第142話 婚約者、陸上部へ来る
■二年A組
放課後。
その日一日、二年A組はずっと落ち着かなかった。
北条真白。
今日転校してきた、小柄な黒髪の美少女。
日本人形のような容姿。
丁寧な言葉遣い。
礼儀正しい態度。
そして、初対面のはずの恒一へいきなり抱きつき、皆の前で自分を恒一の婚約者だと言った人物。
さらに昼休みには、恒一のために用意してきた弁当まで出されかけた。
結局、恒一は母親が用意した弁当を食べ、真白の弁当も少しだけ味見することになった。
味は美味しかった。
悔しいくらいに。
ただ、その昼休みは完全に針のむしろだった。
基樹と彩音が一緒にいてくれなければ、恒一の心は少しくらい欠けていたかもしれない。
壊れるほど弱いのかと言われれば困るが。
今日に限っては、少し危なかった。
授業が終わる頃には、恒一の周囲へ妙な視線が集まるようになっていた。
男子からは、やっかみ。
女子からは、好奇心。
基樹からは、心配。
彩音からは、観察。
それぞれ種類は違うのに、全部まとめて重かった。
「……部活に行く」
恒一は鞄を持って立ち上がった。
今日は陸上部がある。
部長として、行かないわけにはいかない。
というより、これ以上教室に残っていれば、質問攻めでどうにかなりそうだった。
「恒一様」
すぐ隣から声がした。
真白だった。
今、真白が座っているのは恒一の隣の席。
本来なら田中の席だが、田中が休みだったため、今日はそこに座ることになった。
偶然にしては、あまりにも都合がよすぎる。
また神様の顔が頭に浮かんだ。
腹立たしい。
「なんですか」
「部活動へ向かわれるのですね」
「そうです」
「私も参ります」
「……なぜですか」
「興味がありますので」
真白は当然のように答えた。
「恒一様が日々励んでおられる場所を、この目で見ておきたいのです」
「いや、今日は初日ですし」
「初日だからこそです」
「……」
理屈として合っているようで、何かがおかしい。
だが、真白には迷いがなかった。
恒一が教室を出ようとすると、真白も自然についてくる。
しかも、その後ろをさらに何人かのクラスメートがついてきた。
「え、北条さん陸上部行くの?」
「朝比奈の部活見に?」
「婚約者だから?」
「いや、婚約者って本当なの?」
「見に行けば何か分かるかも」
たぶん、何も分からない。
むしろ、分からないものが増えるだけだろう。
恒一は廊下へ出ながら、少しだけ振り返った。
「ついてくる必要はないと思うが」
「あるよ」
彩音が笑顔で言った。
「ここまで来たら気になるし」
「彩音」
「私は見届ける側だから」
「何を」
「色々」
基樹も鞄を持っていた。
表情は、すでに疲れている。
「俺も行く」
「基樹まで」
「お前だけにしておいたら、何が起きるか分からないだろ」
「俺は何もしない」
「お前がしなくても起きるんだよ」
恒一は返せなかった。
実際、今日一日でそれを証明してしまっている。
ため息をつき、廊下を歩き出す。
真白は当然のように隣を歩いていた。
距離が近い。
近すぎる。
「北条さん」
「はい」
「少し離れて歩いてもらえますか」
「なぜですか」
「廊下なので」
「なるほど」
真白は素直に半歩離れた。
ただし、半歩だった。
後ろから、基樹の小さな声が聞こえる。
「半歩か……」
彩音が小さく笑った。
■廊下
「恒一様は、陸上部の部長なのですね」
歩きながら、真白が言った。
「そうです」
「存じております」
「知っているなら、なぜ聞いたんですか」
「ご本人の口から聞くことに意味があります」
「そういうものですか」
「はい」
真白は静かに微笑んだ。
「今朝も、走っておられましたね」
恒一は足を止めかけた。
「……見ていたんですか」
「はい」
「三階から?」
「はい」
やはり、あの女生徒は真白だった。
朝のグラウンド。
校舎三階の窓。
恒一を見ていた人影。
あれは真白だったのだ。
「軽く走っていただけです」
「落ち着くためですね」
「……」
恒一は言葉に詰まった。
真白は、まっすぐこちらを見る。
「走りはまだ完成されておりません」
「それは分かっています」
「ですが、よい走りでした」
「……」
「心を乱しながらも、整えようとしていました。逃げるためではなく、備えるために走っていた」
