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恋愛台帳、時代ズレにつき修正不能  作者: サザルト
第3章 真白な頁に名前が灯る編

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第147話 神様はだいたい余計なことをする

■朝比奈家


 その夜


 恒一は、布団に入るなり眠った。


 正確には、眠ったというより、落ちた。


 朝から転校生騒動。


 教室で抱きつかれ、婚約者だと名乗られ。


 放課後には陸上部へついて来られ、巴と真白が向かい合い。


 家に帰れば、今度は両親への挨拶までされた。


 しかも父と母は、完全に真白を歓迎していた。


 恒一の話は、だいたい流された。


 疲れない方がおかしい。


 だから、布団に入った瞬間、意識が沈んだ。


 そして。


 白い空間にいた。


「……」


 また、ここだった。


 上も下も分からない。


 壁もない。


 床もない。


 ただ白い。


 そして、その白い空間の中央に。


 白髪に白ひげの老人が、ものすごいドヤ顔で立っていた。


「うむ」


 神様は、ひげをくるくるといじりながら言った。


「どうじゃ」


「何がですか」


「会えたじゃろう」


「会えましたね」


「礼を言ってもよいぞ」


「言うわけないでしょう」


 恒一は即答した。


 神様が少しだけ目を丸くする。


「なんじゃ。不満か?」


「不満しかありません」


「ほう」


「朝、教室で抱きつかれました」


「うむ」


「皆の前で婚約者だと名乗られました」


「うむ」


「陸上部までついて来ました」


「うむ」


「真田さんがものすごく不機嫌になりました」


「それはそれで進展じゃ」


「進展ではありません」


 恒一は思わず声を強くした。


「しかも家に来て、両親に挨拶しました」


「早いのう」


「神様のせいでしょう」


「わしは家へ行けとは言っておらん」


「でも、原因は神様です」


「それを言われると、少しだけ否定しづらい」


「少しだけじゃないです」


 神様は楽しそうに笑っている。


 腹が立つ。


 かなり腹が立つ。


「父さんと母さんは、北条さんを完全に気に入りました」


「よかったではないか」


「よくないです」


「美しく、礼儀正しく、覚悟もある娘じゃ。親からすれば安心じゃろう」


「俺の話を聞いてくれません」


「それはお前さんの日頃の行いもあるのではないか?」


「何もしてません」


「指輪を買ったり、財布を賽銭箱に入れたりしたではないか」


「……」


 恒一は言い返せなかった。


 そこを出されると弱い。


 かなり弱い。


 神様は、にやにやと笑う。


「それにのう」


「なんですか」


「お前さん、抱きつかれて少し喜んでおったじゃろう」


「……」


 恒一の動きが止まった。


 白い空間なのに、空気まで止まったような気がした。


「柔らかかった、とか」


「……」


「よい匂いがした、とか」


「……」


「思っておったじゃろう」


「……」


 何も言えなかった。


 言えない。


 思った。


 実際、思った。


 いきなり抱きつかれて、柔らかかった。


 いい匂いがした。


 混乱した。


 動揺した。


 それは事実だった。


 神様は、これ見よがしにひげを撫でる。


「若いのう」


「黙ってください」


「否定せんのか」


「できないんです」


「素直でよろしい」


「よくありません」


 恒一は顔を手で覆った。


 最悪だ。


 神様にまで見られていた。


 いや、神様なのだから見ていてもおかしくはないのかもしれない。


 だが、嫌なものは嫌だった。


「でも」


 恒一は顔を上げた。


「それとこれは別です」


「ほう」


「北条さんが悪い子だとは思っていません」


「うむ」


「でも、俺は北条さんを知らない」


「うむ」


「なぜあそこまで俺に向かってくるのかも、分からない」


 教室での笑顔。


 陸上部での態度。


 家での挨拶。


 涙。


 大好きです、と言った声。


 全部、本気に見えた。


 だからこそ、分からない。


「彼女は、何者なんですか」


 神様は少しだけ表情を変えた。


 さっきまでのドヤ顔が、少し引っ込む。


「北条真白じゃ」


「名前ではなく」


「知っておる」


 神様は静かに言った。


「あの娘には、事情がある」


「事情」


「うむ」


「俺に関係があるんですか」


「ある」


「……」


「じゃが、今のお前さんに詳しく話すことはできん」


