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恋愛台帳、時代ズレにつき修正不能  作者: サザルト
第3章 真白な頁に名前が灯る編

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第140話 転校生は、真っ直ぐ来た


 朝。


 恒一は、いつもより早く学校に着いた。


 まだ校門を通る生徒は少なく、昇降口にもほとんど人はいない。


 鞄を置く前に、恒一はグラウンドへ向かった。


 走るためだ。


 速くなるためでも、追い込むためでもない。


 今日は、そういう日ではなかった。


(落ち着け)


 ゆっくりと走る。


 一周。


 二周。


 呼吸を整え、足音を聞く。


 余計なことを考えないように、一歩一歩へ意識を向ける。


 それでも。


 北条真白。


 その名前だけは、何度も頭に浮かんだ。


 今日、来る。


 同じクラスに。


 恒一の前に。


 自分を恒一の彼女のように言うかもしれない。


 神様の話を考えれば、それ以上のことを言う可能性もあった。


(備えろ)


 逃げるわけにはいかない。


 誰にも全部は言えない。


 それでも、向き合うしかない。


 最後の一周を走り終え、恒一は足を止めた。


 額の汗を拭い、息を吐く。


 朝のグラウンドは静かだった。


 そのまま校舎へ目を向ける。


 ふと、三階の窓に視線が止まった。


「……?」


 誰かがいる。


 女生徒だった。


 距離があるため顔までは分からない。


 小柄な輪郭。


 肩から下へ落ちる黒い髪。


 そして。


 こちらを見ていた。


 グラウンドを眺めているのではない。


 まっすぐ、恒一を。


 探していたものを見つけたように。


(まさか)


 そう思った瞬間、女生徒の姿が窓際から消えた。


 黒い髪が一度だけ揺れる。


 恒一はしばらく、その窓を見つめていた。


 呼吸はもう整っている。


 なのに、胸の奥だけが落ち着かなかった。


「……来てるのか?」


 まだ始まっていないと思っていた。


 少なくとも、教室で顔を合わせるまでは。


 だが。


 もう始まっているのかもしれなかった。


◇ ◇ ◇


 二年A組の教室へ入ると、いつもより騒がしかった。


「おい、今日だろ?」


「転校生?」


「女子らしいよ」


「めちゃくちゃ美少女って聞いた」


 あちこちから同じ話題が聞こえる。


 普段なら恒一も多少は気になったかもしれない。


 今日だけは違った。


 自分の席へ向かい、鞄を置く。


 できるだけ普通に。


「恒一」


 基樹が近づいてきた。


 いつもより少しだけ表情が硬い。


 昨夜の話を思い出しているのだろう。


「お前の言う通りだ」


「……そうか」


「本当に転校生が来るらしい。名前までは知らないけど、今日うちのクラスに来るって」


「ああ」


「いや、ああじゃないだろ」


 基樹が眉をひそめる。


「なんで本当に当たってるんだよ」


「俺にも説明できない」


「言えない、だろ」


「ああ」


 基樹はしばらく恒一を見る。


 聞きたいことはいくらでもあるはずだった。


 だが、やがて息を吐く。


「分かった。聞かない」


「助かる」


「でも、顔が暗い」


「努力する」


「そこで努力って言うな」


 そこへ彩音がやってきた。


「恒一、基樹。おはよ」


「ああ」


「おはよう」


 彩音には、まだ事情を話していない。


「なんか、すごい美少女らしいよ」


「そうか」


「反応薄いね、恒一」


「そうか?」


「うん。普通、もう少し興味持たない?」


 興味ならある。


 ありすぎるほどに。


 ただし、美少女だからではない。


 北条真白だからだ。


 恒一が黙っていると、彩音の表情が変わった。


「……恒一?」


「なんだ」


「何か知ってる?」


 鋭い。


 基樹が一瞬だけ恒一を見る。


 恒一は首を横に振った。


「今は、言えない」


「今は?」


「すまん」


 彩音は少し黙った。


 恒一を見て、基樹を見る。


 それ以上は聞かなかった。


「そっか」


「ああ」


「じゃあ、あとで聞けることがあったら聞く」


「分かった」


「無理はしないでね」


「ああ」


 チャイムが鳴った。


 散らばっていた生徒たちが、それぞれの席へ戻っていく。


 恒一は机の下で一度だけ手を握った。


(来る)


