第146話 両親が味方にならなかった話
■朝比奈家
真白は、朝比奈家に上がった。
玄関で靴をそろえ、丁寧に頭を下げてから、静かに廊下を進む。
所作がきれいだった。
一つ一つの動きに乱れがない。
小柄な黒髪の美少女が、まるで以前から招かれていた客人のように、自然に家の中へ入っていく。
父と母は、すでに少し嬉しそうだった。
恒一は、その時点で嫌な予感しかしなかった。
リビングへ通すと、真白は改めて床に座った。
正座だった。
この家のリビングで、ここまできれいに正座した人間を、恒一はあまり見たことがない。
基樹、彩音、純也は少し離れて座っていた。
三人とも、完全に見物体勢だった。
いや、基樹だけは少し心配そうだった。
彩音は観察している。
純也は完全に興味津々だった。
「改めまして」
真白は両手をそろえて、深く頭を下げた。
「北条真白と申します。本日は突然お邪魔してしまい、申し訳ございません」
「あら、そんな」
母が柔らかく笑う。
「とても丁寧なのね」
「いえ。大切なご挨拶ですので」
その一言で、父の目が少し輝いた。
やめてほしい。
その方向で感心しないでほしい。
「恒一様には、本日より同じクラスでお世話になっております」
「恒一様」
父が、にやにやしながら恒一を見る。
「恒一、様だって」
「からかわないで」
「いいじゃないか。父さん、人生で一度も様付けされたことないぞ」
「俺も今日初めてだよ」
「初日で様付けされるとは、なかなかやるな」
「やってない」
恒一は否定した。
かなり強めに否定した。
しかし、父は笑っている。
駄目だ。
すでに話を聞く体勢ではない。
真白は静かに続けた。
「私は、恒一様と真剣に向き合いたいと考えております」
「真剣に」
母が目を瞬かせる。
「はい」
真白はまっすぐにうなずいた。
それから、ほんの一瞬だけ恒一を見た。
その視線は、恥じらっているようにも、恒一の反応を確かめているようにも見えた。
「できれば、その先のことも……許されるなら、考えさせていただきたいと思っております」
リビングが一瞬、静かになった。
父も母も固まる。
基樹が小さく息を吸った。
彩音の目が少しだけ細くなる。
純也は完全に前のめりになっていた。
恒一はすぐに言った。
「待ってください」
だが、父の方が早かった。
「恒一」
「何?」
「お前、幸せ者だな」
「違う」
父はしみじみと言った。
「こんな綺麗で礼儀正しい子が、そこまで真剣に考えてくれてるなんて」
「父さん、話を聞いて」
「聞いてるよ」
「聞いてない」
母も少し頬に手を当てて、真白を見る。
「真白ちゃん」
「はい」
もう真白ちゃんだった。
早すぎる。
「こちらこそ、恒一をよろしくね」
「母さん」
「はい」
母は恒一を見た。
「何?」
「よろしくしないで」
「どうして?」
「付き合ってないから」
「まだ、でしょ?」
「まだ、でもない」
母は不思議そうに首を傾げた。
真白は、そんな母へ向かって、ふわりと微笑んだ。
「お母様」
お母様。
母の顔が、ぱあっと明るくなった。
「まあ」
「今はまだ、恒一様が戸惑っていらっしゃるだけだと思います。ですが、私は誠実に向き合うつもりです」
「しっかりしてるわねえ」
「ありがとうございます、お母様」
母の評価が、さらに上がった。
目に見えるほど上がった。
父も隣で嬉しそうにうなずいている。
「お父様にも、ご迷惑をおかけしないよう努めます」
「お、お父様」
父の顔が崩れた。
土砂崩れだった。
もう原形がない。
「恒一」
「何」
「いい子じゃないか」
「いい子なのは否定しない」
「ならいいじゃないか」
「よくない」
恒一の声は、どんどん届かなくなっていた。
真白は礼儀正しい。
ものすごく礼儀正しい。
言葉遣いが丁寧で、手土産も持ってきて、挨拶も完璧だった。
父と母が悪いわけではない。
初対面でこれをされたら、好印象になるのは分かる。
分かるが。
恒一の話も聞いてほしかった。
「恒一」
基樹が小さく言った。
「今は一回、話を聞いた方がいいかもしれない」
「基樹まで?」
「いや、止めたい気持ちは分かる。でも、ここで無理に止めると、もっと話がこじれそうだ」
「もう十分こじれてる」
「それはそう」
基樹は否定しなかった。
彩音が少し真面目な顔で真白を見ている。
「でも、真白さんの話し方はかなり上手いね」
「そこを分析しないでほしい」
「ご両親の好感度、すごい速度で上がってる」
「実況もしないでほしい」
純也は楽しそうに笑っていた。
「いやあ、これは見に来て正解だった」
「帰ってくれ」
「無理」
完全に味方が少ない。
いや。
基樹は味方だ。
彩音も、たぶん味方ではある。
ただ、観察者の血が勝っている。
純也は完全に見物人だった。
そして父と母は、すでに真白側へ行きかけている。
恒一は、もう限界だった。
「北条さん」
少し強めに言った。
部屋の空気が止まる。
真白が恒一を見る。
「はい、恒一様」
「俺は、君とは付き合っていない」
はっきり言った。
真白の表情が、わずかに揺れた。
「婚約者でもない」
「……」
「結婚の予定もない」
静かになった。
父と母も、ようやく黙る。
基樹は恒一を見ている。
彩音も、少しだけ目を細めた。
純也も笑うのをやめていた。
真白は、しばらく恒一を見ていた。
黒曜石のような瞳が、少しずつ潤んでいく。
「……恒一様」
声が震えていた。
「私のことが」
ぽろり、と涙が落ちた。
「お嫌いなのですか」