「なぜですか」


「聞けば、お前さんはたぶん、真白を見る目を変える」


「それは、悪い意味で?」


「悪いとも、良いとも言い切れん」


 神様はひげを撫でた。


 いつもの軽さが、少しだけ薄れていた。


「ただ、今ここでわしが話すべきことではない」


「本人から聞け、ですか」


「うむ」


「またそれですか」


「大事なことじゃ」


「俺が聞いていい話なんですか」


「いずれはな」


「今は?」


「今は、まだ早い」


 まただ。


 また、今はまだ。


 恒一の周りには、今はまだが多すぎる。


 けれど、神様の表情を見る限り、無理に聞き出していい話ではないのだろう。


「ただ、一つだけ言える」


「何ですか」


「真白は、お前さんに悪意を向けておるわけではない」


「……」


「困らせてはおるがの」


「そこは認めるんですね」


「認めるしかないじゃろう。初日に家まで行ったのじゃから」


「本当に困りました」


「うむ。かなり困っておったな」


「笑わないでください」


「笑ってはおらん」


「笑っています」


 神様は咳払いした。


「ともかく、真白はお前さんを傷つけようとしているわけではない」


「それは、分かります」


 教室で抱きつかれた。


 婚約者だと名乗られた。


 陸上部について来た。


 家にまで来た。


 正直、かなり困っている。


 でも、悪意は感じなかった。


 勢いはあった。


 距離感もかなりおかしかった。


 ただ、恒一を傷つけようとしているようには見えなかった。


「真白は、とてもいい子じゃ」


 神様は静かに言った。


「よければ、仲良くしてやってほしい」


「神様に言われると、少し警戒します」


「ひどいのう」


「前例があります」


「否定しづらい」


 神様は、また咳払いした。


「それに、お前さんにとっても、悪いことばかりではないはずじゃ」


「何がですか」


「こういった秘密の話を、少しでも共有できる相手がいる」


「……」


「基樹にも、彩音にも、真田にも話せぬことがあるじゃろう」


「あります」


「その中で、真白だけは事情の一部を知っておる」


「……」


「それは、一応ありがたいことではないか」


 恒一は黙った。


 それは否定できなかった。


 神様のこと。


 白い空間のこと。


 恋愛台帳のこと。


 運命や縁のこと。


 誰にも話せないことが多すぎる。


 基樹には心配される。


 彩音にも見抜かれる。


 巴には関係があるのに言えない。


 その中で、真白だけは。


 少なくとも、同じ秘密の側にいる。


「……それは、確かに」


 恒一は小さく言った。


「ありがたいかもしれません」


「じゃろう」


「でも、ありがたいことと、混乱することは別です」


「それもそうじゃな」


「かなり混乱しています」


「それも恋じゃ」


「違います」


「まだ違うかもしれんのう」


「神様」


「なんじゃ」


「余計なことを言わないでください」


 神様は少しだけ笑った。


「まあ、これだけは覚えておけ」


「はい」


「真白の言葉の全部が、ただの勢いというわけではない」


「……」


「あの娘なりに、本気ではある」


「本気」


「うむ」


「何に対してですか」


「それは、自分で見極めることじゃ」


「そこも言わないんですね」


「言わん」


 神様は、はっきり言った。


「わしが言えば、余計なものが混ざる」


「もう十分混ざってます」


「まだ混ぜられるぞ」


「やめてください」


 神様は楽しそうに笑った。


 だが、すぐに少しだけ真面目な顔に戻る。


「真白にも、向き合え」


「……」


「真田にも、向き合え」


「……」


「どちらかを雑に扱えば、お前さんはたぶん、後悔する」


 神様は静かに言った。


「お前さんは、そういう男じゃ」


 恒一には否定できなかった。


 真白を無視することはできない。


 巴を傷つけることもしたくない。


 どちらにも、ちゃんと向き合わなければならない。


 それは分かる。


 分かるのだが。


「俺の処理能力を超えています」


「鍛えるしかないのう」


「恋愛で鍛えたくないです」


「もう遅い」


「神様のせいです」


「半分はそうじゃな」


「もう半分は?」


「お前さんの性格じゃ」


 また何も言い返せなかった。


 悔しい。


 かなり悔しい。


 神様は、また少し楽しそうな顔になった。


「まあ、安心せい」


「安心できる要素がありません」


「知りたいことは、本人に聞ける」


「だから、それが難しいと」


「ここで聞けばよい」


「ここ?」


 恒一は白い空間を見回した。


