第135話 神様、余計なことをする
■縁の間
白い空間――縁の間だった。
また、ここだ。
上も下も分からない。
壁もなく、床もなく、ただ白い。
そして、その中央に。
白髪に白ひげの老人が、やけに満足そうな顔で立っていた。
「うむ、来たか」
「……またですか」
恒一は少しだけ身構えた。
恋愛の神様。
恒一の人生を盛大にややこしくした元凶である。
最近では、元凶という言葉だけでは足りない気さえしていた。
「今日は良い知らせじゃ」
「嫌な予感しかしないんですが」
「聞く前から嫌がるでない」
「神様の良い知らせで、良かったことがあまりないので」
「失礼な」
神様は白いひげをくるくるといじった。
その仕草を見るだけで、恒一は少し胃のあたりが重くなる気がした。
「ついに見つかったのじゃ」
「何がですか」
「新たなる女性じゃ」
「……」
恒一は黙った。
神様は、なぜか誇らしげに胸を張っている。
「養和の時代に生きた女性じゃ。お前さんと縁が深く、今生でも結ばれる可能性が極めて高い」
「いや、もういいです」
恒一は即答した。
神様のひげをいじる手が止まる。
「……なんじゃと?」
「もういいです」
「なぜじゃ」
「今、その話を増やされても困るからです」
「困る?」
「困ります」
恒一は、はっきりと言った。
「俺は今、真田のことで手一杯です」
「ふむ」
「しかも、まだ距離を取っている状態で、佐藤に胃痛を起こさせて、基樹と彩音にも心配されて、白石も混乱していて、真田家では土下座まで発生しています」
「なかなか賑やかじゃな」
「賑やかで済ませないでください」
恒一は頭を抱えた。
せっかく少しだけ落ち着いてきたところなのだ。
ここで新しい問題を持ち込まれたくない。
「これ以上、ややこしくしないでください」
神様は少しだけ目を伏せた。
いつもより、ほんの少しだけ真面目な顔になった。
「……その件については、わしも反省しておる」
「本当ですか」
「本当じゃ」
「そこそこですか」
「今回は、かなりじゃ」
それは少し意外だった。
神様が自分から、かなり反省していると言うのは珍しい。
「お前さんには、これまで余計な負担をかけた」
「はい」
「情報の与え方も悪かった」
「はい」
「縁の扱いも、少々雑だった」
「少々?」
「かなり雑だった」
「はい」
神様は咳払いした。
「じゃから今回は、わしも色々と手を尽くした」
「……何をしたんですか」
嫌な予感が、一気に強くなった。
神様がにやりと笑う。
かなり嫌な笑みだった。
「まず、その女性をお前さんの学校へ転校させる予定じゃ」
「やめてください」
「もう手配した」
「やめてください!」
恒一は思わず声を上げた。
縁の間に、その声だけが響く。
「さらに、彼女にはお前さんのことを話してある」
「本当にやめてください!」
神様はなぜか得意げだった。
「今回は親切設計じゃ。向こうは最初からお前さんを知っておる。お前さんを探し、理解し、近づいてくる」
「それが困るんです」
「なぜじゃ。手間が省けるじゃろう」
「恋愛を手間で考えないでください」
「お前さん、なかなか良いことを言うのう」
「褒めなくていいです」
恒一は頭が痛くなってきた。
まだ何も起きていない。
それなのに、すでにかなり疲れている。
「神様」
「なんじゃ」
「その人に、俺の何を話したんですか」
「運命の相手じゃと」
「最悪です」
「なぜじゃ。分かりやすいじゃろう」
「それが最悪なんです」
恒一は深く息を吐いた。
「俺は、その人を知らないんですよ」
「これから知ればよい」
「向こうだけが俺を知っていて、しかも運命の相手だと思って来るんですよね」
「うむ」
「それ、ずるいです」
神様の表情が少しだけ変わった。
「ずるい?」
「はい」
恒一は頷いた。
「相手の気持ちも、俺の気持ちも、何も積み重なっていないのに、最初から答えだけ渡されているみたいで」
「……」
「それは、相手にも失礼だと思います」
神様は黙った。
珍しく、すぐには言い返してこない。
恒一は続けた。
「それに、今の俺には真田がいます」
「じゃが、巴には選択肢がある」
「分かっています」
「その女性にとっては、お前さんしかおらん」
「……」
「お前さんが断れば、その女性は――」
「そういう言い方をしないでください」
少し強い声が出た。
