第137話 神様からの報告
■縁の間
白い空間――縁の間だった。
また、ここだ。
上も下も分からない。
壁もない。
床もない。
ただ、どこまでも白い。
そして、その中央に白髪に白ひげの老人が立っていた。
恋愛の神様。
恒一の人生を、かなり大きく動かしている存在。
そして最近では、かなり大きく困らせている存在でもある。
「うむ」
神様は、いつものようにひげをくるくるといじっていた。
その顔は妙に満足げだった。
「待たせたな」
「待ってはいません」
恒一は即答した。
「むしろ、来ないでほしかったくらいです」
「なかなか手厳しいのう」
「神様が何か持ってくる時、だいたい面倒なことなので」
「失礼な」
神様は少しだけ眉を上げた。
しかし、すぐにまた満足げな顔へ戻る。
その表情を見ただけで、恒一には嫌な予感しかしなかった。
「彼女のことじゃ」
「……」
やはり、その話だった。
新たなる女性。
養和の時代に生きた女性。
恒一にとって、あるいは相手にとって、特別な縁を持つという人。
そして、神様が勝手に転校の手配までした少女。
数日前から、そのことがずっと頭から離れなかった。
誰にも相談できない。
本来知るはずのないことを話せば、強制力が働くかもしれない。
記憶が消えるかもしれない。
関係が歪むかもしれない。
最悪の場合、もっと深刻なことになるかもしれない。
そう聞かされてから、恒一はずっと一人で抱えていた。
「二、三日中には転校してくるはずじゃ」
神様は軽く言った。
あまりにも軽かった。
「……本当に来るんですね」
「来る」
「止められないんですか」
「もう手続きは進んでおる」
「神様なのに?」
「神様にも段取りというものがある」
「余計な時だけ段取りを飛ばすのに」
「痛いところを突くのう」
神様は咳払いした。
「まあ、名前くらいは教えておこう」
「名前」
「北条真白じゃ」
北条真白。
知らない名前だった。
けれど、なぜか少しだけ重く聞こえた。
「同じ学年。同じクラスになる」
「同じクラス?」
「うむ」
「俺のクラスですか」
「そうじゃ」
同じ学年。
同じクラス。
つまり、二年A組。
恒一と同じ教室。
基樹も彩音もいる。
逃げ場がない。
「……本当に困る」
「縁を進めるなら、近い方がよかろう」
「進めないでください」
「そう言うでない」
神様はひげを撫でた。
「彼女の魂は、北条政子じゃ」
「北条政子」
恒一にも聞き覚えはあった。
詳しいわけではない。
ただ、歴史の授業にも出てくる人物だ。
強い女性。
決断力があり、政治的にも大きな影響力を持った人物。
恒一が知っているのは、その程度だった。
「正確には、その魂の流れを今生に受け継いでおる」
神様は続けた。
「強く、聡明で、決断力がある。必要なら厳しさも持つ。なかなか気丈な娘じゃ」
「……」
「容姿はな、小柄で、日本人形のような出で立ちじゃ」
「日本人形」
「うむ。落ち着いていて、整った顔立ちで、黒髪がよく似合う」
神様は楽しそうだった。
「じゃが、見た目に騙されるでないぞ」
「騙される?」
「あの時代より、この時代まで受け継がれてきた魂じゃ。芯は強い。武道に関しても、ある程度のたしなみがある」
「武道」
「とくに薙刀じゃな」
恒一は少しだけ眉を寄せた。
薙刀。
その言葉で、巴が頭に浮かぶ。
巴は剣道を中心にしているが、薙刀でも強い。
そこへ、薙刀をたしなむ転校生。
しかも、北条政子の魂を受け継ぐ女性。
同じクラス。
さらに、恒一を運命の相手だと聞かされている。
情報が重い。
かなり重かった。
「楽しみにしておれ」
「いや、楽しみにできる要素がありません」
「あるじゃろう。新たなる出会いじゃ」
「俺には真田がいます」
「ふむ」
「その話は前にもしました」
「聞いた」
「なら、分かってください」
「分かっておる」
まったく分かっている顔ではなかった。
神様は相変わらず、どこか楽しそうだ。
それが余計に不安だった。
