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恋愛台帳、時代ズレにつき修正不能  作者: サザルト
第3章 真白な頁に名前が灯る編

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第144話 逃げても来る

■グラウンド


 陸上部の練習が終わった瞬間、恒一はグラウンドを出た。


 歩いたのではない。


 逃げた。


 これはもう、逃げたと言っていい。


「朝比奈!」


 背後から佐藤の声が飛んできた。


 聞こえた。


 聞こえたが、恒一は振り返らなかった。


 部長としてどうなのか。


 それは分かっている。


 分かっているが、今日だけは許してほしかった。


 真白が来た。


 巴と会った。


 恒一に抱きついた。


 巴が不機嫌になった。


 しかも、真白との距離のことでまで刺された。


 もう十分だった。


 十分すぎた。


 恒一は鞄を掴み、校門へ向かって走った。


 陸上部に入ってから、それなりに足は速くなった。


 以前より体も動く。


 走り方も、少しはまともになった。


 その成果が、まさかこんなところで発揮されるとは思わなかった。


(こんなことのために陸上部に入ったわけじゃないんだが……!)


 後ろから、誰かが追ってくる気配はあった。


 けれど、すぐに離れた。


 当たり前だ。


 練習終わりに部長が全力で逃げるなど、普通は想定しない。


 普通はしない。


 恒一も、本当はしたくなかった。


 ただ、今日の恒一には、普通でいる余裕がなかった。


 学校を出て、家へ向かう。


 心臓がうるさい。


 走っているからではない。


 今日一日で起きたことが、頭の中で順番を無視して回っていた。


 北条真白。


 婚約者。


 恒一様。


 抱きつく。


 男嫌いだけど、恒一だけは違う。


 巴の低い声。


 真白との距離を気にするような態度。


「……」


 恒一は足を止めなかった。


 逃げ切りたい。


 何から逃げているのかは分からない。


 たぶん、今日という日そのものからだった。


 ■朝比奈家


 家に着くと、恒一は玄関で大きく息を吐いた。


「ただいま」


「おかえり、恒一」


 台所の方から母の声がした。


「早いわね」


「ああ」


「部活は?」


「終わった」


 嘘ではない。


 終わったあと、かなり速く帰ってきただけだ。


 恒一は靴を脱ぎながら、スマホを取り出した。


 基樹に連絡する。


『来られるか』


 送った直後に既読がついた。


 早い。


 かなり早い。


『行く』


 返事も早かった。


 少しして、もう一つメッセージが届く。


『今から行く。彩音と純也もいる』


「……なぜだ」


 思わず声に出た。


 いや。


 理由は何となく分かる。


 今日の騒動が、もう広がっているのだろう。


 真白は、転校初日にして校内の空気を変えた。


 恒一は頭を抱えた。


 しばらくして、チャイムが鳴った。


 玄関を開けると、基樹が立っていた。


 その後ろに彩音。


 さらに純也。


「……なんで三人いる」


「俺も聞きたい」


 基樹が疲れた顔で言った。


「途中で捕まった」


「面白そうだったから来た」


 彩音は笑顔だった。


「俺は噂を聞いた」


 純也も当然のように言う。


「気になるだろ。婚約者転校生」


「帰ってくれ」


「無理」


 三人は、ほぼ同時に家へ入ってきた。


 母が廊下から顔を出す。


「あら、いらっしゃい」


「お邪魔します」


「お邪魔しまーす」


「お邪魔します」


 三人は普通に挨拶している。


 母も普通ににこにこしていた。


 恒一だけが、すでに疲れていた。


 ■恒一の部屋


 四人で部屋に入る。


 恒一は机の前に座り、基樹たちは床に座った。


 最初に口を開いたのは基樹だった。


「で?」


「ああ」


「結局、なんだったんだ」


「昨日言った通り、話せない」


「だよな」


 基樹はすぐにため息をついた。


 その横で、彩音が目を細める。


「昨日?」


 純也も眉を上げた。


「昨日って何?」


 基樹が一瞬、恒一を見る。


 言っていいのか。


 そんな目だった。


 恒一は少し迷ってから、うなずいた。


 隠しても、もう意味がない。


 基樹は短く説明した。


「昨日、恒一がうちに来た。明日、二年A組に北条真白って転校生が来る。日本人形みたいな見た目で、自分を恒一の彼女みたいに言うかもしれない、って言ってた」


 彩音と純也が同時に固まった。


「……え?」


「なにそれ」


 彩音が恒一を見る。


「恒一、それ本当?」


「ああ」


「なんで私を呼ばなかったの」


 責める声だった。


 予想はしていた。


「こうなるから呼ばなかった」


「こうなるから呼ばなかった」


 基樹と声が重なった。


 彩音がむっとする。


「ハモらないで」


「いや、だってそうだろ」


 基樹が言う。


「昨日の時点で彩音がいたら、絶対に観察してただろ」


「広げはしないよ」


「観察はするんだな」


「する」


「ほら」


 純也が笑いそうになる。


 彩音は少しだけ頬を膨らませた。


「でも、私にも言ってくれてよかったのに」


「すまん」


「謝るなら、次から呼んで」


「次があってたまるか」


 基樹が即答した。


 恒一も心から同意した。


 次はいらない。


 本当にいらない。


「それで?」


 基樹が改めて恒一を見る。


「どうするんだ」


「逆に聞きたい」


「……」


 部屋が静かになった。


 基樹が口を閉じる。


 彩音も黙る。


 純也も、さっきまでの軽さを少し引っ込めた。


「だよな」