神様が目を細める。
「ほう」
「その人に俺しかいないとしても、それを理由に俺が選ぶのは違うと思います」
「……」
「可哀想だからとか、運命だからとか、神様が言ったからとか」
言いながら、恒一の胸は少し重くなった。
それでも、ここははっきりさせておかなければならない気がした。
「そういう理由で誰かを選ぶのは、たぶん誠実じゃない」
神様はしばらく恒一を見ていた。
やがて、少しだけ笑った。
「お前さん、本当に面倒な男になったのう」
「褒めてますか」
「半分」
「また半分ですか」
「残り半分は、困っておる」
「俺も困っています」
神様は再びひげをいじった。
ただし、さっきまでより手つきが少し遅い。
「じゃが、その女性もまた、ただの恋だけでお前さんを求めているわけではない」
「……どういう意味ですか」
「彼女には、前世から続くものがある」
神様の声が少し低くなった。
「前世から続くもの?」
「うむ。罪と呼べるものもある。悔いと呼べるものもある」
「……」
「そして、彼女自身のせいだけではないものも多い」
「どういうことですか」
「彼女は前世で、過分に恨みや妬みを受けた存在でもある」
神様は、ゆっくりと言葉を選ぶように続けた。
「身に余るものを背負わされ、向けられるべきではない憎しみや嫉妬を受け、それでも立つしかなかった女じゃ」
「……」
「強く、聡明で、決断力があった。だが、その強さゆえに、さらに多くのものを引き寄せた」
「それが、今の彼女にも?」
「魂には残る」
神様は静かに言った。
「記憶そのものではなくともな。傷の形や、願いの形として残ることがある」
恒一は黙って聞いていた。
「彼女は、お前さんに会いたいと言った」
「運命の相手だから、ですか」
「それもある」
「それも?」
「前世から続く悔いに、今度こそ向き合うためじゃ」
「……」
「自分が何をしたのか、何を背負わされたのか。そのすべてを正しく覚えているわけではない。じゃが、魂は知っておる」
神様は恒一を見る。
「彼女は、お前さんに会うことで、自分が何かを変えられるのではないかと思っておる」
「俺に会うことで?」
「うむ」
「なぜ俺なんですか」
「お前さんとの縁が深いからじゃ。それに……」
神様は、そこで言葉を止めた。
それ以上は言えない。
そんな顔だった。
「……また、そういう言い方をしますね」
「今は、全部を話す時ではない」
「それ、だいたい後で揉める言い方ですよ」
「分かっておる」
「分かってるなら」
「それでも、話せぬことはある」
神様の声は珍しく重かった。
「ただ、これだけは言っておく」
「何ですか」
「彼女は、お前さんをただ恋の相手として見ているだけではない」
「……」
「お前さんと出会うことで、前世から続くものに一区切りをつけられるかもしれない。そう感じておる」
恒一は少しだけ顔をしかめた。
「それは、俺に何かをしてほしいということですか」
「そうとも言えるし、そうでないとも言える」
「曖昧ですね」
「縁とは曖昧なものじゃ」
「便利な言葉ですね」
神様は少しだけ苦笑した。
「彼女は、お前さんに会いたい。会って、自分の中に残っているものを確かめたい。おそらく、そういうことじゃ」
「……」
「だからこそ、重い」
「それは分かります」
恒一は小さく息を吐いた。
「でも、それを俺が受け止めるかどうかは別ですよね」
「うむ」
「会うだけなら会います。でも、運命だからとか、前世の悔いがあるからとか、それだけで俺が何かを決めるのは違うと思います」
「それでよい」
「よいんですか」
「うむ」
神様は満足そうに頷いた。
「お前さんがそう考えることもまた、必要なことじゃ」
「……必要」
「うむ」
「それなら、最初から転校させないでほしかったです」
「それはそれ、これはこれじゃ」
「全然違います」
恒一は深くため息を吐いた。
分かったようで、ほとんど分からない。
その女性には、前世から続く何かがある。
罪や悔い。
過分な恨みや妬みを受けた過去。
今生で恒一に会うことで、それに向き合いたいと思っている。
かなり重い話だった。
けれど、恒一にはまだそれ以上のことは分からない。
自分に何ができるのか。
なぜ自分なのか。
それすら分からない。
ただ一つ。
神様がまた面倒なことを始めた。
それだけは、はっきりしていた。
「じゃが、もう手遅れじゃ」
