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その誠実さだけは

 真田家、反省会でした

 前日の真田家。


 千夜は、巴の部屋を出たあと、廊下で少し立ち止まった。巴は、まだ部屋にいる。


 先ほどよりは少し落ち着いていた。

 けれど、完全に元に戻ったわけではない。

 朝比奈恒一が変わらなかったこと。

 兄の約束が解かれても、距離が戻らなかったこと。そして、まだ別の約束が残っているらしいこと。巴は、何も言わないまま座っていた。


 千夜は一度だけ振り返る。

 襖は閉まっている。

 中から物音はしない。

「……」

 このまま巴のそばにいることもできた。

 だが、もう言えることはなかった。


 『大丈夫。』

 その言葉は、軽すぎる。

 すぐ戻る。

 それは保証できない。


 朝比奈が悪いわけじゃない。

 それも、今言えば慰めにしかならない。

 千夜は静かに息を吐いて、廊下を進んだ。


 リビングの方が、少し騒がしい。

 真田家にしては珍しい。

 いや、かなり珍しい。

 千夜は足を止めた。


 普段の真田家は、落ち着いている。

 祖母は穏やかで、真紀子は丁寧で、父は圧が強い。兄は少し軽く見えて、妹のことになると妙に真剣になる。


 騒がしい家、という印象はない。

 それなのに。

 今日は違った。

「……?」


 千夜は少しだけ近づく。

 そして、リビングを覗いた。


 そこには、土下座している男が二人いた。

 巴の父。

 巴の兄。

 二人とも、きっちり正座からの深い謝罪姿勢だった。背筋の伸びた真田家らしい土下座。あまり見たくない種類の完成度だった。


「……」

 千夜は無言で一歩下がった。

 見なかったことにしたかった。

 だが、もう見てしまった。


 リビングの中央では、祖母が座っている。

 いつもの優しい顔ではない。

 口元は笑っていない。

 目も笑っていない。

 ただ静かに、二人を見下ろしている。


 千夜は思った。

(祖母のあんな怖い顔、初めて見た)

