第141話 婚約者、らしい
■二年A組
教室は、まだざわついていた。
北条真白。
今日から二年A組に転校してきた女生徒。
彼女は、先ほど恒一に抱きついてきた。
――恒一様。
そう呼んで。
教室中の視線が、一気に恒一へ集まっていた。
担任ですら、何が起きたのか分からないという顔をしている。
恒一にも分からなかった。
いや。
分かってはいた。
真白が来ることは知っていた。
神様から聞かされていた。
名前も。
クラスも。
容姿も。
それでも、実際に目の前へ現れると話はまるで違った。
恒一は、改めて真白を見る。
黒髪の、小柄な少女だった。
髪は肩に届くかどうかという長さで、艶がある。
人形の髪のように滑らかで、光を受けるたび静かに揺れていた。
肌は透き通るように白い。
黒曜石を思わせる瞳は澄んでいて、恒一をまっすぐ見ている。
彫りの浅い顔立ちは、派手ではない。
けれど、整っていた。
儚げなのに、どこか芯がある。
小柄で華奢な体は、洗練された工芸品のように繊細に見えた。
静かで、まるで古都の空気をまとっているようだった。
現実の教室に立っているのに、そこだけ少し非現実的に見える。
日本人形のような少女。
神様がそう言っていた意味は、すぐに分かった。
だが、恒一は真白を知らない。
見たこともない。
会ったこともない。
それなのに。
その少女は恒一を見て、嬉しそうに笑っている。
それが、どうしようもなく不思議だった。
「えー……」
担任が、ようやく声を出した。
まだ少し動揺している。
当然だった。
「北条。とりあえず、自己紹介を」
「はい」
真白は恒一から一歩離れた。
その時、ほんの一瞬だけ教室を見る。
誰がこちらを見ているのか。
どれほどの視線が集まっているのか。
それを確かめるような、短い視線だった。
だが、すぐに何事もなかったように教壇の前へ戻っていく。
歩き方は静かだった。
小柄なのに姿勢がよく、足運びにも無駄がない。
ただの転校生には見えなかった。
いや。
転校生なのは間違いない。
ただ、普通の転校生とはどこか違って見えた。
「北条真白と申します」
真白は教室全体へ向けて、丁寧に頭を下げた。
声は澄んでいた。
大きすぎず、小さすぎず。
不思議とよく通る声だった。
「本日より、こちらの学校でお世話になります。慣れないことも多いかと思いますが、どうぞよろしくお願いいたします」
丁寧だった。
礼儀正しい。
教室の空気が、少しだけ落ち着いた。
男子の何人かは、完全に見惚れている。
女子からも、小さな声が聞こえてきた。
「すごい綺麗」
「人形みたい」
確かに、そう見える。
このままなら、ただの美少女転校生として自己紹介は終わったかもしれない。
このままなら。
真白は顔を上げた。
そして、にこりと微笑む。
「それから」
恒一は嫌な予感を覚えた。
かなり強い予感だった。
わずかに背筋が固くなる。
真白は、そこで少しだけ間を置いた。
緊張しているようにも見える。
けれど。
教室中の注意が完全に自分へ向くのを待っているようにも見えた。
静かな間。
全員が次の言葉を待っている。
その状態になってから、真白は迷いなく続けた。
「私は、朝比奈恒一様の婚約者です」
教室の空気が、完全に止まった。
一秒か。
二秒か。
誰も何も言わない。
そして。
「はあああああ!?」
教室が爆発した。
「婚約者!?」
「朝比奈の!?」
「え、さっき抱きついた子!?」
「恒一様って何!?」
「朝比奈、何した!?」
「いや、婚約者って何!?」
何もしていない。
恒一は本当に何もしていない。
だが、今この場でそう言ったところで、誰も信じないだろう。
基樹は恒一を見ていた。
昨夜の話を聞いているため、完全な初耳ではない。
それでも、顔が引きつっていた。
彩音は口元に手を当てている。
もう笑っていいのか悪いのかという段階を越え、状況そのものを整理しようとしている顔だった。
担任も頭を抱えそうな表情をしている。
その騒ぎの中心にいる真白は、多少驚いているようには見えた。
だが、取り乱してはいない。
むしろ、教室の反応を静かに受け止めているようだった。
自分の言葉がどれだけ広がったのか。
どれだけこの教室に刻まれたのか。
ほんの一瞬。
そんなことを確かめるように、真白の視線が教室をなぞった。
「北条」
「はい」
「婚約者というのは……」
「そのままの意味です」
「そのままの意味で言われると、先生も困るんだが」
担任が非常に正直なことを言った。
真白は不思議そうに首を傾げる。
「まだ正式な手続きは済んでおりませんので、正確には婚約予定者というべきでしょうか」
「もっと困る言い直しをしないでくれ」
教室がさらにざわつく。
恒一の頭に、神様の顔が浮かんだ。