「……」
まずい。
恒一は瞬時に思った。
これは、まずい。
真白の目から、涙が次々とこぼれていく。
静かに。
けれど、止まらない。
ほんの一瞬、母の方へ視線が動いたようにも見えた。
けれど、それが計算なのか、本当に助けを求めたのかは分からない。
少なくとも、涙は演技には見えなかった。
「悪いところがあれば、直します」
「いや」
「至らぬところがあれば、学びます」
「待ってください」
「ですから」
真白は深く頭を下げた。
「嫌いにならないでください」
リビングの空気が、一気に変わった。
父と母の視線が恒一に刺さる。
基樹も少し困った顔になる。
彩音は口元に手を当てていた。
純也まで、さすがに少し気まずそうだった。
「恒一」
母の声が低い。
「女の子を泣かせるのは、よくないわ」
「母さん、違う」
「何が違うの」
「俺は事実を」
「事実でも、言い方があるでしょう」
悪人扱いだった。
いや。
泣かせたのは恒一かもしれない。
だが、今の流れはさすがに理不尽だった。
父も腕を組んでいる。
「恒一、真白ちゃんはこんなに真剣じゃないか」
「だから、俺も真剣に言ってる」
「真剣に泣かせてどうする」
「……」
返せない。
なぜなら、泣いているからだ。
真白は本当に泣いている。
たぶん、本気で傷ついている。
それが分かるから、余計に困った。
「北条さん」
「……はい」
「嫌いではない」
真白が顔を上げた。
目元が赤い。
「本当ですか!」
「本当です」
「では」
真白は涙をこぼしながら、真剣に聞いた。
「好きですか?」
「……」
部屋が止まった。
基樹が「あ」と小さく声を漏らした。
彩音が目を細める。
純也が息を止める。
父と母は、期待するように恒一を見る。
やめてほしい。
全員でこちらを見ないでほしい。
「好きか嫌いかで言えば」
恒一は慎重に言葉を選んだ。
選んだつもりだった。
「どちらかと言えば、好きです」
その瞬間。
真白の顔が、ぱっと明るくなった。
涙を残したまま、花が咲いたように笑う。
「私も大好きです!」
そして、抱きついてきた。
「……っ」
まただった。
今日何度目だ。
もう数えていない。
小柄な体が、恒一の胸へ飛び込んでくる。
柔らかい。
いい匂いがする。
泣いた直後なのに、もう笑顔だった。
感情の切り替わりが早い。
いや、違う。
恒一の答えを、本気で喜んでいるのだ。
「恒一様」
「はい」
「嬉しいです」
「……それは、よかったです」
「はい」
よかったのか。
本当によかったのか。
恒一には分からなかった。
まったく分からない。
父が笑った。
「なんだ、両思いじゃないか」
「違う」
恒一はすぐに否定した。
だが、真白が抱きついたままだったので、説得力がなかった。
母も嬉しそうに微笑む。
「よかったわね、真白ちゃん」
「はい、お母様」
「またいつでも遊びに来てね」
「ありがとうございます」
「母さん」
「なあに?」
「いつでも来てね、じゃない」
「でも、こんなに礼儀正しい子なら大歓迎よ」
「話を聞いて」
「聞いてるわよ」
「聞いてない」
父も笑顔で言う。
「真白ちゃん、今度はゆっくり夕飯も食べていきなさい」
「よろしいのですか」
「もちろん」
「ありがとうございます、お父様」
父の顔がまた崩れた。
本当に崩れた。
父という生き物は、「お父様」に弱いのかもしれない。
知らなかった。
知りたくなかった。
真白はようやく恒一から離れると、丁寧に頭を下げた。
「本日は突然お邪魔してしまい、申し訳ありませんでした」
「いえいえ」
母がにこにこしている。
「またいらっしゃい」
「はい」
真白は恒一を見る。
「恒一様」
「……はい」
「本日はご挨拶ができて、とても嬉しかったです」
「そうですか」
「はい。では、今日はこれで失礼いたします」
「送ります」
「ありがとうございます」
玄関まで送る間、父と母はずっと笑顔だった。
基樹たちもついてきた。
完全に見届ける気だった。
玄関で、真白はもう一度丁寧に頭を下げる。
「お邪魔いたしました」
「またね、真白ちゃん」
「はい、お母様」
「気をつけて帰るんだよ、真白ちゃん」
「ありがとうございます、お父様」
父の顔は、もう戻らなかった。
真白は最後に恒一へ向き直る。
「恒一様」
「なんですか」
「明日、学校でお会いできるのを楽しみにしております」
「……はい」
「それでは」
真白は嬉しそうに帰っていった。
その背中は小さく、でもどこか堂々としていた。
玄関の扉が閉まる。
静かになった。
恒一は、その場で頭を抱えた。
今日、何度目だろう。
本当に、もう分からない。
「恒一」
父が嬉しそうに聞いてきた。
「馴れ初めは?」
「ない」
「ないわけないでしょう」
母も笑顔で言う。
「いつからなの?」
「今日会った」
「またまた」
「本当だ」
誰も信じない。
基樹は、何とも言えない顔をしていた。
彩音は、完全に状況を面白がりつつも、少しだけ心配そうだった。
純也は感心したように腕を組んでいる。
「すごいな、恒一」
「何が」
「逃げ場のなさが」
「やめろ」
恒一はリビングへ戻る力もなく、そのまま廊下の壁に手をついた。
朝は教室。
放課後は陸上部。
夕方は自宅。
真白は、一日で全部を突破してきた。
そして両親は、見事に味方にならなかった。
恒一は、もう倒れそうだった。
倒れたら、少しは話を聞いてもらえるだろうか。
そう考えた時点で、かなり追い詰められている気がした。




