第138話 恒一の不安
■職員室
明後日、来るらしい。
翌日の昼休み。
恒一は職員室の前に立っていた。
用件はある。
ただ、かなり聞きづらい。
まだ生徒には発表されていないはずの転校生について、名前まで知っている。
普通に考えれば怪しい。
恒一自身、そう思う。
それでも、確認しないわけにはいかなかった。
神様は言った。
二、三日中。
同じ学年。
同じクラス。
北条真白。
もし本当なら、すでに学校側には話が来ているはずだ。
逆に、何もなければ。
神様の話がまた妙な方向へずれている可能性もある。
それなら、それで少しは安心できる。
ほんの少しだけ。
「……よし」
恒一は小さく息を吐き、職員室の扉を開けた。
「失礼します」
中へ入ると、何人かの教師がこちらを見た。
昼休みの職員室は、少し慌ただしい。
書類を整理する音。
電話で話す声。
採点をするペンの音。
その中から、恒一は担任を探した。
「先生」
「ん? 朝比奈か。どうした」
担任は机の上のプリントを揃えながら顔を上げた。
恒一は一歩近づく。
「少し、確認したいことがあるんですが」
「確認?」
「はい」
「部活関係か?」
「いえ」
恒一は一度、言葉を止めた。
どう聞けばいいのか。
神様から聞きました。
そんなことは言えない。
強制力以前に、先生に心配される。
「……転校生が来るという話は、本当ですか」
担任の手が止まった。
「……え?」
予想通り、かなり驚いた顔をされた。
「朝比奈、それをどこで聞いた?」
「少し」
「少しって何だ」
「噂で」
我ながら雑だった。
かなり苦しい。
担任も眉をひそめた。
「まだ正式には生徒に知らせていないはずなんだがな」
その言葉を聞いた瞬間、恒一の胸が少し沈んだ。
ある。
やはり、本当に転校生が来る。
「本当に来るんですか」
「……まあ、ここまで知っているなら隠しても仕方ないか」
担任は困ったように頭をかいた。
「明後日だ」
「明後日」
「ああ。二年に転校生が来る」
明後日。
神様の言った通りだった。
喉の奥が少し重くなる。
「その転校生は」
恒一は、なるべく普通の声で続けた。
「二年A組ですか」
担任の目がさらに丸くなった。
「……朝比奈」
「はい」
「本当にどこで聞いた」
「噂で」
「その噂、情報精度が高すぎないか」
「そうですね」
「そうですね、じゃない」
担任は完全に疑っている。
当然だった。
恒一が逆の立場でも疑う。
「二年A組なんですか」
「……そうだ」
短く答えたあと、担任は恒一をじっと見た。
「うちのクラスに来る」
逃げ道が一つ消えた。
恒一は少しだけ目を伏せる。
北条真白は、本当に二年A組に来る。
基樹と彩音のいる教室へ。
恒一と同じ教室へ。
席が近くなるかまでは分からない。
それでも、確実に同じ空間で過ごすことになる。
「名前は」
「そこまで知っているのか?」
「北条真白さんですか」
その名前を口にした瞬間、担任は完全に固まった。
今までで一番驚いている。
「……朝比奈」
「はい」
「お前、親戚か何かか?」
「違います」
「知り合いか?」
「違います」
「じゃあ、なぜ名前まで知ってる」
「噂で」
「だから、その噂が怖いんだが」
担任は椅子に座り直した。
明らかに困っている。
「北条真白。確かにその名前だ」
「……そうですか」
本当だった。
神様の話は、すべて本当だった。
正直なところ、恒一はどこかで外れてほしいと思っていた。
転校先が違う。
時期が違う。
名前が違う。
何か一つくらい、ずれていてほしかった。
だが、全部合っていた。
「朝比奈」
「はい」
「何か問題があるのか?」
「……まだ、分かりません」
「まだ?」
「いえ」
言い方を間違えた。
担任の疑いがさらに深くなる。
「転校生とトラブルがあるなら、先に言っておけよ」
「トラブルはありません」
「本当に?」
「まだ会っていないので」
「なら、なぜ名前まで知ってるんだ」
結局、そこへ戻った。
当然だった。
恒一は少し考えてから答える。
「人づてに、少し聞いただけです」
「誰から?」
「それは、ちょっと」
「……」
担任は何か言いたそうに恒一を見た。
だが、それ以上は追及しなかった。
