第143話 巴と真白
■グラウンド
放課後。
巴が、こちらへ歩いてくる。
その時点で、グラウンドの空気が変わった。
女子部員に呼ばれたのだろう。
遠目にも、機嫌がよくないのが分かる。
いや。
よくないどころではない。
明らかに不機嫌だった。
歩き方は静かだ。
声を荒げているわけでもない。
だが、目が鋭い。
いつもより、少しだけ温度が低い。
佐藤が横で小さく息を呑んだ。
「……来た」
「来たな」
恒一はそう答えるしかなかった。
真白は恒一の隣に立ったまま、巴をまっすぐ見ている。
逃げる様子はない。
むしろ落ち着いていた。
それが余計に怖かった。
巴が目の前で足を止める。
真白と巴。
二人は、しばらく無言で見つめ合った。
グラウンドのざわめきが、少しずつ小さくなる。
部員たちも。
ついてきたクラスメートたちも。
誰も口を挟めなかった。
その沈黙を破ったのは、真白だった。
「お久しぶりです、真田巴さん」
丁寧な声だった。
周囲が一斉にざわつく。
「え、知り合い?」
「あの二人、知り合いなの?」
「真田先輩と転校生が?」
巴は真白を見たまま、静かに目を細めた。
「……全国大会以来か」
「はい」
真白は小さくうなずいた。
「お変わりないようで」
「そっちもな」
短い会話だった。
だが、それだけで分かった。
二人は本当に知り合いだ。
しかも、ただの顔見知りではない。
武道関係。
おそらく、薙刀。
恒一は改めて真白を見る。
神様は言っていた。
真白は武道のたしなみがあり、とくに薙刀が得意だと。
巴とも顔見知り。
本当に、その通りだった。
困るくらいに。
「北条」
巴が言った。
「はい」
「なぜ朝比奈に抱きついていた」
声は静かだった。
だが、かなり怖い。
佐藤が横で完全に固まっている。
基樹は少し離れたところで頭を抱えていた。
彩音は興味深そうにこちらを見ている。
面白がっている。
だが、目はきちんと真剣だった。
真白は巴の問いに、少しも動じなかった。
「恒一様に案内をお願いしておりました」
「案内なら、抱きつく必要はない」
「親しみを示すためです」
「必要ない」
「私には必要です」
会話が速い。
そして、どちらも引かない。
すでに空気が危なかった。
恒一は何か言わなければと思った。
だが、言葉が出るより先に、真白が恒一の方を見る。
ほんの一瞬。
そして、その視線は恒一ではなく、その周囲をなぞった。
部員たち。
クラスメート。
ファンクラブらしき面々。
どれだけの人間が、この場を見ているのか。
それを確かめるような目だった。
その直後。
真白は、また恒一の腕へそっと抱きついてきた。
「……っ」
やめてほしい。
本当にやめてほしい。
今、この状況でそれをする意味が分からない。
いや。
真白の中では意味があるのだろう。
今、どれだけ見られているのか。
それを分かった上でしているように見えたからだ。
恒一にとっては、完全に火に油だった。
巴の目が、さらに細くなる。
「北条」
「はい」
「お前は男嫌いだと聞いていたが……」
その言葉に、周囲がまたざわつく。
「男嫌い?」
「でも朝比奈部長に抱きついてるよね?」
「どういうこと?」
真白は静かに答えた。
「男性は苦手です」
「では、なぜ朝比奈には触れる」
巴の声が少し低くなった。
真白は恒一の腕を抱いたまま、澄んだ目で答える。
「恒一様は違います」
グラウンドの空気が、さらに重くなった。
その一言はかなり強い。
男性は苦手。
だが、恒一は違う。
そう言われてしまえば、周囲が騒ぐのも当然だった。
そして巴は、さらに不機嫌になる。
真白は周囲の反応を見ていないようで、見ていた。
視線は恒一へ向いている。
けれど、ほんの少しだけ、ざわめきの方へ意識を向けているように感じられた。
恒一はそれに気づき、さらに胃のあたりが重くなる。
「離れろ」
巴が言った。
短く。
はっきりと。
「朝比奈から離れろ」
真白は丁寧に頭を下げた。
「申し訳ありません」
そして続ける。
「お断りいたします」
「……」
「恒一様のおそばにいるために、私は参りました」
丁寧なのに、まったく引かない。
礼儀正しいのに、全然譲らない。
最悪だった。
いや。
真白が悪い人間だと言いたいわけではない。
ただ。
状況として最悪だった。
「……北条」
巴の声が、さらに冷える。
「ここは陸上部だ」
「承知しております」
「朝比奈は部長だ」
「存じております」
「部長の邪魔をするなら、見学とは言えない」
「それは困ります」
「なら離れろ」
「それも困ります」
基樹が、遠くで小さく言った。
「詰んでる……」
彩音が隣でうなずく。
「うん、詰んでるね」
佐藤は胃のあたりを押さえていた。
