第134話 いつもの陸上部
■グラウンド
放課後。
文化祭が終わり、学校全体の浮ついた空気も少しずつ落ち着いてきていた。
陸上部も、今日から通常練習に戻る。
短距離組はスタート練習。
長距離組は外周。
跳躍組は助走の確認。
いつもの声。
いつもの足音。
いつもの砂の匂い。
それだけで、佐藤忠一は少しだけ胸を撫で下ろした。
「……平和だ」
出欠表を持ったまま、佐藤は小さく呟いた。
近くにいた一年生が首を傾げる。
「佐藤先輩、どうしたんですか?」
「いや」
佐藤は真面目な顔で言った。
「普通の練習ができるというのは、ありがたいことだと思ってな」
「急にどうしたんですか」
「副部長になると分かる」
「副部長ってそんなに大変なんですか?」
「普通はここまでではないと思う」
佐藤は遠くを見た。
文化祭前後の数日間。
陸上部は、表面上はちゃんと回っていた。
しかし、その裏では空気がずっと重かった。
朝比奈恒一は真田巴と距離を取り続ける。
巴は苛立つ。
白石ひよりは戸惑う。
部員たちは気づく。
ファンクラブも気づく。
そして、その大半のしわ寄せが、なぜか佐藤の胃に来た。
思い出すだけで、少し胃が重い。
しかし今日は違う。
空気が、少し軽い。
完全に元通りではない。
それでも、明らかに前よりはましだった。
「佐藤」
朝比奈恒一が声をかけてくる。
「今日のメニュー、確認していいか」
「ああ」
佐藤は用紙を渡した。
「短距離は基礎戻し。文化祭明けだから、負荷は少し軽めにした」
「分かった」
「女子側は真田に任せる」
「ああ」
恒一はうなずいた。
そのあと、少しだけ巴の方を見る。
巴は女子部員たちと話していた。
距離はある。
恒一は、まだ必要以上に近づいていない。
それは変わっていない。
だが。
「……」
佐藤は少し目を細めた。
巴の顔が、前より柔らかい。
怒っていない。
沈んでもいない。
女子部員にフォームを説明しながら、ほんの少しだけ笑みを浮かべている。
ここ数日の、張り詰めたような雰囲気も薄れていた。
「真田先輩、今日は普通ですね」
一年生が小声で言った。
佐藤は深くうなずく。
「そうだな」
「よかったですね」
「ああ」
佐藤は心から言った。
「本当に、よかった」
その声が妙に重かったので、一年生はそれ以上聞かなかった。
聞かない優しさを、陸上部員は少しずつ覚えてきていた。
白石ひよりは、グラウンドの端でストレッチをしていた。
膝裏を伸ばしながら、少し離れた場所にいる巴を見る。
巴は、陸上部の副部長だ。
強くて、速くて、綺麗で、少し近寄りがたい。
ひよりは、ずっとそんな印象を持っていた。
今でも緊張はする。
けれど今日は、いつもより少し近づきやすく見えた。
「白石」
「はいっ」
急に名前を呼ばれ、ひよりは背筋を伸ばした。
声の主は巴だった。
思わず身構える。
けれど、巴の表情は穏やかだった。
「今日のスタート、少し見る」
「あ、はい」
「文化祭明けだから、無理に速く出ようとしなくていい」
「はい」
「最初の三歩だけ意識しろ」
「分かりました」
いつも通りの短い指示。
でも、今日は声が少し柔らかい。
ひよりはそう感じた。
練習に入る。
一歩。
二歩。
三歩。
少し力が入る。
地面を蹴る感覚が、まだうまくつかめない。
「止まれ」
「はい」
巴が近づいてくる。
ひよりは少し緊張した。
でも、前ほど体は固まらなかった。
「三歩目で少し上がっている」
「はい」
「前に出る意識が強すぎる」
「前に出る意識が強すぎる、ですか」
「ああ。焦ってる」
「……焦ってますか」
「少し」
巴はそこで、ほんの少しだけ笑った。
「でも、悪くない」
ひよりは驚いた。
「悪くない、ですか」
「ああ」
「真田副部長にそう言われると、ちょっと安心します」
「そうか」