「では、報告は以上じゃ」
神様が軽く手を振った。
「二、三日中じゃぞ。心の準備をしておくとよい」
縁の間がわずかに揺れた。
神様の姿が薄れ始める。
その前に、恒一は口を開いた。
「待ってください」
神様の輪郭が止まった。
「なんじゃ」
「もう一つ、聞かせてください」
「ふむ」
神様は消えかけた姿のまま、恒一を見る。
「前に言っていましたよね」
「ああ」
「この話を誰かにすると、強制力が働くって」
「言ったな」
「その相手は、具体的にどうなるんですか」
縁の間の空気が、少し重くなった気がした。
神様の顔から、冗談めいた色が消える。
「……聞くのか」
「聞きます」
恒一はまっすぐ神様を見た。
「知らないままでは、判断できません」
「知ったところで、話せんぞ」
「それでもです」
神様は少しだけ目を閉じた。
そして、ゆっくり口を開いた。
「基本的には、記憶に残らん」
「記憶に残らない」
「うむ。聞いたはずなのに、聞いていないことになる。理解しかけても、別の形にすり替わる。違和感だけが残ることもある」
「……」
「軽い場合は、それで済む」
「重い場合は?」
神様はすぐには答えなかった。
その沈黙だけで、良い話ではないことが分かった。
「脳に異常が残るかもしれん」
静かな声だった。
「……脳に」
「うむ」
「記憶障害とか、そういうことですか」
「それに近いこともある。強い負荷がかかる。世界の帳尻合わせに、人の器が耐えられんこともある」
「……」
「だから、やめよ」
今度ばかりは、神様の声も軽くなかった。
「試すようなことは、決してするでない」
恒一は黙った。
基樹の顔が浮かぶ。
彩音。
佐藤。
純也。
千夜。
白石。
誰かに相談して、少しでも楽になりたいと思った。
けれど。
それで相手に負荷がかかるのなら。
記憶に残らないだけでは済まず、脳に異常が残る可能性まであるのなら。
そんなことは、絶対にできない。
「……分かりました」
恒一は小さく言った。
「誰にも話しません」
「それがよい」
神様は頷いた。
だが、その時。
恒一の中に一つの疑問が浮かんだ。
「真田には?」
神様が目を細める。
「巴か」
「はい」
「巴だけは、少し事情が違う」
「事情?」
「真白と同じ概念の中にいる」
「……どういう意味ですか」
「簡単に言えば、縁の当事者に近い。お前さんと強い縁を持つ存在であり、今回の流れの中心にいる」
「なら、真田には話してもいいんですか」
「強制力だけで言えば、問題はない可能性が高い」
恒一はわずかに息を呑んだ。
なら。
巴には話せるのか。
全部ではなくても。
神様のこと。
運命のこと。
北条真白のこと。
そう考えた瞬間、神様は静かに続けた。
「じゃが、やめておけ」
「なぜですか」
「理由は二つある」
「二つ」
「一つは、お前さんが傷つける可能性じゃ」
神様は淡々と言った。
「お前さんが、巴にこう言ったとしよう」
神様は恒一を見る。
「神に言われた。自分にはお前しかいない。だから好きになった」
「俺はそんな言い方はしません」
「では、どう言う」
「……」
恒一は答えられなかった。
どう言い換えても、結局そこへ近づいてしまう。
自分には巴しかいない。
神様から、そう聞かされていた。
巴と結ばれる運命だと思っていた。
それを伝えた時。
巴は、どう受け取るのか。
「巴は、こう思うじゃろう」
神様の声は静かだった。
「相手がいないから、仕方なく自分を好きになったのか」
「……」
「選択肢がなかったから、自分を選んだのか」
「違います」
「お前さんが違うと思っていても、相手がどう受け取るかは別じゃ」
「……」
「それは、巴にとって耐えがたいことじゃろうな」
恒一は何も言えなかった。
巴の顔が浮かぶ。
強くて。
まっすぐで。
けれど、強いからといって何も感じないわけではない。
それを恒一も、ようやく少しずつ理解し始めていた。
そんな巴に。
神様に言われたから、お前を好きになった。