「……痛い」
「佐藤、大丈夫か」
恒一が声をかけると、佐藤は苦しそうに言った。
「朝比奈、俺の心配より状況の心配をしてくれ」
「すまん」
「謝るな。痛みが増す」
周囲の部員たちも完全に固まっていた。
一年生は何が起きているのか分からず、二年生は状況の重さに気づいて黙っている。
ファンクラブの面々まで、遠巻きに見ていた。
西園寺が真剣な顔で呟く。
「巴様、明らかにご不機嫌」
「会長、記録しますか」
「これは記録というより事件」
「事件ですか」
「事件です」
やめてほしい。
本当に。
恒一は、ようやく一歩前へ出た。
「真田」
巴が恒一を見る。
「何だ」
「真白は、陸上部の見学に来ただけだ」
言ってから、恒一自身も一瞬だけ止まった。
真白。
北条さんではなく、名前が口から出ていた。
混乱のせいなのか。
さっきから何度も名前を聞いていたせいなのか。
恒一自身にも分からない。
「見学で腕に抱きつくのか」
「それは俺も困っている」
正直に答えた。
真白が少しだけ目を丸くする。
「困っておられるのですか」
「困っています」
「それは失礼いたしました」
真白はすぐに恒一の腕を離した。
本当に素直だった。
素直なのに、できれば先に聞いてほしかった。
「非があれば謝罪します」
「なら最初からやめてくれ」
「次からは確認いたします」
「確認もできれば控えてください」
「検討します」
「検討じゃなくて」
恒一は頭が痛くなった。
巴はそのやり取りを見て、少しだけ眉を寄せる。
怒っている。
だが、真白があまりにも丁寧に謝ったため、そこで強く出づらくなったようにも見えた。
「……見学するだけなら、邪魔はするな」
巴が言った。
「はい」
真白は丁寧に頭を下げる。
「部の規律には従います」
「ならいい」
巴は短く答えた。
一応、場は収まりかけた。
少なくとも、今すぐ何かが爆発するような空気ではなくなった。
佐藤が心底ほっとした顔をする。
「……助かった」
「佐藤」
「今日はもう帰りたい」
「まだ練習前だ」
「知ってる。だからつらい」
その気持ちは恒一にも分かった。
恒一も帰りたい。
ただ、部長なので帰れない。
巴は踵を返そうとした。
だが、その直前。
ふと足を止める。
そして、恒一を見た。
「朝比奈」
「なんだ」
「もう名前で呼んでいるのか」
「……」
恒一は一瞬、意味が分からなかった。
だが、すぐに気づく。
さっき。
自分は確かに真白を名前で呼んだ。
北条さんではなく。
真白、と。
自覚して呼んだわけではなかった。
混乱の中で、自然に口から出てしまっただけだ。
だが。
巴には、しっかり聞こえていた。
「いや、それは」
「いい」
巴は短く言った。
よくない声だった。
「見学の邪魔だけはするな」
それだけ言って、巴は離れていった。
歩き方は静かだった。
だが、背中が硬い。
怒っている。
たぶん、かなり。
恒一は、その背中を見送るしかなかった。
真白は隣で、少し不思議そうに首を傾げている。
「恒一様」
「……なんですか」
「真田巴さんは、私が恒一様をお名前でお呼びすることを気にされたのでしょうか」
「たぶん、俺があなたを名前で呼んだことを気にしています」
「なるほど」
真白は静かにうなずいた。
「つまり、真田巴さんは恒一様との距離に敏感なのですね」
「……」
恒一は何も言えなかった。
核心に触れるのが早すぎる。
この人は、やはり危険だ。
そう思った瞬間。
真白の視線が、ほんの少しだけ巴の背中へ向いた。
何かを確かめるような。
あるいは、今の反応を覚えておくような。
短い視線だった。
すぐに真白は、いつもの丁寧な表情へ戻る。
その切り替わりが、少しだけ気になった。
佐藤が胃を押さえながら、低い声で言った。
「朝比奈」
「なんだ」
「今日は本当に、頼むから何も起こさないでくれ」
「俺もそうしたい」
「その言葉を信じたい」
「信じてくれ」
「信じたいんだ」
佐藤の声が切実だった。
基樹はまだ頭を抱えている。
彩音は楽しそうなのに、少しだけ真面目な顔で巴の背中を見ていた。
「これは……かなり大きいね」
そう呟いた。
恒一も同じことを思った。
かなり大きい。
真白が来た。
巴と顔見知りだった。
恒一に抱きついた。
男嫌いなのに、恒一だけは違うと言った。
巴は不機嫌になった。
そして最後に、恒一が真白を名前で呼んだことを刺していった。
何もかもが悪い方向へ転がりかけている。
いや。
もう転がっている。
恒一は、今日何度目か分からないため息を吐いた。
真白の登場初日。
恒一にとっては、控えめに言っても最悪だった。
そして、たぶん。
ここからさらに悪くなる気がしてならなかった。