 何が起きても、まず落ち着く。


 真白が何を言っても流されない。


 誰かの気持ちを勝手に決めない。


 そう決めた。


 教室の扉が開いた。


◇ ◇ ◇


 担任が入ってくる。


 その後ろに、一人の女生徒がいた。


 教室が静まり返った。


 そして、すぐに小さなどよめきが起こる。


「え……」


「すご……」


「マジで美少女じゃん」


 恒一も彼女を見る。


 長い黒髪。


 小柄な身体。


 整った制服。


 白い肌と、静かな黒い瞳。


 巴を見慣れているせいもあるのか、余計に小さく見えた。


 だが、弱そうには見えない。


 教室中から視線を向けられているのに、肩を縮めることもない。


 ただ静かに立っている。


 巴のように、そこにいるだけで周囲を押すような強さではない。


 もっと静かなものだった。


 北条真白。


 たぶん、彼女だ。


「えー、今日からこのクラスに転校生が来る」


 担任が言った。


「自己紹介を」


 女生徒が一歩前へ出る。


 姿勢がいい。


 動きに迷いがない。


 彼女は教室を見渡した。


 一人一人を確認するように。


 けれど、本当に探している相手は最初から決まっているようにも見えた。


 黒い瞳が動く。


 そして。


 恒一のところで止まった。


「……」


 完全に止まった。


 朝、三階の窓から感じた視線と同じだった。


 彼女の目が、ほんの少しだけ見開かれる。


 その瞬間。


 表情が消えた。


 喜びでもない。


 驚きでもない。


 まるで、聞かされていたものと現実が本当に一致しているのか確かめるように。


 恒一の顔を。


 姿を。


 本当にそこにいることを。


 静かに確かめる。


 ほんの一瞬だった。


 次の瞬間。


 目元が柔らかくなった。


 口元がほどける。


 そして。


「恒一様!」


 声が教室に響いた。


 クラス中が固まる。


 恒一も固まった。


 真白は教壇の前から、まっすぐ恒一へ向かってきた。


 黒髪が背中で揺れる。


 迷いがない。


 視線は恒一だけに向いている。


「お会いしとうございました!」


 そのまま飛びついてきた。


「……っ」


 避ける暇はなかった。


 視界いっぱいに黒髪が広がる。


 次の瞬間、小柄な身体が胸元へ飛び込んできた。


 軽い。


 制服越しに体温が伝わる。


 腕が恒一の背中へ回された。


 髪が胸元を滑り、ふわりと淡い匂いがした。


 一瞬、頭が真っ白になる。


 いや。


 白い空間ではない。


 現実だ。


 教室で、初対面の転校生に抱きつかれている。


 一秒。


 二秒。


 そして。


「えええええ!?」


 教室が爆発した。


「恒一様!?」


「朝比奈!?」


「なにこれ!?」


「彼女!?」


 椅子を引く音。


 机を叩く音。


 立ち上がる者。


 担任まで固まっている。


 基樹は机に手をつき、絶句していた。


 昨夜聞いた話が全部本当だったと理解したらしい。


 彩音は口元に手を当て、目を見開いている。


 恒一は、自分へ抱きついている少女を見る。


「……北条、真白?」


 名前を呼ぶと、真白が顔を上げた。


 近い。


 澄んだ黒い瞳が、恒一だけを見ている。


「はい」


 真白は嬉しそうに微笑んだ。


「北条真白です」


「……」


「ようやく、お会いできました」


 抱きしめる腕へ少し力が入る。


 教室の騒ぎがさらに大きくなった。


 恒一はどうにか声を出す。


「離れてください」


「なぜですか?」


 本気で分からないらしい。


「教室なので」


「なるほど」


 真白は素直に頷いた。


 少しだけ名残惜しそうに腕を緩め、ようやく離れる。


 恒一は息を吐いた。


 走ったあとの呼吸とは違う。


 胸の中だけが妙に落ち着かない。


 真白はすぐに姿勢を整えると、恒一の前で丁寧に頭を下げた。


「改めまして、北条真白と申します」


「……朝比奈恒一です」


「存じております」


 顔を上げた真白が微笑む。


「……そうですか」


「はい。私の――」


 嫌な予感がした。


 迷いのない顔だった。


 これは言う。


 絶対に何か言う。


「その先は、少し待ってください」


「なぜですか?」


 真白が首を傾げる。


「場が混乱しています」


 実際、混乱していた。


 クラス中が二人を見ている。


 担任も状況を飲み込めていない。


 基樹は額を押さえ、彩音はもう笑うべきなのか心配するべきなのか分からない顔をしている。


 真白は一度だけ教室を見回した。


 そこでようやく、自分たちがどれだけ注目されているのか確認したらしい。


「分かりました」


 素直だった。


 そこは助かった。


「では、続きは後ほど」


 真白は、にこりと笑った。


「恒一様」


 また教室がざわつく。


「また言った!」


「様って何!?」


「本当にどういう関係!?」


 恒一は静かに目を閉じた。


 北条真白は、本当に来た。


 同じクラスに。


 恒一の前に。


 そして、神様の予想通り。


 最初から全力で来た。


 ただ。


 どうしても一つだけ、頭から離れないものがあった。


 恒一を見つけた瞬間。


 嬉しそうに笑う、その直前。


 真白が見せた、確かめるような目。


 あれが何だったのか。


 今の恒一には分からない。


 分からない相手の気持ちを、勝手に決めることもできない。


 だから。


 あの一瞬だけは、覚えておこうと思った。


 覚悟はしていた。


 していたはずだった。


 けれど。


「恒一様」


 目を開けると、真白はまだ嬉しそうにこちらを見ていた。


 こんなふうに真っ直ぐ来られるところまでは、何一つ備えられていなかった。



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