そう聞こえるようなことを言えば。
きっと、深く傷つける。
「お前さんは、巴を自分で見てきたじゃろう」
神様が言う。
「名前を覚えてもらいたいと思った」
「……」
「走る姿を見て、憧れた」
「……」
「強さに惹かれた」
「……」
「誠実でありたいと思った」
「……」
「ならば、それでよい」
神様の声が、少しだけ低くなる。
「神がどう言ったかではなく、お前さんが何を見て、何を感じたか。それだけを大事にせい」
恒一はただ聞いていた。
反論はできなかった。
「もう一つは、巴自身の問題じゃ」
「真田自身?」
「うむ」
神様の表情が、さらに重くなった。
「巴は、すでに贖罪を終えておる」
「贖罪」
「かつての魂が背負っていたものを、すでに終わらせたということじゃ」
「……」
「だから今の巴は、普通の人として生きている」
普通の人。
その言葉が妙に胸に残った。
「強く、まっすぐで、少し不器用で、家族に愛され、友人もおる」
「……」
「今の巴には、今の人生がある」
「……」
「あの子は、もう幸せになってよい」
神様の声は静かだった。
からかうような響きは、少しもない。
「あの子も、かつては苦しんでいた」
「真田が」
「今の巴ではない。だが、同じ魂が背負っていたものじゃ」
「……」
「苦しみ、悔い、痛み。そういうものを越えて、今ここにいる」
「……」
「なのに、お前さんが余計なことを話せば、その記憶が蘇る可能性がある」
恒一は息を止めた。
「記憶が」
「うむ」
「前世の記憶、ですか」
「そうじゃ」
「……」
「完全に思い出すとは限らぬ。断片かもしれん。夢のようなものかもしれん。意味の分からぬ恐怖だけが残るかもしれん」
「……」
「だが、可能性はある」
神様は恒一を見る。
「そして、それが良いこととは限らぬ」
「……」
「むしろ、悪い方へ転ぶ可能性の方が高い」
「悪い方」
「かつての苦しみを、今の巴が受け止められる保証はない」
神様の言葉が、白い空間へ静かに落ちた。
「下手をすれば、心が壊れる」
「……」
「発狂するかもしれん」
あまりにも重い言葉だった。
発狂。
巴が。
今の巴が。
恒一には、想像したくもなかった。
「なぜ、そんな危険を冒す」
神様は言った。
「巴は今、愛する家族に囲まれておる」
「……」
「友人もいる」
「……」
「お前さんもいる」
「……」
「少し不器用ではあるが、今の人生を歩いておる」
神様の声が、さらに静かになる。
「なぜ、その子に過去の苦しみを思い出させたい」
「……思い出させたいわけじゃ」
「なら、話すな」
神様は、はっきりと言った。
「巴が今、普通の人として生きているなら、それを守れ」
「……」
「過去に引き戻すな」
恒一は何も言えなかった。
神様の言葉は重かった。
強制力の話よりも。
巴に嫌われるかもしれないという話よりも。
ずっと重かった。
巴は今、巴として生きている。
剣道をして。
薙刀をして。
陸上部で走って。
千夜に相談して。
基樹や彩音とも言葉を交わして。
恒一に怒って。
恒一とも少しずつ話すようになって。
今の人生を歩いている。
そこへ、過去の苦しみを持ち込む必要などない。
「……分かりました」
恒一は、ようやく言った。
「真田には話しません」
「うむ」
「少なくとも、今は」
「それでよい」
神様は頷いた。
「誰にも話せない」
恒一は小さく呟いた。
「基樹にも。彩音にも。真田にも」
「うむ」
「強制力があるから」
「うむ」
「真田には、それ以外の理由もあるから」
「うむ」
「……重すぎます」
「じゃろうな」
神様は否定しなかった。
「北条真白は来る」
神様は静かに言った。
「その時、お前さんがどう向き合うかは、お前さん次第じゃ」
「……」
「逃げるな」
「はい」
「だが、流されるな」
「……はい」
「誠実にのう」
また、その言葉だった。
誠実。
最近、ずっと恒一について回っている言葉。
約束を守ること。