「まあ、いい。転校生の件は明日にはクラスに伝える予定だった。周りに先に言いふらすなよ」
「はい」
「それと」
「はい」
「お前、陸上部の部長だろ。北条が来ても、変に騒ぎを大きくするなよ」
「……はい」
部長。
その言葉で、恒一はもう一つ思い出した。
神様の話では、真白は陸上部にも入る予定だという。
そこまで本当なら、学校でも部活でも関わることになる。
さらに逃げ場はなくなる。
「失礼しました」
恒一は頭を下げ、職員室を出た。
昼休みの廊下は、いつも通り騒がしい。
誰かが笑っている。
購買のパンを持って走っている生徒もいる。
何も変わっていない。
けれど、恒一の中だけは確実に重くなっていた。
「……本当に来るのか」
小さく呟いた。
明後日。
北条真白が来る。
同じクラスに。
恒一の前に。
■グラウンド、放課後。
陸上部の練習は、いつも通り始まった。
いつも通りのはずだった。
「朝比奈」
「なんだ」
佐藤が出欠表を持ったまま、恒一を見る。
「今日、ぼんやりしてないか」
「そうか?」
「してる」
即答だった。
「メニュー確認、さっき二回同じところ見てたぞ」
「そうだったか」
「そうだった」
佐藤は少しだけ眉をひそめる。
「何かあったのか」
「……少し」
「また少しってやつか」
「すまん」
「謝られると余計に怖いんだが」
佐藤は胃のあたりを押さえかけ、途中で手を止めた。
「いや、今日はまだ押さえない」
「何を?」
「こっちの話だ」
佐藤は小さく息を吐く。
「とにかく、練習中は集中してくれ。怪我されると困る」
「ああ」
「真田にも怒られるぞ」
「……そうだな」
巴のことを言われた瞬間、また胸が重くなった。
巴には言えない。
真白のことも。
運命のことも。
神様のことも。
強制力だけなら、巴には問題がない可能性が高い。
けれど、それとは別の理由がある。
相手がいないから、仕方なく自分を好きになったのか。
選択肢がなかったから、自分を選んだのか。
そんなふうに思わせる可能性がある。
それだけは避けたかった。
「朝比奈」
今度は巴の声がした。
見ると、少し離れたところに立っている。
「はい」
「返事が変だ」
「そうか?」
「そうだ」
巴は恒一をじっと見た。
「今日、集中していない」
「……すまん」
「謝れとは言っていない」
巴は腕を組んだ。
「何かあるのか」
また、その問いだった。
ある。
ありすぎるほどある。
けれど、言えない。
「考えごとをしている」
「前にも言っていたな」
「ああ」
「まだ続いているのか」
「続いている」
「……」
巴は少しだけ目を細めた。
「練習に出るなら集中しろ」
「分かった」
「集中できないなら休め」
「いや、それは」
「怪我をする」
短い言葉だった。
けれど、その通りだった。
反論できない。
「朝比奈」
「なんだ」
「無理している顔は、すぐ分かる」
「……」
「今日は走る量を減らせ」
「分かった」
「本当に分かったのか」
「分かった」
今度はきちんと断言した。
巴はまだ疑っているようだったが、一応うなずいた。
「佐藤」
「はい」
「朝比奈の本数を減らしておけ」
「了解です」
佐藤はすぐに返事をした。
その表情が、少しだけ安心したように見える。
恒一の練習量が減ることを喜んでいるわけではない。
巴が恒一の状態に気づき、止めてくれたことに安心したのだろう。
それを見て、恒一は少し申し訳なくなった。
結局、その日の練習にはあまり身が入らなかった。
走っていても、頭の片隅に北条真白という名前が残る。
フォームを確認していても、明後日という言葉がちらつく。
同じ学年。
同じクラス。
北条政子の魂。
小柄で、日本人形のような容姿。
薙刀。
恒一のことを知っている。
そして、自分を恒一の運命の相手だと思っている。
考えれば考えるほど、体から意識が離れていく。
最後の流しも、いつもより足が重かった。
「朝比奈」
練習後、佐藤が声をかけてきた。
「今日は早く帰れ」
「このあと、道場に行く」
「は?」
佐藤の顔が少し引きつった。
「その状態で?」
「ああ」
「……真田」
佐藤が巴を見る。
巴も恒一を見ていた。
「道場?」
「ああ。真田道場に」
「今日はやめた方がいい」