「何がですか」
「転校の手配は済んでおる」
「戻してください」
「難しい」
「そこを何とかするのが神様では」
「神にも手順というものがある」
「余計な時だけ手順を飛ばすのに」
「痛いところを突くのう」
神様は咳払いした。
「ともかく、彼女は来る」
「……」
「彼女にとって、お前さんは特別じゃ」
「……」
「まあ、運命の相手じゃな」
ドヤ顔だった。
本当に、腹立たしいくらい得意げな顔だった。
「どうじゃ」
「やめてください」
「遅い」
「本当に困ります」
「困ればよい」
「よくないです」
恒一は再び頭を抱えた。
真田との距離は、まだ完全には戻っていない。
白石ひよりのこともある。
佐藤は、ようやく胃薬を出さずに済むようになってきた。
基樹と彩音も、恒一のことでかなり苦労している。
そこへ、新たなる女性。
しかも、神様公認。
運命の相手。
転校予定。
恒一のことを、すでに知っている。
前世から続く悔いに向き合うため、恒一に会いたいと思っている。
「……絶対、揉める」
思わず声に出た。
「揉めるじゃろうな」
「認めないでください」
「恋は揉めるものじゃ」
「神様のせいで揉めるんです」
「まあ、今回は少しそうかもしれん」
「少しじゃないです」
神様は楽しそうに笑っている。
恒一には、まったく笑えなかった。
「一つだけ、聞かせてください」
「なんじゃ」
「その人は、自分の意思で俺に会いたがっているんですか」
「うむ」
神様は頷いた。
「お前さんのことを聞いて、会いたいと言った」
「……」
「かなり強い縁を持つ女じゃ。前世からの記憶は当然ないが、何かを感じておる」
「そうですか」
「お前さんなら、無下にはせんじゃろう」
「……」
それは、ずるい。
恒一はそう思った。
相手が会いたがっている。
恒一を特別だと思っている。
それを聞いてしまえば、最初から無視することなどできない。
けれど。
会うことと、受け入れることは違う。
「会うだけなら、会います」
「ほう」
「でも、俺がどうするかは俺が決めます」
神様は満足そうに目を細めた。
「それでよい」
「よいんですか」
「うむ」
「必ず結ばれるって言ったじゃないですか」
「言った」
「矛盾してませんか」
「運命とは、矛盾を含むものじゃ」
「便利すぎる」
「神様じゃからな」
恒一はまた、ため息を吐いた。
「とにかく」
神様が言う。
「近いうちに、彼女は現れる」
「名前は?」
「まだ教えん」
「なぜ」
「その方が面白い」
「本当にやめてください」
「まあ、会えば分かる」
神様はひげをくるくるといじる。
縁の間が、少しずつ揺れ始めた。
目覚めが近いのだろう。
「朝比奈恒一」
「はい」
「彼女にとって、お前さんは特別じゃ」
「……」
「だが、お前さんがどう向き合うかは、お前さん次第じゃ」
「……分かりました」
「誠実にのう」
「言われなくても」
神様は、にやりと笑った。
「その誠実さが、また騒動を呼びそうじゃがな」
「やめてください」
「ではな」
縁の間が、さらに揺れる。
神様の姿が薄れていく。
「新たなる女性は、近いぞ」
最後まで余計なことを言い残して、神様は消えた。
■ 朝
恒一は目を覚ました。
見慣れた自室の天井。
朝の光が差し込んでいる。
「……」
しばらく、そのまま動けなかった。
新たなる女性。
養和の時代に生きた女性。
恒一のことを知っている。
転校してくる。
彼女にとっては、恒一しか相手がいない。
運命の相手。
そして、前世で罪や悔いを背負い、過分な恨みや妬みを受けた存在。
恒一に会うことで、前世から続く何かに向き合おうとしている少女。
「……困る」
本当に困る。
真田にどう説明するのか。
基樹にどう話すのか。
彩音なら、最初は笑うかもしれない。
いや。
途中から笑えなくなる可能性もある。
佐藤は、なぜか胃を押さえる気がした。
白石は混乱するだろう。
そして。
真田は。
「……」
巴がどう思うのか。
そこを考えた瞬間、胸が重くなった。
恒一は布団の上で、ゆっくり顔を覆った。
「神様」
小さく呟く。
「本当に、余計なことだけは早いな……」
まだ何も起きていない。
それなのに、朝からすでにかなり疲れていた。
そして。
たぶん、これからもっと疲れることになる。
そんな嫌な確信だけが、妙にはっきりしていた。




