第145話 親への挨拶が早すぎる
■朝比奈家・玄関
玄関に、真白が立っていた。
黒髪の、小柄な少女。
今日、二年A組に転校してきたばかりの女生徒。
朝、教室で恒一に抱きつき、自分を婚約者だと名乗り、放課後には陸上部までついてきた。
その結果、巴が不機嫌になり、佐藤が胃を押さえ、基樹が頭を抱え、彩音が観察を始めた。
それだけでも十分だった。
十分すぎた。
なのに、なぜか今。
真白は恒一の家の玄関に立っている。
「恒一様」
真白は丁寧に頭を下げた。
「お邪魔いたします」
「……北条さん」
「はい」
「用件を聞いてもいいですか」
「もちろんです」
真白は、にこりと微笑んだ。
相変わらず綺麗な笑顔だった。
綺麗なのに、恒一の胃が重くなる。
最近、佐藤の気持ちが少し分かってきた。
「本日は、恒一様のお父様とお母様へ、ご挨拶に参りました」
「……」
終わった。
恒一はそう思った。
「待ってください」
「はい」
「挨拶とは」
「ご子息とのお付き合いについて、きちんと」
「まだ付き合っていません」
恒一は即答した。
真白は、ほんの少しだけ首を傾げる。
「まだ、ということは、いずれは」
「そういう意味ではありません」
「違いましたか」
「違います」
後ろで基樹が小さく言った。
「もう会話が危ない……」
彩音は目を細めている。
純也は完全に楽しんでいた。
「やばいな。すごいな、この子」
「楽しむな」
恒一が低く言うと、純也は肩をすくめた。
その間にも、真白は落ち着いていた。
むしろ、恒一たちよりずっと落ち着いている。
それが一番まずかった。
真白は持っていた紙袋を、母へ両手で差し出した。
「突然お伺いして申し訳ありません。こちら、つまらないものですが」
「あら、まあ」
母は驚きながらも、それを自然に受け取った。
「丁寧にありがとう」
「こちらこそ、お時間をいただきありがとうございます」
挨拶。
手土産。
頭の下げ方。
靴の揃え方。
声の高さ。
全部が綺麗だった。
きちんとしていた。
育ちの良さを感じさせる。
だからこそ、まずい。
母の顔が、すでに少し柔らかくなっている。
「母さん」
「なあに?」
「これは少し事情が複雑で」
「そうなの?」
「そう」
「でも、まずは上がってもらったら?」
「いや、その前に」
家に上げたら終わる。
そんな気がした。
正確には、何が終わるのかは分からない。
ただ、何かが確実に終わる。
「父さんは今いないし」
そう言った瞬間だった。
廊下の奥から、扉の開く音がした。
「ふう」
父が出てきた。
なぜ今。
本当に、なぜ今。
父は廊下の途中で、玄関の人数に気づいた。
「ん?」
そして、真白を見る。
「お客さんか?」
真白が恒一を見た。
それから、くすりと微笑む。
「恒一様は、冗談ばかり仰るのですね」
「冗談ではありません」
「お父様、いらっしゃるではありませんか」
「今、出てきたんです」
恒一の言葉は、誰にも届かなかった。
父が玄関へ近づいてくる。
「恒一、この子は?」
来た。
ついに来た。
恒一は、できるだけ普通に答えた。
「今日、クラスに転校してきた北条さん」
「北条さん?」
「はい」
そこで終わらせたかった。
終わるはずがなかった。
真白は父と母の方へ向き直る。
姿勢を正し、両手を前で揃えた。
その動きだけで、空気が少し改まる。
真白の視線が、ほんの一瞬だけ恒一の後ろへ流れた。
基樹。
彩音。
純也。
そして母。
確認するような一瞬。
すぐに、真白は穏やかに微笑んだ。
「初めまして」
澄んだ声だった。
「恒一様と、真剣にお付き合いさせていただきたく存じます。北条真白と申します」
玄関が静まり返った。
基樹が息を吸う音が聞こえた。
彩音が目を見開く。
純也は口元を押さえていた。
恒一は頭の中が真っ白になった。
いや。
ここは白い空間ではない。
現実だ。
現実の玄関で、真白が恒一の両親に、ほぼ交際の挨拶をした。
「違います」
恒一はすぐに言った。
「付き合っていません」
だが、その声より早く、父と母が動いた。
「こちらこそ」
「こちらこそ」
二人は同時に頭を下げた。
タイミングが完璧だった。
あまりにも息が合っていた。
夫婦の絆を、こんなところで見せないでほしい。
「朝比奈家の父です」
「母です」
「息子がお世話になっております」
「こちらこそ、恒一様には大変よくしていただいております」
「待ってください」
恒一は割って入った。
「恒一様には、じゃないです。そもそも付き合っていません」
父が恒一を見る。
そして、にやっと笑った。
「恒一」
「何」
「すごい美少女じゃん」
「からかわないで」
「いや、びっくりしたわ。お前、いつの間に」
「いつの間にも何もない」
母も真白を見て、柔らかく微笑む。
「本当に綺麗な子ね」
「ありがとうございます」
真白は少し頬を染めた。
照れていた。
照れている場合ではない。
なぜそこで照れる。
「母さん」
「なあに?」
「話を聞いて」
「聞いてるわよ」
「聞いてない」
「転校生で、北条真白さんで、恒一と真剣にお付き合いしたいのよね」
「最後がほぼ違う」
母は不思議そうに首を傾げた。
「違うの?」
「違います」
恒一が答えるより先に、真白が静かに言った。
「恒一様は、まだ少し戸惑っていらっしゃいます」
「北条さん」
「ですが、私は誠実に向き合う所存です」
「そうなの」
母が感心したようにうなずく。
「しっかりした子ね」
「しっかりはしています」
恒一は認めた。
「でも、話は違います」
父は楽しそうだった。
完全に楽しんでいる。
「まあまあ。玄関で立ち話もなんだし、上がってもらいなよ」
「父さん」
「いいじゃないか。友達も来てるんだろ?」
父は、恒一の後ろにいる三人を見る。
基樹は恐縮して頭を下げた。
彩音はにこにこしている。
純也は面白そうな顔を隠せていない。
「すみません、お邪魔してます」
「いいよいいよ。にぎやかで」
「にぎやかで済ませないで」
恒一は言った。
また届かなかった。
母は真白へ優しく声をかける。
「真白ちゃん、どうぞ上がって」
「ありがとうございます」
真白は丁寧に頭を下げた。
そして、靴を脱いで、きちんと揃える。
その所作がまた綺麗だった。
母の好感度が、さらに上がったのが分かった。
父も嬉しそうに恒一を見る。
「恒一、ちゃんと案内してあげなさい」
「……」
案内。
今日、陸上部でも聞いた言葉だった。
嫌な言葉になりそうだ。
「恒一様」
真白が恒一を見る。
静かで、嬉しそうな顔だった。
「ご案内、お願いいたします」
恒一は、今日何度目か分からないほど頭を抱えた。
後ろで基樹が呟く。
「家でもこれか……」
彩音は小さく笑った。
「でも、真白さん、礼儀は完璧だね」
純也は目を輝かせている。
「これはすごい。噂以上だ」
「楽しむな」
恒一は低く言った。
だが、もう遅い。
真白は、朝比奈家に上がった。
両親は話を聞いてくれなかった。
友人三人は、驚きながらも興味津々で見ている。
そして恒一は。
自分の家なのに、完全に逃げ場を失っていた。
親への挨拶というものは。
どう考えても、まだ早すぎた。