――楽しみにしておれ。
そう言っていた。
あの神様は、本当に余計なことしかしない。
「朝比奈」
担任が恒一を見る。
「はい」
「これはどういうことだ」
「俺にも分かりません」
正直に答えた。
教室の何人かから、一斉に声が上がる。
「いやいやいや」
当然だった。
婚約者を名乗る転校生に抱きつかれた本人が、分かりませんと言っている。
普通に考えれば怪しい。
だが、本当に分からない。
恒一が知っているのは、神様から聞かされた範囲だけだった。
そして、それすら説明することはできない。
「恒一様」
真白が、にこやかに恒一を見た。
「ご安心ください。私が説明いたします」
「しないでください」
恒一は思わず言った。
真白が少し驚いた顔になる。
「なぜですか?」
「場が混乱しています」
「なるほど」
真白は素直にうなずいた。
「では、のちほど二人で」
「それも待ってください」
「なぜですか」
「俺の理解が追いついていません」
「では、追いつくまでお待ちします」
待ってくれるらしい。
そこはありがたかった。
ただ、隣に爆弾を置かれたような気分は消えない。
担任が咳払いをした。
「とにかく、自己紹介はここまでにしよう」
「はい」
「北条の席だが……」
担任が教室を見渡した。
空いている席を探しているらしい。
すると、真白がすっと手を上げた。
「先生」
「なんだ」
「可能であれば、恒一様のおそばの席を希望いたします」
また教室がざわついた。
「おそば!?」
「おそばって言った!」
「朝比奈、何したんだよ!」
何もしていない。
本当に何もしていない。
真白は、そのざわめきへ一度だけ視線を向けた。
恥じらっているようにも見えた。
けれど、自分の言葉がどれだけ教室を揺らしているのかを、きちんと見ているようにも思えた。
ただ、恒一の周囲にはほとんど空席がなかった。
前も。
後ろも。
横も。
生徒がいる。
これなら、さすがに離れた席になるだろう。
恒一はそう思った。
思ったのだが。
「あー……」
担任が出席簿を見た。
「そういえば、朝比奈の隣の田中が今日は休みだったな」
恒一は担任を見る。
担任は少し困った顔で続けた。
「とりあえず今日は、田中の席に座ってもらうか。正式な席はあとで考える」
「ありがとうございます」
真白は丁寧に頭を下げた。
都合がいい。
あまりにも都合がよすぎる。
また神様の顔が頭に浮かんだ。
たぶん、笑っている。
かなり腹立たしい顔で。
真白は静かに恒一の隣の席へ歩いてきた。
小柄な体が、机の間をすり抜ける。
そして、恒一の隣に座った。
近い。
先ほど抱きつかれた時よりは離れている。
それでも、十分に近い。
教室中の視線が、恒一と真白の周囲に集まっていた。
「皆様」
真白は隣の席から、周囲へ向かって微笑んだ。
「どうぞよろしくお願いいたします」
近くの女子が、少し戸惑いながらも挨拶を返す。
「よ、よろしく」
「よろしくね、北条さん」
「真白とお呼びください」
「あ、うん。真白ちゃん」
男子の何人かは、まだ固まっていた。
それでも、真白は落ち着いている。
騒ぎの中心にいるのに、まったく慌てていない。
むしろ周囲へ、一人ずつ丁寧に挨拶していた。
そして最後に。
真白が恒一を向く。
「恒一様」
「……はい」
「改めまして」
真白は、今日一番の笑顔を見せた。
静かで。
柔らかくて。
けれど、まっすぐな笑顔だった。
「これから、よろしくお願いいたします」
その笑顔は確かに綺麗だった。
文句のつけようがないくらいに。
だが、その笑顔を見せる直前。
真白の視線が、ほんの少しだけ周囲へ動いた気がした。
教室中がこちらを見ていることを確かめるように。
恒一と真白が並んでいる姿が、周囲からどう見えているのかを測るように。
気のせいかもしれない。
恒一の考えすぎかもしれない。
けれど。
真白の笑顔は、あまりにも綺麗だった。
綺麗すぎて。
その奥にあるものが、恒一には少しだけ分からなかった。
胃のあたりが重くなる。
その笑顔の意味を、恒一だけがまだ受け止めきれていなかった。
■昼休み
その日一日、二年A組は落ち着かなかった。
授業中も。
休み時間も。
ずっと真白の話題だった。
「婚約者って本当?」
「朝比奈、いつの間に?」
「転校初日に抱きつくって何?」
「恒一様って呼ばれてたぞ」
「朝比奈、説明しろよ」
何度も聞かれた。
恒一は、そのたびに同じ答えを返した。
「俺にも分からない」
誰も信じなかった。
当然だった。
真白は休み時間のたびに恒一へ話しかけてきた。
「恒一様、お昼はどちらで召し上がるのですか」
「教室です」
「では、私もご一緒してよろしいですか」
「少し待ってください」
「待ちます」
そこで終わるかと思った。
