第136話 相談できない話
■朝比奈家
朝。
目が覚めてから、恒一はしばらく天井を見つめていた。
昨夜のことが、頭から離れない。
白い空間。
神様。
新たなる女性。
養和の時代に生きた、恒一と特別な縁があるらしい相手。
二、三日中にも転校してくるかもしれない少女。
そして、そのことを誰にも話せない。
「……」
情報が多すぎる。
しかも、一つ一つが重かった。
恒一は布団の中で、ゆっくり息を吐く。
「……困る」
声に出してみても、当然何も解決しない。
困るだけでどうにかなるなら、世の中はもっと簡単なのだろう。
恒一は諦めて体を起こした。
それでも、頭の中では神様の言葉が何度も繰り返されている。
その女性は来る。
すでに手続きは進んでいる。
神様から恒一のことを聞かされ、恒一を特別な相手だと思っている。
たぶん、かなり真剣に。
顔を洗いながら鏡を見ると、そこには朝から疲れた顔が映っていた。
まだ何も起きていない。
それなのに、すでに寝不足だった。
「……基樹に」
そこまで口にして、止まった。
相談するなら、最初に思い浮かぶのは基樹だった。
基樹なら、たぶん怒る。
頭を抱えるかもしれない。
それでも、最後まで話を聞いてくれる。
彩音も同じだ。
最初は笑うかもしれない。
けれど、途中からは真面目に考えてくれるだろう。
佐藤なら、たぶん胃を押さえる。
もっとも、相談相手として真っ先に佐藤を思い浮かべるのは少し違う気もする。
ただ、新しい転校生が陸上部にまで関わることになれば、佐藤にも無関係ではいられない。
巴にも。
白石にも。
たぶん、関係してくる。
「……」
けれど、話せない。
神様は言っていた。
本来知るはずのないことを話せば、強制力が働く。
その言葉が重く残っている。
しかも、影響を受けるのは恒一ではない。
聞かされた相手だ。
基樹に話す。
彩音に話す。
巴に話す。
それで、もし何かが起きたら。
記憶が消えたら。
関係が歪んだら。
最悪、相手の頭に異常が残ったら。
そんなことになれば、恒一には耐えられない。
しかも巴には、それとは別の危険もある。
巴は今、普通の人生を歩んでいる。
神様はそう言っていた。
過去の苦しみを思い出させるな、と。
今の巴には家族がいる。
友人がいる。
今の人生を生きている。
かつての記憶が戻れば、心が壊れる可能性がある。
下手をすれば、発狂するかもしれない。
その言葉を思い出すだけで、胸の奥が冷えた。
巴に話せれば、恒一自身は楽になるかもしれない。
けれど、その代わりに巴が苦しむなら。
絶対に駄目だった。
「……無理だな」
歯ブラシを持ったまま、恒一は小さく呟いた。
相談できない。
誰にも。
■
学校へ行っても、頭の重さは消えなかった。
「恒一」
教室で基樹に呼ばれる。
「なんだ」
「お前、顔色悪くないか」
「そうか?」
「そうだよ」
基樹が眉をひそめた。
「また無茶したのか」
「してない」
「本当に?」
「ああ」
今回は本当に何もしていない。
走りすぎてもいない。
筋トレを増やしたわけでもない。
ただ、神様が余計なことをしただけだった。
それを無茶と言っていいのかは分からない。
少なくとも、今回の原因は恒一ではない。
――いや。
以前、財布を投げ込んだ件まで遡れば、まったく無関係とも言い切れないのかもしれない。
「恒一?」
「ああ」
「今、何か考えてただろ」
「少し」
「何を」
「……」
答えられなかった。
喉まで出かかった言葉が、そのまま止まる。
基樹に言えれば、少しは楽になる。
神様がまた余計なことをした。
恒一と特別な縁があるらしい女の子が転校してくる。
しかも、その少女は神様から恒一のことを聞いている。
もしそんな話をしたら、基樹はどんな顔をするだろう。
最初は固まる。
次に頭を抱える。
最後には、かなり怒る。
そこまでは簡単に想像できた。
問題は、そのあとだった。
話を聞いた記憶が残るのか。
消えるのか。
何かが歪むのか。
それとも、何も起きないのか。
