第133話 恒一の評価が上がっていた話
■二年A組
昼休み。
二年A組の教室に、朝比奈恒一はいなかった。
昼休みに入ってすぐ、陸上部の用事で佐藤に呼ばれて出ていったのだ。
机の上には、弁当箱だけが残っている。
箸袋まできちんと揃えられているあたりが、いかにも恒一らしい。
三浦基樹は、その弁当箱をちらりと見てから、自分の席に座った。
「恒一、戻ってくるの遅そうだな」
「たぶんね」
一ノ瀬彩音は、向かいの席で弁当を開きながら答えた。
いつも通りの声だった。
けれど、少しだけ何かを含んでいるように聞こえた。
基樹は、その微妙な違いに気づく。
「何かあった?」
「うん」
「恒一関係?」
「うん」
「またか」
基樹は箸を持つ前から、すでに疲れた顔になった。
「まだ何も聞いてないんだけど」
「恒一関係ってだけで、だいたい疲れるんだよ」
「分かる」
彩音は笑った。
でも、いつものように完全に面白がっている笑いではない。
少し困ったような、少し考え込むような笑みだった。
基樹はその顔を見て、箸を置いた。
「で、何?」
「今日、巴と話した」
「真田さんと?」
基樹は少し驚いた。
「珍しいな」
「うん。かなり珍しい」
「何を話したんだ?」
「恒一の話」
「……あいつ、いない時に限って話題になるな」
「いると話が壊れるから、ちょうどいいよ」
「それはそう」
基樹は即答した。
恒一がいたら、たぶん本人が真顔で余計なことを言う。
そして、話が別の方向へ転がっていく。
今回は、いない方がいい。
彩音は少しだけ声を落とした。
「巴ね、思ったより落ち着いてた」
「へえ」
「少し前まで、かなりきつそうだったじゃん」
「ああ」
基樹もそれは知っていた。
恒一の様子がおかしいことは何度も聞いていたし、自分でも何度か忠告している。
巴が傷ついていることも、純也や千夜を通して耳に入っていた。
だから、落ち着いていたと聞いて少し安心した。
「よかったな」
「うん。それは本当によかった」
彩音は小さくうなずいた。
「でも、話を聞いたら、ちょっとよく分からないことになってた」
「よく分からない?」
「うん」
「恒一関係で分かりやすかったこと、一回もないけどな」
「それもそう」
彩音は苦笑したあと、少し間を置いた。
「巴の家で、恒一の評価が上がってるらしい」
「……は?」
基樹は聞き返した。
「真田さんの家で?」
「うん」
「恒一の評価が?」
「そう」
「上がってる?」
「上がってる」
基樹は少しだけ黙った。
それから、かなり本気で言った。
「え? あの恒一を?」
「その反応、本人いなくてよかったね」
「本人いても言ってたかもしれない」
「それはそれで基樹らしいけど」
「いや、だってさ」
基樹は額に手を当てた。
「今回の件って、恒一が約束を守りすぎて、真田さんと距離を取りすぎて、周りが胃を痛めて、本人だけよく分かってなかった話だろ?」
「だいたい合ってる」
「それで評価が上がるの?」
「上がるみたい」
「なんで?」
「約束を破らなかったから」
彩音の声が、少しだけ真面目になった。
「相手の名前も言わなかった。誰と何を約束したか、自分が責められても言わなかった。約束相手が不利になりそうなことも、絶対に言わなかった」
「……」
「それで、巴のお兄さんやお父さんが、あんな誠実な男はいないって」
基樹は黙った。
言っている意味は分かる。
恒一がそういう男なのも知っている。
あいつは、約束を守る。
変なところまで真面目に守る。
自分が不利になっても、相手を売るようなことはしない。
そこは確かに長所だ。
長所なのだが。
「……評価する方向、そこなんだ」
「私も思った」
「いや、間違ってはいないよ。間違ってはいないけど」
「うん」
「そこが今回の混乱の原因でもあるんじゃないのか?」
「そう」
彩音はうなずいた。
「だから、私も聞いててちょっと変な感じだった」
「だよな」
「でも、巴は嬉しそうだった」
基樹は顔を上げた。
「真田さんが?」
「うん」
「恒一が褒められて?」
「うん」
「自分のことじゃないのに?」
「そう」
彩音は、少しだけ目を細めた。
「なんていうか、自分が見ていた恒一は間違ってなかったって思えたみたい」
「……」
「約束を破らない。人を売らない。まっすぐで誠実。そういうところを家族にも認めてもらえたのが、巴は嬉しかったんだと思う」
基樹は黙った。
巴の気持ちは、正直よく分からない。
ただ、少しだけなら想像できた。
距離を取られた。
理由も分からなかった。
それで傷ついた。
でも、それが嫌われたからではなく、恒一なりの誠実さから来たものだった。
しかも家族まで、その誠実さを認めた。
なら、少し救われるのかもしれない。
そう思う。
思うのだが。
「……いや、やっぱ分からん」
「うん。分かる」
「分かるのか分からないのか、どっちなんだ」
「どっちも」
彩音は笑った。
「巴の気持ちは少し分かる。でも、この状況全体は分からない」