「はい」
ひよりは素直にうなずいた。
巴は少しだけ視線を逸らす。
「朝比奈も、似たようなことを言うだろ」
「はい」
「なら、たぶん合っている」
「……」
ひよりは巴を見る。
巴の声には、前のような張り詰めたものがなかった。
恒一の名前が出ても、暗くならない。
苛立ってもいない。
距離を取られていることは、変わっていないはずなのに。
それでも、巴は少し落ち着いているように見えた。
「あの」
「なんだ」
「真田副部長、今日は少し……」
言いかけて、ひよりは止まった。
何と言えばいいのか分からない。
元気そう。
優しそう。
話しかけやすい。
どれも言い方を間違えると失礼な気がする。
巴は首を傾げた。
「少し?」
「……いつもより、話しやすいです」
言ってから、ひよりは慌てる。
「あ、すみません」
「なぜ謝る」
「なんとなく」
「なんとなくで謝るな」
「はい」
巴は少しだけ目を細めた。
怒っているわけではない。
むしろ、少しだけ笑っている。
「そう見えるなら、まあ、いい」
「いいんですか」
「たぶん」
「たぶん」
「私にも分からない」
ひよりは一瞬きょとんとして、それから小さく笑った。
巴も、ほんの少しだけ笑った。
その様子を、遠くから佐藤が見ていた。
「……平和だ」
今日二度目の呟きだった。
■
恒一は、少し離れた場所で一年生のフォームを見ていた。
巴とひよりが話しているのが、視界の端に入る。
二人とも、以前より自然に話している。
それは良いことだと思った。
ただ、自分はまだ距離を取っている。
それは変わらない。
約束を守る。
誠実である。
強くなる。
それは、自分が決めたことだ。
だが、最近少しだけ分かったこともある。
距離を取ることと、相手を見ないことは違う。
約束を守ることと、何も伝えないことも違う。
「朝比奈部長」
「なんだ」
一年生男子が声をかけてくる。
「次、流しですか?」
「ああ。八割で二本」
「了解です」
恒一はメニューを確認してから、少しだけ巴の方を見た。
巴も、こちらを見た。
目が合う。
以前なら、恒一はすぐに視線を外していた。
今日も、少しだけ迷った。
だが、外さなかった。
距離は取ったまま。
けれど、目は逸らさない。
巴は少しだけ驚いたような顔をした。
それから、ほんのわずかに口元を緩めた。
恒一は小さく頭を下げる。
巴も短くうなずいた。
それだけだった。
本当に、それだけ。
でも、佐藤は見ていた。
ひよりも見ていた。
近くの女子部員も数人見ていた。
そして、フェンス際のファンクラブも見ていた。
「今の」
「見た」
「巴様、少し笑った?」
「たぶん」
「朝比奈、目を逸らさなかった」
「事件?」
「事件というほどではない」
「でも記録対象」
「記録しよう」
西園寺が真剣な顔でうなずいた。
「本日の巴様、通常状態にやや回復。朝比奈との視線接触あり」
「会長、なんか観察記録が研究っぽくなってきました」
「巴様を見守るには精度が必要だ」
「なるほど」
彼女たちは今日も真剣だった。
そして、やはり少しおかしかった。
■
練習は、つつがなく進んだ。
文化祭明けなので、負荷は軽め。
それでも、久しぶりの通常練習に部員たちは少しほっとしていた。
「やっぱり走ってる方が落ち着くな」
「文化祭も楽しかったけどね」
「模擬店、忙しすぎた」
「佐藤先輩、すごい嬉しそうだったよね」
「今日も嬉しそう」
部員たちが話している。
その横で、佐藤は記録用紙を確認していた。
確かに、嬉しかった。
模擬店が成功したことも嬉しい。
部員たちがちゃんと練習に戻れたことも嬉しい。
そして何より。
空気が前より戻っている。
それが、一番嬉しかった。
「佐藤」
巴が声をかける。
「はい」
「女子側、流し終わった。次は補強でいいか」
「はい。今日は軽めで」
