親友に話した話
文化祭が終わった翌日。
昼休み。
朝比奈恒一は、教室の自席で弁当を食べていた。向かいには三浦基樹、その横には一ノ瀬彩音。
いつもの三人。
いつもの昼休み。
の、はずだった。
「恒一」
「なんだ」
基樹が、箸を置いた。その時点で、恒一は少しだけ身構えた。基樹が弁当を途中で止める時は、だいたい何かある。
「昨日、真田と話したんだろ」
「ああ」
「どうだった」
恒一は少し考える。
「話せた」
「それは知ってる」
基樹は即答した。
「中身を聞いてるんだよ」
「中身か」
「そう」
彩音も、少しだけ身を乗り出す。
いつもなら楽しそうに笑っているところだ。でも今回は、目が少し真面目だった。
「恒一、ちゃんと話した?」
「話したつもりだ」
「その言い方、ちょっと怖いね」
「そうか?」
「うん。恒一の“つもり”は、たまに事件だから」
基樹が深く頷いた。
「たまにじゃなくて、だいたい事件だ」
「失礼だな」
「事実だよ」
恒一は少しだけ首を傾げた。
自覚はない。
だが、最近それを指摘されることが増えた。
つまり、たぶん何かしらあるのだろう。
「俺は、真田に言った」
「何を」
「真田を嫌っているわけではないと」
基樹の表情が少しだけ緩んだ。
「それは言ったんだな」
「ああ」
「よかった」
彩音も小さく息を吐く。
「そこは大事だよね」
「そんなにか?」
「そんなに」
彩音は真顔で言った。
恒一は弁当の卵焼きを見つめる。
そんなに大事だったらしい。
言ってよかった。
「それから、真田を尊敬していると言った」
基樹の箸が止まった。
彩音も目を瞬かせる。
「尊敬?」
「ああ」
「真田を?」
「そうだ」
「……まあ、それ自体は悪くないな」
基樹は慎重に言った。
慎重だった。
まるで、落とし穴の前で足場を確認しているようだった。
「で?」
「俺は、真田に追いつきたい」
「追いつく?」
「真田に見られても恥ずかしくない男になりたい」
彩音が口元に手を当てた。
基樹は眉間を押さえた。
「……恒一」
「なんだ」
「お前、それ本人に言ったのか」
「ああ」
「全部?」
「全部ではない。言えないこともある」
「いや、そこじゃなくて」
基樹は苦い顔をした。
「真田、どう反応した?」
「よく分からないと言っていた」
「そりゃそうだろうな!」
基樹の声が少し大きくなった。
近くの席の生徒がちらっと見る。
彩音が小さく手を振ってごまかした。
「ごめんね、いつもの恒一案件」
「どういう案件だ」
「説明が長くなるやつ」
恒一は納得できなかったが、今は先に話を続けることにした。
「真田は、納得はしていないと言っていた」
「だろうな」
「でも、俺が嫌って距離を取っているわけではないことは、一応分かったと」
基樹はそこで、少しだけ表情を緩めた。
「……それなら、まあ、一歩前進か」
「前進なのか」
「少なくとも、後退だけではない」
「そうか」
恒一は少し安心した。
後退だけではない。
それは、今の自分にはかなりありがたい評価だった。
彩音は頬杖をつきながら、静かに聞いている。
「それで、恒一はどうするの?」
「どうする?」
「真田さんと、これから」
恒一は少し黙った。
それは、まだ整理できていない。
兄との約束はなくなった。
けれど、父との約束がある。
祖父の言葉もある。
約束を守る。
誠実でいる。
強くなる。
それは変えられない。
「今は、このままでいたいと伝えた」
基樹が再び眉間を押さえた。
「言ったのか」
「言った」
「お前なぁ……」
「何かまずかったか?」
「まずいというか、まあ……」
基樹は言葉を探す。
彩音が代わりに言った。
「恒一、それって真田さんからしたら、嫌ってないのは分かったけど距離はこのままです、ってことだよね」
「そうなる」
「嬉しいけど、つらいやつだね」
「つらい?」
「うん」
彩音は静かに頷く。
「嫌われてないのは安心する。でも、距離は戻らない。理由も全部は分からない。だから安心と不安が一緒に来る」
「……」
恒一は黙った。
そういうふうに考えていなかった。
自分としては、言えることを言ったつもりだった。
嫌っていない。
尊敬している。
認められたい。
約束を果たしたい。
それで、少しは伝わると思っていた。
だが、確かに。
距離は変えないと言った。
それは、真田からすればどうなのだろう。
「難しいな」
「難しいよ」
彩音は少し笑った。
けれど、いつものように面白がる笑いではない。
少しだけ困ったような笑いだった。
基樹が水筒のお茶を飲む。
それから、ゆっくり言った。
「でも、ちゃんと話したのは良かったと思う」
「そうか」
「ああ。前よりはいい」
「前より」
「前のお前は、理由も言わずに距離取ってたからな」
「……」
「今は、理由の一部は言った」
「一部だけだが」
「それでもだよ」
基樹は少しだけ肩をすくめた。
「ただし」
「ただし?」
「お前、まだ全然解決してないからな」
「……そうなのか」
「そうだよ」
基樹は即答した。
「真田が理解したのは、“嫌われてない”ってところだけだろ」
「ああ」
「お前が距離を取り続ける理由は、たぶんまだ納得してない」
「納得していないと言っていた」
「ほらな」
「だが、一応理解したとも言っていた」