相手に向き合うこと。
傷つけないようにすること。
言えないことを抱えること。
過去に触れないこと。
同じ言葉の中に、いくつもの意味がある。
重い。
けれど、逃げることはできない。
神様は少しだけ目を細めた。
「それと、恒一」
「はい」
「この出会いは、おそらくお前さんにとっても大きな意味を持つ」
「俺にとっても?」
「うむ」
「また運命とか言うんですか」
「運命でもある。だが、それだけではない」
神様は少しだけ真面目な顔になった。
「お前さんは、まだ自分のことをほとんど知らぬ」
「自分のこと?」
「そうじゃ」
「俺は俺です」
「それだけではない」
神様の声は妙に静かだった。
「お前さんが何者なのか。なぜその台帳に多くの名が記されるのか。なぜ多くの縁が、お前さんのもとへ集まるのか」
「……」
「そして、お前さんという存在が持つ意味」
縁の間が、少しだけ揺れた。
「北条真白との出会いは、おそらく、その一端に気づくきっかけになる」
「……どういう意味ですか」
「今はまだ、分からずともよい」
「それ、分からないと困る言い方です」
「困れ」
「神様」
「冗談じゃ」
神様は小さく笑った。
だが、その目は笑っていなかった。
「だが、覚えておけ」
「……」
「彼女との出会いは、ただ新しい女が増えるという話ではない」
「……」
「お前さんが、本当の自分の存在と意味に気づくことになる。たぶん、な」
「たぶん?」
「そこは未来のことじゃからな」
「大事なところをぼかさないでください」
「神の言葉は、少し曖昧なくらいがよい」
「よくないです」
恒一がそう言っても、神様はそれ以上答えなかった。
その言葉だけが、縁の間に残る。
本当の自分の存在と意味。
何のことなのか、恒一にはまったく分からない。
恒一はただの高校生だ。
陸上部の部長で。
巴のことを考えて。
白石のことからも逃げてはいけないと思っていて。
今は、北条真白という知らない転校生のことで頭を抱えている。
ただの高校生のはずだった。
けれど、神様はそうは言わなかった。
「ではな」
神様の姿が薄れていく。
「二、三日中じゃ。備えよ」
「備えようがありません」
「心だけでも構えておけ」
「……」
「それでは、楽しみにしておれ」
「楽しみにしてません」
「わしはしておる」
「やめてください」
最後までいつも通りだった。
神様はひげをくるくるといじりながら、縁の間の白さへ溶けるように消えていった。
■朝
恒一は目を覚ました。
見慣れた天井。
自分の部屋。
朝の光。
しばらく、そのまま起き上がれなかった。
北条真白。
同じ学年。
同じクラス。
魂は北条政子。
小柄で、日本人形のような容姿。
武道にもたしなみがある。
薙刀。
二、三日中に転校してくる。
そして、恒一のことを知っている。
「……」
それだけでも十分に重い。
けれど、それ以上に重い話を聞かされた。
誰かに話せば、記憶に残らないかもしれない。
最悪の場合、脳に異常が残る可能性もある。
巴には強制力の影響が少ないかもしれない。
それでも、話せば心を傷つける可能性がある。
過去の苦しみを思い出させてしまうかもしれない。
下手をすれば、今の巴を壊してしまうかもしれない。
「……言えないな」
恒一は小さく呟いた。
相談できない。
説明もできない。
逃げることもできない。
それでも、向き合わなければならない。
そして。
北条真白との出会いは、恒一自身が自分の存在と意味に気づくきっかけになるかもしれない。
「……意味って何だよ」
答えはない。
天井は、いつも通りそこにある。
部屋も、昨日までと何も変わらない。
なのに、同じ朝には見えなかった。
恒一は布団の中で、もう一度目を閉じた。
神様から聞かされた話を、頭の中で一つずつ整理する。
重すぎる話ばかりだった。
それでも、一つだけ確かなことがある。
もうすぐ、北条真白が来る。
そして、そのことを恒一は誰にも話せない。




