在感は、巴とは違う種類の強さだった。


「……見られてるな」


 恒一が呟くと、真白は少し首を傾げた。


「そうでしょうか」


「そうです」


「私は、恒一様を見ていますので」


「答えになっていません」


「そうでしたか」


 真白は少しだけ微笑む。


 その笑顔を見て、また周囲の視線が増えた気がした。


 まずい。


 学校に着く前から、すでに噂が増えそうだ。


 そう思った時だった。


 背中に何か視線を感じた。


「……」


 恒一は振り返った。


 少し後ろ。


 電柱のそば。


 彩音がいた。


 こちらを見ていた。


 かなり自然に立っているつもりなのだろうが、完全に見ている。


「彩音」


 恒一が呼ぶと、彩音は一瞬だけ目を逸らした。


 だが、すぐに観念したようにこちらへ歩いてくる。


「おはよう」


「おはよう」


「偶然だね」


「偶然か?」


「うん。たぶん」


「たぶん」


 真白が丁寧に頭を下げた。


「おはようございます、一ノ瀬様」


「あ、おはよう。北条さん」


「真白とお呼びください」


「じゃあ、真白さん」


「はい」


 真白は柔らかく微笑む。


 彩音はその顔を見ながら、少しだけ目を細めた。


 観察している。


 完全に観察している。


「彩音」


「なに?」


「何をしていたかは、想像がつくから聞かない」


「助かる」


 彩音はあっさり言った。


「聞かれたら、ちょっと答えづらかった」


「やっぱり見ていたのか」


「たまたま視界に入っただけ」


「どのくらい?」


「恒一の家から出てくるところくらいから」


「最初からじゃないか」


「うん」


 認めた。


 彩音は悪びれない。


 真白は不思議そうに、二人のやり取りを見ている。


「一ノ瀬様は、恒一様を案じていらっしゃるのですね」


「うん、まあ」


 彩音は少し笑った。


「案じてるし、気になってる」


「良いご友人です」


「そう言われると照れるね」


「恒一様は、良い方に恵まれていらっしゃいます」


「それは本当にそう」


 彩音が笑う。


 恒一は何も言えなかった。


 真白がそんなことを言うのは、少し意外だった。


 いや。


 真白は礼儀正しく、人を見る。


 そこは昨日から分かっていた。


 ただ、恒一に関することだけが極端に近すぎる。


 その差が大きすぎるのだ。


「行くか」


「うん」


「はい」


 三人で学校へ向かった。


 ■学校


 校門に近づくにつれ、視線が増えた。


 昨日の騒ぎは、もうかなり広がっているらしい。


「あ、北条さんだ」


「朝比奈と一緒じゃん」


「え、朝から?」


「やっぱ婚約者って本当なの?」


「一ノ瀬もいる」


「何この組み合わせ」


 小声は、小声になっていなかった。


 真白の美少女ぶりも、かなり話題になっているようだった。


 廊下に入ると、さらにざわつく。


「本当に人形みたい」


「めちゃくちゃ綺麗」


「朝比奈、なんでだよ」


「恒一様って呼ぶんだっけ?」


「昨日、家にも行ったって本当?」


 もう家の話まで広がっている。


 速すぎる。


 誰だ。


 いや。


 誰かが見ていたのか。


 もしくは純也か。


 純也は言いそうだが、確証はない。


 恒一は考えるのをやめた。


 無視する。


 今は無視するしかない。


「教室へ行きます」


「はい、恒一様」


「その呼び方も、あとで話します」


「はい」


 真白は嬉しそうだった。


 あとで話す、が前向きに聞こえている気がする。


 彩音が横で小さく笑った。


「恒一、言い方に気をつけた方がいいかも」


「今、思った」


「遅いね」


「遅かった」


 そのまま教室へ向かおうとした時だった。


「朝比奈」


 名前を呼ばれた。


 聞き慣れた声。


 恒一の背筋が、少し固まる。


 振り向く。


 廊下の少し先に、巴がいた。


 隣には、千夜もいる。


 巴は、こちらを見ていた。


 表情は落ち着いている。


 だが、目が落ち着いていない。


 いや、正確には静かすぎる。


 それが怖い。


 千夜は無表情に近いが、少しだけ状況を見ている顔だった。


 真白が恒一の隣にいる。


 彩音もいる。


 そして、巴と千夜が前にいる。


 廊下の周囲が、一気に静かになった。


 まただ。


 また、空気が止まる。


 真白は巴を見ると、丁寧に頭を下げた。


「おはようございます、巴さん」


 巴は少しだけ目を細めた。


「……おはよう、北条」


 声を荒げているわけではない。


 ただ、いつもより少しだけ温度が低い。


 真白は微笑んだまま、恒一の隣に立っている。


 彩音は口元だけ笑っていた。


 千夜は何も言わない。


 恒一は、今日何度目か分からないほど頭を抱えたくなった。


 まだ一日は始まったばかりなのに。


 朝から、逃げ場がなかった。


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