「分かった」
巴はうなずいた。
その声は落ち着いている。
佐藤は、それだけで泣きそうになった。
泣かないけれど。
副部長なので。
「佐藤」
「はい」
「何か変な顔をしている」
「感動していました」
「何に」
「普通に練習が進むことに」
巴は少しだけ目を細めた。
「……苦労をかけたか」
佐藤は一瞬、言葉に詰まった。
正直に言えば、かなり苦労した。
だが、それをそのまま言うほど佐藤も無謀ではない。
「副部長なので」
そう答えた。
巴は少しだけ黙る。
それから、短く言った。
「悪かった」
「いえ」
「まだ完全に戻ったわけではない」
「はい」
「でも、少しは大丈夫だ」
佐藤は、その言葉を聞いて本当に安心した。
「それは、よかったです」
「ああ」
巴はそれだけ言って、女子部員の方へ戻っていった。
佐藤は空を見上げた。
「……胃が軽い」
小さく呟く。
近くの一年生が聞く。
「佐藤先輩、胃が軽いって何ですか」
「幸せの一種だ」
「そうなんですか」
「たぶん違う」
「どっちですか」
「副部長になると分かる」
「やっぱり副部長って大変なんですね」
「だから、普通はここまでではない」
佐藤は言いながら、少しだけ笑った。
■
練習後。
片付けをしながら、ひよりは巴の背中を見ていた。
距離を取られている。
それは変わらない。
恒一は、まだ巴に必要以上には近づかない。
でも、前ほど冷たくは見えない。
巴も、前ほど傷ついているようには見えない。
むしろ、少しだけ穏やかだった。
不思議だった。
あれほど分からなかったものが、今も全部分かったわけではない。
それでも。
前よりは、少し見える。
嫌っているわけではない。
ただ避けているだけでもない。
何か、二人の間にしか分からないものがある。
それは、ひよりには少し寂しい。
でも、前ほど怖くはなかった。
「白石」
「はい」
巴が近づいてくる。
「今日の三歩目、最後は良くなっていた」
「本当ですか」
「ああ」
「ありがとうございます」
「礼を言うなら、自分の足に言え」
「え?」
「動かしたのは白石だ」
ひよりは目を丸くした。
それから、少しだけ笑う。
「朝比奈先輩みたいなこと言いますね」
言ってから、ひよりは少し焦った。
だが、巴は怒らなかった。
むしろ、少しだけ笑った。
「そうか」
「はい」
「なら、悪くない」
巴はそれだけ言って、片付けに戻っていった。
ひよりは、その背中を見ながら小さく息を吐いた。
今日の巴は、やっぱり少し優しく見えた。
前よりも、ずっと。
■
グラウンドの片付けが終わる頃。
佐藤は出欠表を鞄にしまった。
今日は、大きな問題は起きなかった。
恒一は鈍いなりに、少しずつ巴を見ようとしていた。
巴はまだ距離を取られているが、前ほど暗くない。
ひよりも少し落ち着いている。
部員たちも普通に練習できた。
ファンクラブは相変わらずだった。
最後の一点だけは、どうにもならない。
「佐藤」
恒一が声をかける。
「今日は、問題なかったな」
佐藤は少しだけ恒一を見る。
その言葉を聞いて、ほんの少しだけ不安になる。
朝比奈恒一が「問題なかった」と言う時、本当に問題がないとは限らない。
だが、今日は。
今日は、たぶん。
「ああ」
佐藤はうなずいた。
「今日は、よかった」
「そうか」
「本当に、よかった」
「なぜ二回言った」
「大事だからだ」
恒一は少し首を傾げたが、それ以上は聞かなかった。
夕方のグラウンドに、少し冷たい風が吹く。
文化祭が終わり、少しずつ日常が戻ってくる。
完全に元通りではない。
何もかも解決したわけでもない。
それでも、今日の陸上部は、少しだけいつもの陸上部だった。
佐藤はそれを、心から喜んだ。
そして。
鞄の中の胃薬を取り出さずに済んだことにも、ひそかに感謝した。