分からない。
だから試せない。
「……いや」
恒一は首を横に振った。
「なんでもない」
基樹の目が細くなる。
「恒一のなんでもないは、だいたい何かある」
「そうなのか」
「そうだよ」
基樹は少しだけ身を乗り出した。
「言えないことか?」
「……」
返事に詰まった。
それだけで、基樹には伝わったらしい。
「言えないんだな」
「すまん」
「謝ることじゃねえけど」
基樹は息を吐いた。
「でも、無茶はするなよ」
「ああ」
「抱え込みすぎるなよ」
「……」
「恒一?」
「努力する」
「そこで努力するって言うな。怖い」
「分かった」
基樹はまだ心配そうだった。
それでも、それ以上は聞かなかった。
たぶん、基樹なりに踏み込まないでいてくれたのだろう。
ありがたかった。
だからこそ、何も話せないことが少し苦しかった。
■
昼休み。
彩音にも、すぐに気づかれた。
「恒一、何か隠してるね」
「……」
「ほら、黙った」
彩音は弁当の蓋を閉じながら言った。
「基樹には?」
「何も言ってない」
「言えない感じ?」
「……ああ」
「そっか」
彩音は少しだけ目を細めた。
いつものように面白がっている顔ではない。
恒一の様子を確かめるような目だった。
「じゃあ、無理には聞かない」
「……助かる」
「でも」
「ああ」
「巴に関係ある?」
胸がわずかに跳ねた。
答えられない。
その沈黙だけで、彩音には十分だったらしい。
「あるんだ」
「……」
「言えないなら、言わなくていい」
彩音は静かに続けた。
「ただ、恒一」
「なんだ」
「言えないことがある時ほど、言えることは言った方がいいよ」
「言えること?」
「うん」
彩音が少しだけ笑う。
「全部話せなくても、今ちょっと余裕がないとか、少し考える時間がほしいとか。そういうこと」
「……」
「何も言わないと、周りは勝手に不安になるから」
その言葉が刺さった。
最近、何度も似たようなことを言われている気がする。
言えないことがあるなら、言えることだけでも話す。
約束を守るだけが誠実なのではない。
相手に向き合うことも、誠実さの一つ。
それは分かり始めていた。
ただ今回は、言えることそのものがあまりにも少ない。
「……分かった」
「本当に?」
「考える」
「それ、ちょっと怪しいけど。まあいいか」
彩音は軽く息を吐いた。
恒一は弁当の中身に目を落とした。
あまり食欲がない。
それでも、食べなければ基樹に怒られる。
彩音にも怒られるだろう。
巴に知られれば、たぶん巴にも怒られる。
そう考えて、恒一は卵焼きを口に入れた。
味は、あまり分からなかった。
■
放課後。
グラウンドへ行くと、巴がいた。
いつも通り姿勢よく立ち、女子部員に短く指示を出している。
一人ずつフォームを見て、必要なところだけを直していく。
少し前までより、表情は穏やかだった。
恒一が距離を取っていることも、以前ほど気にしてはいないように見える。
だからこそ。
これから起きることを考えると、胸が重くなった。
新たなる女性。
転校生。
神様から恒一のことを聞かされている相手。
そんな少女が突然現れたら、巴はどう思うのだろう。
怒るだろうか。
呆れるだろうか。
また、傷つくだろうか。
その時、恒一に何ができるのか。
「朝比奈」
気づけば、巴がこちらを見ていた。
「顔が暗い」
「そうか?」
「そうだ」
即答だった。
少し前までなら、ごまかしていたかもしれない。
今も全部は言えない。
それでも、彩音に言われたことが頭に残っていた。
言えることだけでも言う。
「少し、考えごとをしている」
「そうか」
「すまん。練習には支障を出さない」
「そういう問題じゃない」
巴が少し眉を寄せた。
「無理してるの?」
「無理はしていない」
「本当?」
「体は」
「体は?」
言い方を間違えた。
巴の目が細くなる。
「朝比奈」
「なんだ」
「何かあるなら、言って」
「……」
「言えないの?」
恒一は少しだけ拳を握った。
言いたい。
けれど、言えない。