恒一は真白を見た。
この少女は、どこまで見ているのだろう。
見た目は儚げなのに、言葉は妙に鋭い。
「北条さん」
横から基樹が声をかけた。
呼ばれた真白が丁寧に向き直る。
「すみません、少し聞いてもいいですか」
「はい」
「三浦基樹です。恒一の友人です」
「存じております」
真白は、すっと頭を下げた。
「北条真白と申します。いつも恒一様がお世話になっております」
「え、あ、はい」
基樹が一瞬で恐縮した。
無理もない。
言葉遣いが丁寧すぎる。
しかも、完全に身内側からの挨拶だった。
「いや、お世話というか、まあ、友達なので」
「恒一様が信頼されている方だと伺っております」
「誰からですか」
基樹がすかさず聞いた。
真白は微笑む。
「縁より」
「えにし」
「はい」
基樹は一瞬黙り、それから恒一を見る。
恒一は何も言えなかった。
神様のことは話せない。
強制力がある。
だが、真白はなぜか危なげなくかわしていた。
「もう一つ聞いても?」
「どうぞ」
「恒一は、あなたが転校してくることを昨日の時点で知っていました」
周囲のクラスメートが、ざわついた。
「え、朝比奈知ってたの?」
「昨日から?」
「どういうこと?」
恒一は基樹を見る。
基樹は目で、必要だろ、と訴えているようだった。
確かに、確認したいのは分かる。
恒一も知りたかった。
真白がどこまで知っていて、どこまで話すのか。
「なぜ、恒一はあなたの転校を知っていたんですか」
基樹は真剣だった。
真白は少しだけ考えるように目を伏せた。
そして、静かに答える。
「私が、恒一様の妻となるために参りましたので」
「……」
「……」
「……」
廊下の空気が止まった。
答えになっていない。
いや。
真白の中では、答えになっているのかもしれない。
だが、基樹が聞いたことへの答えではなかった。
「えっと」
基樹がかなり困った顔になる。
「質問と答えが、少しずれているような」
「そうでしょうか」
「そうですね」
「では、言い換えます」
真白は真剣な顔で言った。
「恒一様と私は、結ばれるべき縁にあります。そのため、私はこちらへ参りました」
「……なるほど」
基樹は、完全に処理を諦めた顔になった。
「分からないことは分かりました」
「お役に立てず、申し訳ありません」
「いえ、こちらこそ……」
なぜか基樹の方が頭を下げている。
真白の丁寧さに押されていた。
彩音が横で口元を押さえている。
笑っている。
ただし、目はかなり真剣だった。
「基樹が押されてるの、珍しいね」
「笑うなよ」
「笑ってないよ。半分」
「半分笑ってるじゃん」
周囲のクラスメートは、さらに不思議そうに四人を見ていた。
当然だった。
恒一は何かを知っている。
基樹も少し知っている。
真白は何かをはぐらかしている。
彩音は、その状況を観察している。
四人の間にある空気だけが、周囲と少し違っていた。
その違和感が、さらに噂を育てそうだった。
「行くぞ」
恒一は短く言った。
これ以上、廊下で話していれば被害が広がる。
すでに十分広がっている気もしたが、これ以上はまずい。
「はい、恒一様」
「その呼び方は」
「だめでしょうか」
「……」
だめと言いたい。
だが、この場でだめだと言えば、また別の騒ぎになりそうだった。
「あとで話します」
「分かりました」
真白は嬉しそうにうなずいた。
なぜ嬉しそうなのかは分からない。
あとで話す。
その言葉が、真白には前向きな約束に聞こえたのかもしれない。
まずい。
この少女は、言葉の受け取り方が恒一とは違う。
いや。
恒一自身も、人のことは言えないかもしれなかった。
■グラウンド
陸上部の練習場所へ着く頃には、後ろについてきたクラスメートがさらに増えていた。
完全に見物だった。
部員たちも、当然それに気づいた。
「え、何あれ」
「朝比奈部長?」
「後ろの人たち、何?」
「あの子、転校生?」
「すごい綺麗……」
ざわつきが広がっていく。
佐藤が出欠表を持ったまま、恒一のところへやってきた。
その顔には、すでに嫌な予感を察した者の表情が浮かんでいる。
「朝比奈」
「佐藤」
「これは何だ」
「転校生だ」
「それは見れば分かる」