「その“一応”を大事にしろ」
「一応を?」
「そうだよ。真田がかなり譲ってくれてるって意味だ」
恒一は、そこで少しだけ目を伏せた。譲ってくれている。その発想はなかった。
真田は、納得できないままでも聞いてくれた。怒ってもいいところで、最後まで話を聞いてくれた。
それは、もしかすると、かなり、ありがたいことなのかもしれない。
「……そうか」
「そうだ」
「真田は、すごいな」
「そこに戻るのか」
基樹は少し疲れた顔になった。
彩音は小さく笑った。
「でも、そこが恒一だよね」
「褒めてるのか?」
「半分」
「半分か」
「うん。残り半分は、真田さん大変そうだなって思ってる」
「……」
恒一は黙った。
最近、その言葉をよく聞く。
真田が大変そう。
佐藤も大変そう。
周りも困っている。
原因は自分にあるらしい。
らしい、ではなく。
あるのだろう。
「基樹」
「なんだ」
「俺は、真田を苦しめたいわけではない」
「知ってる」
基樹は即答した。
「そこは疑ってない」
「そうか」
「お前が悪意でやってないのは分かる」
「……」
「でも、悪意がないから傷つかないわけじゃない」
恒一は何も言えなかった。
基樹は続ける。
「昨日ちゃんと話したなら、次はちゃんと見ろ」
「見る?」
「ああ」
「真田の表情とか、反応とか」
彩音も言う。
「あと、自分の正しさだけで判断しないこと」
「自分の正しさ」
「恒一、たぶん今、“約束を守る自分”が正しいって思ってるでしょ」
「思っている」
「素直」
「隠すことではない」
「そういうところなんだけどね」
彩音は苦笑する。
「でも、真田さんが何を感じるかは、恒一の正しさとは別だよ」
「……」
「そこを見ないと、また同じことになる」
恒一は弁当箱を閉じた。
少しだけ、食欲が落ちた。
「俺は、真田に認められたい」
「ああ」
「だから、誠実でいたい」
「うん」
「約束を守りたい」
「分かる」
基樹はうなずく。
「でもな、恒一」
「なんだ」
「誠実って、約束を守ることだけじゃないと思うぞ」
恒一は顔を上げた。
「約束を守ることだけではない?」
「そう」
基樹は少し考えながら言う。
「相手にちゃんと向き合うことも、誠実なんじゃないか」
「……」
「言えないことがあるなら、言えないって伝える。そこまではいい。でも、相手が傷ついてるなら、それを見ないふりしない」
「……」
「それも誠実だろ」
恒一は黙った。
その言葉は、すぐには飲み込めなかった。
けれど、耳に残った。
相手に向き合うことも、誠実。
約束を守るだけではない。
「難しいな」
「だから恋愛なんだろ」
基樹が言った。
「俺も偉そうに言えるほど分かってるわけじゃないけどな」
「基樹は彩音と付き合っているだろ」
「付き合ってたら全部分かるわけじゃねえよ」
彩音が横からにこっと笑う。
「基樹もけっこう分かってないよ」
「そこで刺すなよ」
「だって事実だし」
「今は恒一の話だろ」
「そうだった」
少しだけ、空気が軽くなる。
恒一も、小さく息を吐いた。
完全に楽になったわけではない。
だが、話してよかったとは思った。
「ありがとう」
恒一が言う。
基樹は少しだけ目を丸くする。
「急だな」
「話を聞いてくれた」
「まあ、親友だからな」
基樹は照れ隠しのように言った。
彩音がにやっと笑う。
「今の、ちょっといい感じだったね」
「茶化すな」
「茶化してないよ。半分」
「半分多いな」
恒一は少しだけ笑った。
それから、真面目な顔に戻る。
「俺は、もう少し考える」
「ああ」
「真田と、ちゃんと向き合うことも」
「そうしろ」
「ただ、約束は破れない」
「そこは分かってる」
基樹は少しだけ苦笑した。
「でも、約束を守りながらできることもあるはずだ」
「あるだろうか」
「探せ」
「分かった」
恒一は頷いた。
「探す」
彩音が静かに言う。
「恒一」
「なんだ」
「たぶん、それを一人で考えるとまた変な方向に行くから、途中で相談してね」
「……そうする」
「よろしい」
昼休みの終わりを知らせる予鈴が鳴った。
教室の空気が少しずつ動き出す。
基樹は弁当箱をしまいながら、恒一を見る。
「部活、行くんだろ」
「ああ」
「真田と会うな」
「会う」
「変な距離の取り方するなよ」
「努力する」
「出たよ」
基樹は頭を抱えた。
彩音が笑う。
今度は、少しだけいつもの笑いだった。
「まあ、でも前よりはマシかな」
「そうか?」
「うん。話せるようになっただけ、ちょっと前進」
恒一は立ち上がる。
鞄を手に取り、教室の出口へ向かう。
その背中を、基樹と彩音が見送った。
「……大丈夫かな?」
彩音が小さく言う。
基樹は苦笑する。
「大丈夫じゃないだろ」
「だよね」
「でも、前よりはマシだ」
「そこは同感」
彩音は机に頬杖をつく。
「巴、よく聞いたね」
「ああ」
「すごいね」
「本当にな」
基樹は、少しだけ真面目な顔で言った。
「恒一、ちゃんと気づけるといいけどな」
彩音は答えなかった。ただ、教室を出ていった恒一の背中が消えた方を見ていた。
朝比奈恒一は、ようやく少しだけ話した。
けれど、まだ分かってはいない。
それでも、何も言わなかった頃よりは、少しだけ前に進んでいる。
ほんの少しだけ。