「だよな」
基樹は深く息を吐いた。
「俺がおかしいのかと思った」
「今回は基樹が普通」
「それ、最近よく聞く気がする」
「恒一のせいだね」
「やっぱりか」
二人は少しだけ笑った。
けれど、すぐに彩音は真面目な顔へ戻る。
「それでね」
「まだあるのか」
「巴、まだ恒一に距離を取られてるけど、もうあまり気にしないって言ってた」
基樹は固まった。
「……はい?」
「もうあまり気にしないって」
「いや、待て。あれだけ落ち込んでたのに?」
「うん」
「距離は戻ってないんだろ?」
「戻ってないと思う」
「なのに?」
「なのに」
「なんで?」
「嫌われてるわけじゃないって分かったから」
「……」
「恒一が、自分に認められたくて頑張ってるって分かったから」
「……」
「それに、恒一の誠実さが家族に評価されたから」
「……最後が本当に分からん」
基樹は頭を抱えた。
「つまり、真田さんは今も距離を取られてる。でも、嫌われてるわけじゃない。むしろ尊敬されてる。それが分かったから、一応受け止めた?」
「たぶん」
「たぶんって」
「だって、巴も全部納得してるわけじゃなさそうだったし」
「そりゃそうだろうな」
「でも、前みたいに沈んでる感じではなかった」
彩音は少しだけ嬉しそうに言った。
「そこは本当によかった」
「まあ、それはそうだな」
基樹もうなずく。
巴が少しでも楽になったなら、それ自体はいい。
間違いなく、いい。
ただ、頭が追いつかない。
恒一の評価が上がった。
巴も嬉しそうだった。
距離は戻っていない。
でも、もうあまり気にしない。
この全部が同時に成立している。
「……恋愛って、そんな複雑だったか?」
「複雑なんじゃない?」
「彩音、楽しそうだな」
「ちょっとだけ」
「笑えなくなってきたって言ってなかったか」
「言った」
「今は?」
「まだ全部は笑えない」
彩音は、恒一の空席を見る。
「でも、巴が少し落ち着いたなら、少しは笑える」
「そうか」
「うん」
基樹も恒一の席を見る。
弁当箱は相変わらず几帳面に置かれている。
本人がいないのに、妙に存在感があった。
「あいつ、これ聞いたらどうなると思う?」
「恒一?」
「ああ」
「たぶん、『巴が楽になったなら嬉しい』って言う」
「言いそう」
「そのあと、『じゃあ俺は今まで通り鍛錬を続ける』とか言いそう」
「言いそうすぎる」
基樹は顔をしかめた。
「それは止める必要あるな」
「うん」
「真田さんが気にしないって言ったからって、今まで通りでいいわけじゃない」
「そうだね」
「俺、あとで言うわ」
「お願い」
彩音は軽く手を合わせた。
「基樹の方が、恒一にはちゃんと刺さることあるから」
「刺さってるか?」
「たまに」
「たまにか」
「恒一だし」
「便利だな、それ」
「実際便利」
彩音は少し笑った。
それから、また少しだけ声を落とす。
「でも、巴、本当に嬉しそうだったよ」
「そんなに?」
「うん」
「恒一が褒められて?」
「そう」
「……」
基樹は少し考えた。
「それって、もうかなり好きなんじゃないのか」
「基樹」
「なんだ」
「たぶん、そういう話を本人たちが自覚するまでに、あの二人だとまだまだ時間かかるよ」
「長いな」
「恒一がいるから」
「納得したくないのに納得できる」
基樹は弁当を一口食べた。
味は普通だった。
でも、頭の中は全然普通ではない。
「あいつ、誠実なんだよな」
「うん」
「真面目で、約束守って、人を売らなくて」
「うん」
「そこは本当にすごい」
「うん」
「でも、同時にめちゃくちゃ面倒くさい」
「うん」
「その面倒くさいところを、真田さんはちょっと誇らしく思ってる」
「うん」
「……わけが分からん」
彩音は、少しだけ楽しそうに笑った。
「でも、それが恒一と巴なんじゃない?」
「いや、まとめるな」
「だめ?」
「だめではないけど、分かった気になりたくない」
「慎重だね」
「最近、慎重にならざるを得ない」
基樹は箸を置き、恒一の席をもう一度見た。
あの親友は、たぶん自分がいないところで評価を上げている。
しかも、今回の問題の原因にもなった誠実さによって。
それを巴が嬉しそうに語っている。
そして距離は、まだ戻っていない。
「……本当にわけ分かんねえ」
基樹が呟く。
彩音は隣で、少しだけ肩を揺らした。
「まあ、でも」
「なんだ」
「巴が少し元気になったなら、今日はそれでいいんじゃない?」
基樹はしばらく黙った。
それから、諦めたように息を吐く。
「……そうだな」
「うん」
「そこだけは、分かる」
昼休みの教室は、いつも通り騒がしかった。
恒一はまだ戻ってこない。
戻ってきたら、また何かがずれるのかもしれない。
でも今だけは、二人だけで話せた。
だからこそ、少しだけ分かったことがある。
朝比奈恒一は、面倒くさいくらい誠実で。
巴は、その面倒くささを、少しだけ誇らしく思っている。
そして基樹には、やっぱりわけが分からなかった。