今回は約束を守るためではない。
話した相手に何が起きるか分からないからだ。
巴を危険にさらす可能性もある。
だが、その理由さえ説明できない。
「……今は、言えない」
恒一はそう答えた。
巴は黙った。
怒るかと思ったが、すぐには何も言わなかった。
「そう」
「ああ」
「また、約束?」
「……少し違う」
「違う?」
「言えないことがある」
「それは同じでしょ」
「……そうかもしれない」
巴は恒一をじっと見た。
「私に関係ある?」
また答えられなかった。
否定することもできない。
巴はその沈黙から察したらしい。
「関係あるんだ」
「……」
「分かった」
声は静かだった。
けれど、少しだけ硬い。
「話せるようになったら話して」
「……分かった」
「それまでは、せめて変な顔しないで」
「変な顔?」
「部員が不安になる」
「……すまん」
「私も少し気になる」
最後の一言だけ、声が小さくなった。
恒一が顔を上げた時には、巴はもう視線を逸らしていた。
「練習に入る」
「ああ」
それだけで会話は終わった。
何も解決していない。
けれど、何も言わなかったわけでもない。
考えごとをしている。
今は話せない。
そして、巴にも関係している。
前なら、そのすべてを黙ったままにしていたかもしれない。
それを考えれば、ほんの少しはましになったのだろうか。
恒一には、まだ分からなかった。
■
それから数日が過ぎた。
何も起きなかった。
少なくとも、表面上は。
学校はいつも通りだった。
授業があり、昼休みがあり、放課後には陸上部がある。
基樹は時々、恒一の顔色を確認する。
彩音は、何かを察しているような目を向けてくる。
巴は練習中、以前より恒一を見ることが少し増えた。
白石も二人の様子を見て、何か考えているらしい。
佐藤は空気の変化に気づいて胃を押さえかけたが、まだ耐えていた。
その間も、恒一は何度も考えた。
何とかして誰かに相談できないか。
神様の話をぼかせば、伝えられるのではないか。
夢で変なことを言われた。
転校生が来るかもしれない。
その相手が恒一と関係しているらしい。
その程度なら大丈夫なのではないか。
けれど、結局試すことはできなかった。
どの言葉から強制力が働くのか分からない。
境界線そのものが分からない。
話した内容がどの程度記憶に残るのかも分からない。
「何かを聞いた気がする」
その程度で終わるのか。
人間関係そのものが歪むのか。
それとも、さらに悪いことが起きるのか。
分からない以上、誰かを使って確かめることなどできなかった。
■
夜。
自室。
恒一は机の前に座っていた。
目の前には、開いたままのノートがある。
けれど、何も書けない。
口に出すのが危険なら、文字はどうなのか。
書き残したものを誰かが読んだら。
自分で読み返したら。
それでも強制力は働くのか。
何一つ分からなかった。
恒一はペンを置き、ノートを閉じる。
「……どうしろっていうんだ」
小さく呟いた。
当然、答えは返ってこない。
神様はいつも、一方的に情報だけを置いていく。
そして現実だけが、あとから追いついてくる。
恒一はベッドに倒れ込んだ。
目を閉じる。
新たなる女性。
恒一のことをすでに知っている少女。
恒一を特別な相手だと思っている人。
その相手が、もうすぐ現れる。
避けることはできない。
数日間考え続けて、ようやく一つだけ答えが出た。
相談はできない。
説明もできない。
逃げることもできない。
なら。
「……会うしかない」
相手が来るなら、直接会って向き合うしかない。
運命だと言われても。
神様に決められていると言われても。
最後にどうするのかは、恒一自身が決める。
巴に対しても。
これから来る少女に対しても。
できることは、たぶんそれだけだった。
数日が過ぎた。
まだ何も起きていない。
けれど、何かが近づいていることだけは、ずっと分かっていた。
そして恒一は。
まだ起きてもいないことに、すでにかなり疲れていた。