「夢の中で?」


「夢というより、縁の間じゃな」


「縁の間」


「強く願えば、ここに来られる」


「俺だけじゃなく?」


「同じ概念の枠にある者ならな」


 嫌な予感がした。


 かなりした。


「……同じ概念の枠」


「うむ」


「それは、北条さんも?」


「もちろんじゃ」


 神様は、にやりと笑った。


「真白も、お前さんと同じように強く願えば、ここへ来られる」


「待ってください」


「何をじゃ」


「それはつまり」


「同じ場所に来る、ということじゃな」


「……」


 白い空間なのに、また背筋が冷えた。


「たぶん、そろそろ来るぞ」


「は?」


「今日あれだけ会えたのじゃ。真白の願いも強まっておるじゃろう」


「待ってください」


「待たん」


「いや、待ってください」


「わしではなく、真白の問題じゃ」


 神様は、楽しそうにひげをくるくるといじる。


「ここなら、誰にも邪魔されず話せるぞ」


「今は心の準備が」


「お前さん、いつも心の準備ができておらんな」


「できる前に事件が来るんです」


「それも恋じゃ」


「違うと思います」


 その時。


 白い空間の向こう側が、ほんの少し揺れた。


 誰かが来る。


 そんな感覚があった。


 神様がにやりと笑う。


「ほれ」


「……」


「来るぞ」


「起きます」


「逃げるのか」


「起きます」


「お前さん、足も速くなったが、逃げ足も速くなったのう」


「黙ってください」


 恒一は全力で目を覚まそうとした。


 そんなことができるのか分からない。


 だが、今はできる気がした。


 いや。


 できなければ困る。


 白い空間が揺れる。


 向こう側に、小柄な影が見えた気がした。


 黒い髪。


 静かな気配。


 恒一は慌てて意識を引き上げた。


 ■縁の間


 恒一の姿が、ふっと消えた。


 白い空間に、しばらく沈黙が落ちる。


 神様は、ひげを撫でたまま、少しだけ肩をすくめた。


「逃げおった」


 その直後。


 白い空間の端が、静かに揺れた。


 小柄な影が現れる。


 黒い髪。


 白い肌。


 黒曜石のような瞳。


 真白は、ゆっくりと周囲を見回した。


 そして、そこに恒一がいないことに気づく。


「……恒一様は」


「つい今しがた、起きた」


「そうですか」


 真白は少しだけ目を伏せた。


 その声は静かだった。


 けれど、落胆は隠しきれていなかった。


「逃げられましたか」


「うむ。なかなか見事な逃げ足じゃった」


「昨日も、陸上部からお帰りになるのがとても早かったです」


「足は速くなっておるようじゃな」


「はい」


 真白は小さくうなずいた。


 その表情は、少し寂しそうだった。


「私は、また困らせてしまったのでしょうか?」


「かなり困らせておる」


「……そうですか」


「ただし、嫌われてはおらん」


 真白の瞳が、わずかに揺れた。


「本当ですか」


「うむ」


「恒一様は、私を嫌っていませんか」


「嫌ってはおらん」


 神様は少しだけ目を細めた。


「じゃが、真白」


「はい」


「あまり急ぎすぎるでない」


 真白は黙った。


 白い空間は、どこまでも静かだった。


「お前さん、昨日一日で教室、陸上部、自宅まで踏み込んだじゃろう」


「はい」


「親への挨拶もした」


「はい」


「泣いて抱きついた」


「……はい」


「濃い一日じゃ」


「反省しております」


「本当にか?」


 真白は、すぐには答えなかった。


 少しだけ視線を落とす。


「困らせたことは、反省しております」


「それ以外は?」


「……」


「真白」


 神様の声が少しだけ低くなる。


「あの男にも、歩幅がある」


 真白の指先が、胸の前で静かに重なった。


「はい」


「お前さんの速さで近づけば、あやつは逃げる」


「……今日、逃げられました」


「見事に逃げたのう」


「はい」


「笑いごとではないぞ」


「……はい」


 真白は、ゆっくりとうなずいた。


「待つのが、平気というわけではありません」


「知っておる」


「待っている間に、遠くへ行ってしまうのではないかと、思ってしまいます」


「うむ」


「だから、近づきたくなります」


「それも分かる」


 神様は静かに言った。


「じゃが、近づきすぎれば、相手は息ができん」


 真白は何も言わなかった。


 その沈黙は、少しだけ幼く見えた。


「私は」


 やがて、真白が小さく言った。


「恒一様に、嫌われたくありません」


「うむ」


「困らせたくもありません」


「うむ」