佐藤は胃のあたりへ手を置いた。
「なぜ陸上部に、クラスメートを連れて行列で来ている」
「俺も望んだわけではない」
「たぶんそうなんだろうなとは思うが」
佐藤は真白を見る。
真白は丁寧に頭を下げた。
「北条真白と申します」
「あ、はい。佐藤忠一です」
「恒一様がいつもお世話になっております」
「……恒一様?」
佐藤の顔が固まった。
周囲の部員も一斉に反応する。
「恒一様?」
「朝比奈部長が?」
「何その呼び方」
「もしかして噂の?」
噂が早い。
もう陸上部にまで届いている。
いや。
クラスメートを何人も引き連れてここまで来た時点で、届かない方がおかしい。
「北条さん」
恒一は真白へ向き直った。
「ここは陸上部の練習場所です」
「はい」
「見学するなら、部員の邪魔にならない場所でお願いします」
「分かりました」
素直だった。
ここまではよかった。
「ですが、恒一様」
「はい」
「初めての場所ですので、案内をお願いできますか」
「今は練習前で」
「少しだけで構いません」
「佐藤に頼むこともできます」
「いえ」
真白はまっすぐ恒一を見る。
「恒一様にお願いしたいのです」
そう言って。
真白は、自然な動作で恒一の腕に抱きついてきた。
「……っ」
まただった。
今度は教室ではない。
グラウンド。
陸上部員たちの前。
クラスメートたちの前。
真白は恒一の腕に両手を添え、嬉しそうに微笑んでいる。
「ご案内、お願いいたします」
その瞬間。
陸上部が完全に止まった。
「えっ」
「抱きついた?」
「朝比奈部長に?」
「誰!?」
「婚約者って噂の?」
「本当だったの!?」
佐藤は出欠表を落としそうになっていた。
基樹は後ろで頭を抱えている。
彩音は、もう笑っていなかった。
クラスメートたちは完全に見物人の顔になっている。
恒一は、腕に感じる真白の体温をどうしていいか分からず、その場で固まった。
真白は、周囲のざわめきへ一瞬だけ視線を向けた。
教室の時と同じだった。
どれだけ見られているのか。
どれだけ、この状況が広がっているのか。
それを確かめるような、ほんの短い視線。
けれど、すぐに何事もなかったように恒一だけを見る。
「北条さん」
「はい」
「離れてください」
「なぜですか」
「陸上部なので」
「なるほど」
真白は納得したようにうなずいた。
しかし、まだ離れない。
「では、案内が終わりましたら」
「今、離れてください」
「分かりました」
ようやく離れた。
恒一は深く息を吐いた。
その時、女子部員の一人が我に返ったように走り出した。
「真田先輩呼んでくる!」
「え、真田さん?」
「これは呼ばないと!」
「絶対呼ばないと!」
何人かが慌てて動き始める。
「待て」
恒一は思わず声を上げた。
だが、遅かった。
女子部員はすでにグラウンドの向こうへ走っている。
巴を呼びに行った。
いや。
確実に呼びに行った。
恒一は頭を抱えた。
「……」
今日一日で、何度頭を抱えればいいのだろう。
真白は、そんな恒一を不思議そうに見上げている。
「恒一様」
「なんですか」
「何か問題がありましたか」
「かなりあります」
「では、解決しましょう」
「今の問題の半分くらいは、北条さんが原因です」
真白は少しだけ目を丸くした。
そして、すぐに真剣な顔になる。
「それは申し訳ありません」
「謝れるんですね」
「当然です。非があれば謝罪します」
「……」
礼儀正しい。
ものすごく礼儀正しい。
だが、行動が強い。
強すぎる。
佐藤が低い声で呟いた。
「朝比奈」
「なんだ」
「説明できるか」
「できない」
「だよな」
佐藤は胃のあたりを押さえた。
「今日は薬を持ってきている」
「すまん」
「謝られると本格的に痛くなるからやめてくれ」
その時。
グラウンドの向こうから、巴が歩いてくるのが見えた。
女子部員に連れられている。
遠くからでは表情までは分かりにくい。
だが、歩き方がいつもより少し硬い。
たぶん、すでに事情は聞いているのだろう。
真白。
恒一の隣に立つ少女。
巴。
こちらへ歩いてくる少女。
そして恒一は、その間にいる。
何も説明できないまま。
逃げ場のない位置に。
恒一は、もう一度頭を抱えた。
神様。
本当に、余計なことだけは早い。