だが、真白は鞄から包みを一つ取り出した。
上品な布に包まれた、弁当箱のようだった。
「それと」
「はい」
「恒一様のお弁当も、ご用意してまいりました」
教室の空気が、また止まった。
基樹がゆっくり恒一を見る。
彩音も、箸を持つ手を止めていた。
「……俺の?」
「はい」
真白は、ごく自然にうなずいた。
「一緒に召し上がれたらと思いまして」
「いや、俺の弁当は」
「ご用意があるのですね」
「あります」
「では、そちらを召し上がってください」
真白は、少しも残念そうには見えなかった。
いや。
そう見えないようにしているだけかもしれない。
ただ、教室中がそのやり取りを見ている。
真白は周囲の視線へ、ほんの一瞬だけ目を向けた。
そして、すぐに恒一へ微笑む。
「では、今日は私のお弁当も、少しだけ味見していただけますか」
「味見」
「はい。恒一様のお口に合うか、知りたいのです」
また周囲がざわついた。
「弁当!?」
「手作り?」
「朝比奈の分?」
「もう完全にそういうやつじゃん」
「婚約者、強いな……」
恒一は頭を抱えたくなった。
何もしていない。
本当に、何もしていない。
なのに教室では、何かが勝手に固まり始めている。
「北条さん」
「はい」
「こういうことは、事前に相談してもらえると助かります」
「申し訳ありません」
真白は丁寧に頭を下げた。
「次からは、そういたします」
「次」
「はい」
次があるらしい。
基樹が遠くを見るような顔になった。
その顔を見て、恒一は昨夜のことを思い出した。
基樹の家で話したこと。
信じないかもしれないが、今日、このクラスに転校生が来ること。
その少女が、自分を恒一の彼女のように言うかもしれないこと。
そして、それでも巴に対する気持ちは本物だと、基樹には知っていてほしいと伝えたこと。
恒一は、真白に聞こえない程度の声で基樹を呼んだ。
「基樹」
「なんだ」
「昨日、俺が言ったこと」
「……ああ」
「忘れてない」
基樹が少しだけ目を細めた。
「本当だな」
「ああ」
恒一はうなずいた。
「不純だったかもしれないけど、真田に対する気持ちは本物だ」
「……」
「それは、忘れてない」
基樹はしばらく恒一を見ていた。
それから、少しだけ息を吐いた。
「ならいい」
「ああ」
「でも、状況はかなり悪化してるぞ」
「それは分かる」
「分かってる顔じゃない」
「分かっているつもりではある」
「それが一番怖いんだよ」
基樹は額を押さえた。
恒一も否定できなかった。
真白の弁当。
教室中の視線。
婚約者という言葉。
そのすべてが、一気に押し寄せてくる。
それでも。
昨日、基樹に話したことだけは忘れてはいけない。
恒一は、そう思った。
会話のたびに、周囲がざわつく。
真白は、そのざわめきに必要以上には反応しなかった。
ただ、ほんの一瞬だけ目を向ける。
そしてすぐ、何事もなかったように恒一を見る。
その短い仕草が、少しだけ引っかかった。
真白が恒一に近づいている。
それは分かる。
けれど。
その近さを周囲がどう受け取るのかも、真白には分かっているように見えた。
彩音は途中まで面白がっていた。
だが昼過ぎには、少し真面目な顔で状況を見るようになっていた。
「これ、思ったより大きいね」
そう呟く声が聞こえた。
恒一も同じことを思った。
思っていたより大きい。
いや。
神様が関わっているのだから、大きくないはずがなかった。
男子たちからのやっかみも増えた。
「朝比奈、なんでお前なんだよ」
「俺が聞きたい」
「美少女転校生に婚約者って言われる人生、何?」
「俺が聞きたい」
「しかも恒一様って」
「俺も驚いている」
「その反応が腹立つんだよ」
理不尽だった。
だが、気持ちは少し分かる。
もし恒一が逆の立場なら、同じように思ったかもしれない。
真白は、その騒ぎの中でも静かだった。
質問には丁寧に答える。
分からないことは素直に聞く。
礼儀正しく、言葉遣いも綺麗。
それなのに。
恒一のことになると、一気に距離が近くなる。
その落差が、さらに教室を混乱させていた。
そして恒一は。
その中心にいた。
望んだわけではない。
何かをした覚えもない。
だが今日一日で、二年A組には一つの認識が刻まれた。
北条真白という、恐ろしく綺麗な転校生が来たこと。
彼女が朝比奈恒一を「恒一様」と呼ぶこと。
そして。
自分を、朝比奈恒一の婚約者だと言ったこと。
放課後になる頃には、恒一はすでにかなり疲れていた。
明日は、たぶんもっと大変になる。
そんな予感だけが、妙にはっきりしていた。
そして、もう一つ。
真白は、ただ真っ直ぐに来ているだけではない。
たぶん、何かを分かった上で。
教室中の視線ごと、恒一の隣に座っている。
そんな気がした。