「でも、離れていたくもありません」


「面倒じゃのう」


「はい」


 真白は素直にうなずいた。


「私も、そう思います」


 神様は少しだけ笑った。


 それから、ひげを撫でながら言う。


「まずは、明日から少しだけ控えよ」


「控える」


「朝から家へ行くなら、連絡を入れる」


「はい」


「抱きつくのは、少し減らす」


「少し、ですか」


「全部やめろと言っても、お前さんはできんじゃろう」


「……努力いたします」


「それと」


「はい」


「泣けば、すべて通ると思うでない」


 真白の表情が、わずかに揺れた。


「思っては」


「おらんと言い切れるか?」


「……」


「お前さんは賢い。自分がどう見えるかも、分かっておる」


「……はい」


「その賢さで、恒一を追い詰めすぎるな」


 真白はしばらく黙っていた。


 やがて、ゆっくりと頭を下げる。


「はい」


 その返事は小さかった。


 けれど、先ほどよりも本当らしかった。


「神様」


「なんじゃ」


「恒一様は、いつか聞いてくださるでしょうか」


「何をじゃ」


「私のことを」


 神様は、すぐには答えなかった。


 白い空間に、淡い静けさが落ちる。


「いずれな」


「今は」


「まだ早い」


「……そうですか」


「今話せば、あやつはたぶん全部背負おうとする」


 真白が顔を上げる。


「全部、ですか」


「うむ。自分に何ができるかも分からんくせに、どうにかしようとする」


「恒一様らしいです」


「じゃろう」


 真白は少しだけ微笑んだ。


 教室や玄関で見せた完璧な笑顔とは違う。


 弱くて、幼くて、少しだけ不安そうな笑みだった。


「だから、私はあの方に会いたかったのかもしれません」


「かもしれん、か」


「まだ、自分でもうまく言えません」


「なら、今はそれでよい」


 神様は、またひげを撫でた。


「ただし、真白」


「はい」


「言えぬことがあるうちは、言えぬなりに誠実でいろ」


「誠実」


「うむ」


「難しいですね」


「恋はだいたい難しい」


「神様が難しくしているのでは?」


「全部ではない」


 神様は堂々と言った。


 真白は、ほんの少しだけ笑った。


「神様は、だいたい余計なことをなさいます」


「恒一にも似たようなことを言われたわい」


「そうですか」


「うむ」


「少し、安心しました」


「なぜじゃ」


「同じことを思えたので」


 神様は、ぽかんとした。


 それから、少しだけ困ったように笑う。


「お前さんたちは、妙なところで気が合うのう」


 真白は何も言わずに目を伏せた。


 その頬が、かすかに赤くなっていた。


「では、そろそろ戻るとよい」


「はい」


 真白の姿が、白い空間の中で少しずつ薄れていく。


 消える直前、彼女はもう一度だけ、恒一がいた場所を見た。


「恒一様」


 小さな声だった。


「明日は、もう少しだけ近くにいさせてください」


 その声が届く相手は、もうそこにはいなかった。


 真白の姿が消える。


 白い空間に、神様だけが残った。


 神様はしばらく黙っていた。


 やがて、深く息を吐く。


「……まったく」


 ひげをくるくると撫でながら、ぽつりと言った。


「わし、また余計なことをしておるのう」


 自覚はあるらしかった。


 ■朝


「……っ」


 恒一は目を覚ました。


 天井。


 自分の部屋。


 朝の薄い光。


 心臓が、やけに速い。


 恒一は布団の中で、しばらく固まっていた。


「……危なかった」


 本当に危なかった。


 夢の中でまで、真白に会うところだった。


 いや。


 会うべきなのかもしれない。


 本人に聞け。


 神様はそう言った。


 真白には事情がある。


 恒一に向かってくる理由もある。


 でも、それはまだ聞けない。


 ただ、悪意ではない。


 それだけは分かった。


 分かったが。


 だからといって、混乱しないわけではない。


「……準備させてくれ」


 誰に向けた言葉なのか、恒一自身にも分からなかった。


 神様か。


 真白か。


 それとも、自分自身か。


 恒一は布団の中で、深く息を吐いた。


 昨日だけでも限界だった。


 教室。


 陸上部。


 自宅。


 そして今度は夢の中。


 真白は、恒一が逃げた先にまで来るらしい。


 神様は、最後までドヤ顔だった。


 恒一は起きて最初に思った。


 今日も、たぶん大変になる。


 そして、その予感は。


 たぶん、かなり当たる。



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