 真紀子も隣にいた。

 こちらも、いつもの丁寧な微笑みはある。

 あるのだが。


 怖い。

 笑顔なのに、怖い。

 たぶん、父と兄からすれば祖母と同じくらい怖い。もしかすると、こちらの方が怖い。


「……あなたたち」

 真紀子の声は穏やかだった。

 穏やかすぎた。

「巴を何だと思っているんですか」

「……」

「……」

 父も兄も、顔を上げない。


 祖母が静かに言う。

「強い子だから、何をしても大丈夫だとでも思ったのかい」

「……いえ」

 父が低く答える。

「では、どうしてあの子をあそこまで追い込んだんだい」

「……」


 父は答えない。

 兄も答えない。

 千夜はリビングの入口で固まっていた。

 入っていいのか。

 去っていいのか。

 分からない。


 だが、その時、真紀子がこちらに気づいた。

「あら、千夜さん」

「……はい」

 逃げ場がなくなった。

 千夜は、こわごわ中に入る。

「すみません、騒がしくしてしまって」

「いえ」


 騒がしい、というより、修羅場だった。ただ、それを口に出すほど千夜も勇敢ではない。祖母が、少しだけ表情を和らげた。


「千夜ちゃん、驚かせたね」

「少し」

「少しで済むのかい」

「かなり」

「正直でよろしい」


 祖母はそう言ったが、声はまだ怖かった。

 父と兄は、まだ土下座している。

 千夜は視線を向けないようにした。

 向けると気まずい。

 とても気まずい。


「前田さん」

 兄が、床に額を近づけたまま言った。

「はい」

「……本当に、すまない」

「私に謝ることではないと思います」

「そうなんだけど」


 兄は顔を上げようとして、祖母の視線を受け、また下げた。

 判断が早かった。

 千夜は、その判断を少しだけ評価した。

 真紀子が静かに説明した。


「どうやら、この人たちは朝比奈さんにそれぞれ余計なことを言っていたようで」

「……それぞれ」

 千夜は小さく繰り返す。


 兄の件は知っていた。だが、父の件は直接聞いていない。おそらく、これが残っていた約束の一つ。

 真紀子は父を見る。


「この人は、朝比奈さんに巴へ必要以上に近づかないよう約束させたそうです」

 父の肩が、わずかに沈んだ。


 千夜は父の顔を見た。ひどいことになっていた。殴られたわけではない。たぶん、けれど、精神的に相当やられている顔だった。


 厳格な父親の威厳が、かなり薄くなっている。


「巴のためだと思った」

 父が低く言う。

 祖母がぴしゃりと言った。

「その“ため”で、あの子が泣きそうになっていたんだよ」

「……」


 父は何も言えなかった。

 真紀子の笑顔が少し深くなる。

「巴は泣きませんでした」

「……」

「泣けなかったんです」


 その言葉に、リビングの空気がさらに重くなった。千夜は少しだけ視線を落とす。

 それは、よく分かった。

 巴は泣かなかった。

 けれど、泣かないから平気なのではない。

 泣けないから、余計に苦しい。

 そこで父が、ふと顔を上げた。


「……朝比奈は」

 声は重かった。

「朝比奈は、その約束を誰かに話したのか」


 千夜は少しだけ目を上げた。

 兄も顔を上げる。

 父の顔には、罪悪感とは別のものが浮かんでいた。


 疑い、というほどではない。

 ただ、確認せずにはいられない顔だった。

 兄が、静かに首を横に振る。


「あいつは、そういうやつじゃない」

「……」

「あいつは約束を破らない」

 兄の声は、さっきよりはっきりしていた。


「それに、約束相手が不利になりそうなことも言わない」

「だが、お前は私だと思ったのだろう」

「ああ」

 兄は頷いた。


「それは俺の勘だよ」

「勘?」

「そうだ」

 兄はまっすぐ父を見た。

「朝比奈くんは言ってない。誰と約束したかなんて、絶対に言わなかった」

「……」

「俺が聞いても、信義に反しますって言った」


 真紀子が少しだけ目を伏せる。

 祖母も黙った。

 兄は続ける。


「あいつは、いつも純粋で、まっすぐに生きてる」

 父は何も言わない。

「だから今回も、こじれた」

「……」

「でも、それ自体は悪いことじゃない」

 兄は、少しだけ悔しそうに言った。


「あいつは誠実で、信用できる」

「……」

「俺は、その点は評価できると思う」

 リビングの空気が、少しだけ変わった。


 父は黙り込む。

 真紀子も、祖母も、すぐには何も言わなかった。


 その時。

 廊下の方で、小さな気配がした。

 千夜が振り向く。

 巴がいた。

 いつから聞いていたのかは分からない。

 ただ、襖の向こうから呼ばれて来る途中だったのだろう。


 巴は、廊下に立ったまま動かなかった。

 兄の言葉を、聞いていた。

 朝比奈は約束を破らない。

 約束相手が不利になりそうなことも言わない。


 いつも純粋で、まっすぐに生きている。

 誠実で、信用できる。

 その言葉が、巴の胸に落ちた。

 不思議だった。


 自分が褒められたわけではない。

 朝比奈恒一が褒められただけだ。

 それなのに。

 少しだけ、誇らしかった。

 やっぱり。

 そういう人なのだと。

 自分が見ていた朝比奈恒一は、間違っていなかったのだと。

 そう思えた。


 巴は、何も言わない。

 ただ、胸の奥が少しだけ熱くなる。

 嬉しいのか。

 誇らしいのか。

 安心したのか。

 よく分からない。

 だが、少なくとも。

 さっきまでの重さとは違った。


「巴」

 真紀子が気づいて声をかける。

 巴は小さく頷く。

「……呼ばれたから来た」

 声はいつもより少し低い。

 けれど、震えてはいなかった。


 父と兄が、同時にさらに姿勢を正した。

 千夜は思った。

(ここからが本番だ)

 そして、少しだけ後ろへ下がった。

 これは真田家の話だ。

 自分は、見守るだけでいい。

 祖母が父と兄を見る。


「続きは、巴の前で言いなさい」

「……はい」

「はい」

 父と兄の声が揃う。

 巴は静かにリビングへ入った。

 その横顔は、まだ疲れている。

 けれど、ほんの少しだけ。

 朝比奈恒一を誇らしく思っている顔でもあった。


 千夜はそれを見て、何も言わなかった。

 ただ、少しだけ目を伏せた。

 朝比奈は、やはりおかしい。

 けれど、巴がそんなふうに思える相手なのだということも、少し分かった気がした。


 その後、何が話されたのか。

 千夜は最後まで見なかった。

 想像できる。

 父と兄が謝る。

 祖母と真紀子が見ている。


 巴は最初、黙っている。

 怒るかもしれない。

 呆れるかもしれない。

 泣きはしない。

 けれど、何も感じないわけではない。

 きっと、そういう場になる。


 千夜は廊下へ出た。

 扉の向こうから、低い謝罪の声が聞こえる。


 内容までは聞かない。

 聞くべきではない。

 これは、巴と家族の話だ。

 千夜ができるのは、あとで巴が話したくなった時に聞くことだけ。


 それでいい。

 廊下に立ったまま、千夜は静かに息を吐いた。


 絡まった糸は、まだ全部ほどけていない。

 けれど。朝比奈恒一は、約束を破らなかった。


 誰かを不利にすることも言わなかった。

 そして巴は、それを自分のことのように誇らしく思った。


 それだけは、たぶんこの日の小さな救いだった。

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