「約束している」
「……」
巴は少しだけ黙った。
「師匠に叱られるぞ」
「それは、あるかもしれない」
「あると思う」
その予想は、当たった。
■真田道場
真田道場に着く頃には、空はかなり暗くなっていた。
「失礼します」
中へ入る。
木の匂い。
畳の匂い。
張り詰めた静かな空気。
いつもの道場だった。
それだけで、少し背筋が伸びる。
師匠はすでに道場に立っていた。
「来たか」
「はい」
「構えろ」
「はい」
稽古はすぐに始まった。
足運び。
姿勢。
重心。
踏み込み。
いつもの基礎。
だが、今日は最初からうまくいかなかった。
「遅い」
「はい」
「重い」
「はい」
「目が泳いでおる」
「……はい」
「もう一度」
「はい」
恒一は踏み込んだ。
だが、足がずれる。
重心が浮く。
視線も一瞬外れた。
その瞬間、師匠の声が飛ぶ。
「集中せんか!」
道場全体に響く声だった。
恒一はすぐに姿勢を正した。
「すみません」
「何を見ておる」
「……」
「目の前の相手を見ずして、何を鍛えるつもりだ」
声は、いつも以上に厳しかった。
「もう一度」
「はい」
もう一度やる。
それでも、また崩れた。
師匠は眉をひそめる。
「朝比奈」
「はい」
「今日はまるで駄目だ」
「……はい」
「体が疲れておるだけではない」
「……」
「心がここにない」
その言葉が刺さった。
その通りだった。
恒一の意識は、目の前の稽古に向いていない。
明後日。
北条真白。
その二つばかりが頭に残っている。
「何かあったか」
師匠が聞いた。
けれど、ここでも話すことはできない。
師匠にも強制力が働く可能性がある。
記憶に残らないだけでは済まないかもしれない。
脳に異常が残る可能性さえある。
そう思えば、口を開くことなどできなかった。
「……少し、考えごとをしています」
「少しではないな」
「……」
「ならば、今日はここまでだ」
「まだできます」
「できん」
即答だった。
「お主は今、鍛える以前の状態じゃ」
「……」
「無理に続ければ、悪い癖がつく。怪我もする」
巴と同じようなことを言われた。
やはり、それほど顔や動きに出ているのだろう。
「申し訳ありません」
「謝る暇があるなら、己を整えろ」
「はい」
師匠は静かに息を吐いた。
「朝比奈」
「はい」
「強くなるとは、ただ動くことではない」
「……」
「目の前のことに向き合えぬ者は、どれほど動いても散るだけじゃ」
「……はい」
「今日は帰れ」
「はい」
恒一は深く頭を下げた。
道場を出ようとした時、師匠がもう一度声をかけた。
「二日ほど、落ち着け」
恒一の足が止まる。
「二日」
「顔に出ておる」
「……」
「何を抱えておるかは知らん。だが、お主は今、二日先ばかり見ておる顔をしている」
胸がわずかに跳ねた。
師匠は何も知らない。
知らないはずだ。
それでも、見抜かれた。
「目の前を見ろ」
「……はい」
「それができねば、強くはなれん」
恒一はもう一度、深く頭を下げた。
「ありがとうございました」
■夜道
真田道場を出ると、冷たい夜風が頬に当たった。
体はそれほど疲れていない。
稽古を途中で切り上げられたからだ。
それなのに、頭だけがひどく重い。
明後日。
北条真白が来る。
本当に来る。
職員室で確認した。
担任も知っていた。
名前も合っていた。
クラスも合っていた。
もう、神様の言葉を疑う余地はなかった。
「……」
恒一は夜道を歩く。
街灯の下に、長い影が伸びていた。
明日。
その次の日。
あと二日。
たったそれだけなのに、ひどく長く感じる。
不安だった。
どうしようもなく不安だった。
誰にも相談できない。
巴にも言えない。
基樹にも。
彩音にも。
佐藤にも。
誰にも。
北条真白が来るまで、この不安を一人で抱えるしかない。
師匠の言葉が、何度も頭の中で響く。
心がここにない。
目の前を見ろ。
正しい。
師匠の言うことは正しい。
それでも、今の恒一には簡単にはできなかった。
「……あと二日」
小さく呟く。
二日間。
その二日間が、不安で仕方なかった。
まだ何も起きていない。
それなのに。
もう何かが始まってしまっているような気がしていた。




