久しぶりに笑った話
文化祭が終わった日の夜、真田家。
前田千夜は、巴の部屋に来ていた。
呼ばれた、というより。
文化祭のあと、巴から短くメッセージが来た。
『少し話したい』
それだけだった。
千夜は、すぐに向かった。
巴の部屋は、いつもより少し静かだった。
けれど、重くはなかった。
少なくとも、前に来た時のような、息の詰まる静けさではない。
「千夜」
巴が座布団の上に座ったまま、顔を上げる。
「うん」
千夜は向かいに座った。
巴は少しだけ迷うように視線を落として、それから口を開いた。
「朝比奈と話した」
「うん」
「文化祭のあとに」
「うん」
「……分からなかった」
巴はそう言った。
けれど、声は沈んでいなかった。
千夜はそれを聞いて、少しだけ目を細める。
「分からなかったんだ」
「ああ」
「でも、悪い感じではなさそう」
「……そう見えるか」
「うん」
巴は少しだけ黙った。
それから、ぽつりと言う。
「嫌われてはいなかった」
その言葉は、とても小さかった。
けれど、巴にとっては大きなことなのだと、千夜には分かった。
「そう」
「ああ」
「よかったね」
「……ああ」
巴は短く答える。
その横顔が、少しだけ緩んでいた。
ここ最近ずっと硬かった表情が、ほんの少しだけ戻っている。
千夜は、それを見逃さなかった。
「何を話したの」
「朝比奈は、私を尊敬していると言った」
「うん」
「私に追いつきたいらしい」
「うん」
「だから、今はこのままでいさせてほしいと」
「……うん」
「約束を果たせば、私に少しは認められる男になれると思っているらしい」
千夜は黙った。
思った。
やはり朝比奈はおかしい。
かなりおかしい。
尊敬。
誠実。
約束。
認められる男。
言葉だけなら綺麗だ。
けれど、それを理由に距離を取り続けるのは、やはりおかしい。
しかも本人は真面目だ。
悪気がない。
だから余計に厄介だった。
「千夜」
「なに?」
「どう思う」
千夜は一瞬だけ迷った。
本当は言いたいことがあった。
そんな男と付き合うと、苦労するよ。
たぶん。
いや、確実に。
朝比奈恒一は悪い人ではない。
むしろ、いい人だ。
ただ、真面目すぎる。
まっすぐすぎる。
そのくせ、肝心なところで人の感情に鈍い。
約束を守ることと、人を安心させることがぶつかった時、どちらを選ぶべきか分からなくなる。そんな人と近くにいるのは、きっと大変だ。
千夜は、そこまで思った。
でも、言わなかった。
今の巴に必要なのは、それではない。
今の巴は、ようやく少し安心したところだった。
だから千夜は、静かに言った。
「よかったね」
「……うん」
巴の表情が、少しだけ緩む。
「よかった」
「うん」
「まだ納得はしていない」
「うん」
「朝比奈の考えは、正直よく分からない」
「分かる」
「でも」
巴はそこで少し言葉を切った。
「嫌われていないなら、少しはいい」
「うん」
「それに、私に認められたいと言った」
「うん」
「……変なやつだな」
「かなり」
「そこは否定しないのか」
「しない」
千夜がそう言うと、巴は少しだけ目を丸くした。
それから、ふっと笑った。
小さな笑みだった。
声に出して笑ったわけではない。
けれど、確かに笑った。
千夜は、その表情を見て少しだけ安心する。
久しぶりだった。
本当に、久しぶりに見た巴の笑顔だった。
「千夜」
「なに」
「ありがとう」
「私は何もしてない」
「またそれか」
「本当に聞いただけ」
「聞いてくれた」
「うん」
「それが助かった」
巴は素直にそう言った。
千夜は少しだけ黙る。
どう返せばいいか、一瞬迷った。
「どういたしまして」
結局、短くそう言う。
巴はまた少し笑った。
「お前はいつもそれだな」
「どれ」
「何も言わないようで、いてくれる」
「そう?」
「そうだ」
千夜は返事をしなかった。
巴は続ける。
「たぶん、私一人だったらもっと変になっていた」
「もう少し変だったかもね」
「今も変か」
「少し」
「少しならいい」
「うん」
二人の間に、静かな空気が流れる。
それは、重くなかった。
久しぶりに、重くない沈黙だった。
「巴」
「なんだ」
「まだ、すぐ全部は戻らないと思う」
「分かっている」
「朝比奈は、まだおかしい」
「それも分かっている」
「たぶん、これからも苦労する」
「……そうだな」
巴は少しだけ息を吐く。
けれど、その顔は沈んでいなかった。
「でも、嫌われていないなら」
「うん」
「まだ、いい」
「うん」
「それに」
巴は少し言いにくそうにした。
「私に認められたいなら、勝手に私の基準を決めるなと言った」
「言えたんだ」
「ああ」
「それはよかった」
「朝比奈は、覚えておくと言った」
「覚えるだけ?」
「考えろと言った」
「うん」
「たぶん、と言った」
「朝比奈だね」
「朝比奈だ」
巴がまた笑った。
今度は、さっきより少しだけ分かりやすかった。
千夜は、その顔を見ながら、静かに息を吐く。
よかった。
本当に、そう思った。
千夜は、巴が強いことを知っている。
見た目も。
立ち姿も。
走る姿も。
剣道の時も。
真田巴は、誰が見ても強い。
目立つ。
揺るがないように見える。
だから、周囲はつい勘違いする。
巴なら大丈夫だと。
巴なら耐えられると。
巴なら傷つかないと。
でも、千夜は知っている。
巴は、見た目ほど強くない。
むしろ、内側にはかなり弱々しいところがある。
不安になれば、言葉にできなくなる。
傷つけば、怒りに変えてしまう。
寂しさを認めるのが下手で、泣きそうになっても泣けない。
強く見えるからこそ、弱さを誰にも見せられない。そういう女の子だ。
だから今は、余計なことを言わなくていい。
こんな男と付き合うと苦労する。
それは、いずれ言うかもしれない。
でも今ではない。
今は、ただ。
「巴」
「なんだ」
「よかったね」
千夜は、もう一度そう言った。
巴は、少しだけ黙った。
それから。
「ああ」
とても小さく、でも嬉しそうに答えた。
その時の巴は、たしかに笑っていた。
久しぶりの笑顔だった。
たぶん、本人は自覚していない。
でも、千夜には分かった。
だから千夜も、ただ微笑んだ。
「また何かあったら、聞く」
「また何かある前提か」
「朝比奈だから」
「……否定できないな」
「うん」
「じゃあ、その時は頼む」
「うん」
「ありがとう、千夜」
「どういたしまして」
しばらくして、千夜は真田家を出た。
夜の空は、もう暗い。
けれど、来た時より少しだけ空気が軽く感じた。
真田巴は、久しぶりに笑った。
それだけで、今日は十分だった。