 恒一は言った。


「俺も分からない」


 彩音が少し真面目な顔になる。


「婚約者って、本当なの?」


「完全な嘘ではない」


「……」


「でも、真実でもない」


 彩音の眉がわずかに動いた。


「一番困る言い方」


「俺も困ってる」


「うん。顔に出てる」


 純也が腕を組む。


「でもさ、噂すごいぞ。転校生が初日に朝比奈に抱きついたとか、恒一様って呼んだとか、婚約者って言ったとか」


「全部本当」


 基樹と彩音が同時に言った。


 純也が目を丸くする。


「本当なんだ」


「本当だよ」


 基樹が疲れた顔で答える。


「俺、現場にいたからな」


「いいな、見たかった」


「よくない」


 基樹は即答した。


 彩音が恒一を見る。


 口元は少し笑っているが、目は真剣だった。


「それで、抱きつかれた時、恒一ちょっと固まってたよね」


「固まるだろ」


「鼻の下が伸びてたって噂もあるよ」


「……」


 恒一は視線を落とした。


「否定しないの?」


「いきなり来たんだぞ」


 恒一は両手で顔を覆った。


「柔らかいし、いい匂いがするし、どう反応していいか分からなかったんだ」


 部屋が静かになった。


 かなり静かになった。


「正直だな、お前」


 純也が言った。


「正直に言うなよ、そこ」


 基樹が頭を抱える。


 彩音は笑っていた。


 ただ、完全には笑っていなかった。


 少しだけ困ったような笑い方だった。


「俺はこれからどうしたらいいんだ」


 恒一は思わず呟いた。


 巴がいる。


 真白が来た。


 ひよりもいる。


 真白は婚約者を名乗る。


 巴は不機嫌になる。


 恒一は何も説明できない。


 しかも、真白に抱きつかれて普通に動揺した。


 最悪だ。


 かなり最悪だ。


 基樹が少し考えてから言った。


「でもさ」


「なんだ」


「北条さん、悪い子には見えなかった」


「……」


「礼儀正しいし、丁寧だし、美人だし。お前のことを大事にしてる感じはあった」


「ああ」


「条件だけ見たら、普通にすごい相手だと思う」


 そこまでは、恒一にも分かる。


 否定はできなかった。


 真白は綺麗だった。


 丁寧だった。


 恒一をまっすぐ見ていた。


 ただ。


 基樹はそこで、少しだけ言葉を間違えた。


「少なくとも、今のお前にとっては、真田さんより分かりやすいんじゃないか」


 次の瞬間。


 自分でも驚くくらい、恒一の声が低くなった。


「それは違う」


 基樹が目を見開いた。


 彩音と純也も黙る。


「北条さんが悪い子だとは言わない」


「あ、ああ」


「でも、真田さんと比べる話じゃない」


「……」


「真田さんより分かりやすいとか、良さそうとか、そういうことは言わないでくれ」


 部屋の空気が少し変わった。


 基樹は一度だけ目を伏せる。


「悪い」


「……いや」


 恒一も息を吐いた。


「こっちも強く言った」


「いや、今のは俺が悪かった」


 基樹は素直に謝った。


 彩音が小さく息を吐く。


「まあ、今のは基樹も軽く言いすぎたし、恒一も余裕なさすぎ」


「余裕はない」


「知ってる」


 彩音は少しだけ笑った。


「でも、その反応で少し安心した」


「安心?」


「うん。恒一の中では、ちゃんと巴が別枠なんだなって」


 恒一は何も言えなかった。


 たぶん、その通りだった。


 真白がどれだけ綺麗でも。


 どれだけ礼儀正しくても。


 恒一をまっすぐ見てくれても。


 巴と比べる話ではなかった。


 比べた時点で、何かが違う。


 そう思った。


 純也が興味深そうに言う。


「ますます北条さん、見てみたいな」


「やめておけ」


 基樹が言った。


「現場にいたら、胃が痛くなる」


「佐藤みたいだな」


「今日、佐藤は実際に胃を押さえてた」


「かわいそう」


「かなり」


 その時だった。


 ピンポーン。


 家のチャイムが鳴った。


 四人が同時に動きを止めた。


 嫌な予感がした。


 かなりした。


 廊下の向こうから、母の声が聞こえる。


「恒一!」


「……何?」


「お友達が来たわよ」


 友達。


 このタイミングで。


 恒一はゆっくり立ち上がった。


 基樹も立ち上がる。


 彩音と純也も、当然のようについてきた。


「来なくていい」


「無理」


 彩音が即答した。


「ここまで来たら見るだろ」


 純也も言う。


 基樹は無言だった。


 ただ、顔がすでに疲れている。


 階段を降りる。


 玄関へ向かう。


 母が少し不思議そうな顔をして立っていた。


 その前にいたのは。


 黒髪の、小柄な少女。


 背筋を伸ばし、両手を前で揃えた、日本人形のような美しい転校生。


 真白だった。


 真白は恒一を見ると、静かに微笑んだ。


「恒一様」


 その声は、今日聞いた時と同じように丁寧だった。


 真白の視線が、ほんの一瞬だけ母へ向かう。


 それから、恒一の後ろに立つ基樹たちへ流れた。


 すぐに戻る。


 恥じらっているようにも、ただ状況を確認しただけのようにも見えた。


 そして真白は、丁寧に頭を下げた。


「お邪魔いたします」


 恒一は何も言えなかった。


 基樹が後ろで小さく呟く。


「逃げても来るのか……」


 彩音が少しだけ笑った。


 純也は目を輝かせていた。


 母は恒一と真白を見比べている。


「恒一」


「……はい」


「説明、できる?」


 できない。


 まったくできない。


 その日、恒一はグラウンドから逃げ切ったはずだった。


 けれど。


 逃げるために少し速くなった足は、玄関では一歩も役に立たなかった。



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