表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
127/129

恒一の告白

 文化祭が終わったあとの校舎は、少しだけ静かだった。


 昼間の騒がしさが嘘みたいに引いている。

 廊下には、まだ片付け途中の看板や段ボールが残っていて、教室のあちこちから部員たちの笑い声が聞こえる。


 陸上部の模擬店も、無事に終わった。

 売上は悪くない。

 むしろ、かなり良かった。

 佐藤は珍しく、本気で喜んでいた。

 部員たちも疲れた顔をしながら笑っていた。


 文化祭としては、成功だった。ただ、真田巴は、最後まであまり笑わなかった。片付けを終えたあと、恒一は校舎裏に続く渡り廊下のあたりで足を止めた。


 人気は少ない。少し離れた場所から、グラウンドが見える。


 夕方の光が、校舎の壁を薄く赤く染めていた。


「真田」

 恒一が声をかける。

 少し遅れて、巴が立ち止まった。

「なんだ」

 声はいつも通りだった。

 短くて、まっすぐで、少しだけ硬い。

 けれど、恒一には分かった。


 たぶん、怒っている。

 いや、怒っているだけではない。

 最近の真田巴は、ずっと何かを抱えている。

 それを、恒一はようやく少しだけ理解し始めていた。


「少し、話がある」

「……ああ」

 巴は短く答える。

 恒一は、一度息を吸った。


 兄に言われた。

 直接、話してほしいと。

 全部は言えなくてもいい。

 自分が何を大事にしているのか。

 なぜ距離を取っているのか。

 それだけでも、巴に伝えてほしいと。


 恒一は、巴を見た。

 目を逸らさずに。

「俺は、真田を嫌っているわけじゃない」

 巴の眉が、わずかに動いた。

「……それは、知っている」

「いや」

 恒一は首を横に振る。


「ちゃんと言った方がいいと思った」

「……」

「俺は、真田を嫌っていない」


 巴は何も言わない。

 ただ、恒一を見ている。

 その視線は強い。

 いつもなら、恒一は少し安心する。

 真田巴らしい、まっすぐな目だからだ。

 けれど今日は、その奥に少しだけ不安が見えた気がした。


「最近、俺は真田と距離を取っていた」

「ああ」

「それで、真田を困らせたなら、すまない」

 恒一は頭を下げた。

 巴は少しだけ目を伏せる。


「困った」

「……」

「かなり」

 短い言葉だった。

 でも、恒一には刺さった。


「そうか」

「ああ」

「すまない」

「謝ってほしいわけじゃない」

 巴は少しだけ声を低くする。


「理由が知りたかった」

「……全部は言えない」

 巴の表情が固くなる。

 恒一は続けた。


「ただ、言えることはある」

「言えること?」

「ああ」


 恒一は、自分の手を見た。文化祭の片付けで、指先に少し紙の跡がついている。


 手は、まだ強くない。祖父に見られた時も言われた。


 芯が弱い。

 体も、心も。

 だから。


「俺は、真田を尊敬している」

 巴が黙った。

「強いところを」

「……」

「まっすぐなところを」

「……」

「自分が決めたことに、逃げないところを」

 巴は、少しだけ視線を逸らした。


「そんな大層なものじゃない」

「俺には、そう見える」

 恒一は言った。

「真田は、強い」

「……」

「だから、俺も追いつきたいと思った」

「追いつく?」

「ああ」

 恒一はうなずく。


「真田に見られても恥ずかしくない男になりたい」

 巴の喉が、少しだけ動いた。

「……それで、距離を取るのか」

「今のまま近くにいると、俺は甘えると思った」

「甘える?」

「うまく言えない」


 恒一は少しだけ眉を寄せる。

 言葉を探す。

 だが、こういうことは得意ではない。


「真田の近くにいることに満足して、強くなることを忘れるかもしれない」

「……」

「真田は、強い男が好きだと聞いた」

 巴の目が細くなる。


「誰に」

「……それは言えない」

「またか」

「すまない」


 巴は短く息を吐いた。

 怒りというより、疲れに近い息だった。

「続けろ」

「ああ」

 恒一は静かに続ける。


「俺は、約束をした」

「知っている」

「その約束を守ることで、少しは誠実な人間になれると思っている」

「……」

「まっすぐで、ちゃんとしていて、約束を破らない人間に」


「それが、私に追いつくことなのか」

「分からない」

「分からないのか」

「正直、分からない」

 恒一は、まっすぐに言った。

「でも、俺はそうしたい」

 巴は黙った。


 恒一の言葉は、分かるようで分からない。

 いや。

 少しだけ分かる。

 恒一が真面目すぎること。

 何かを守ろうとしていること。

 自分に認められたいと思っているらしいこと。

 それは分かる。


 けれど、それで距離を取られる側の気持ちは、たぶん分かっていない。


 恒一は、さらに言う。

「俺は、真田に嫌われたくない」

「……」

「だからこそ、今はこのままでいさせてほしい」

 巴の指が、少しだけ動いた。


「このまま、とは」

「必要以上に近づかない」

「……」

「でも、避けているわけじゃない」

「それが分かりにくいんだ」

「そうだと思う」

「思うなら」

 巴は言いかけて、止めた。


 言いたいことはある。

 たくさんある。

 必要以上に近づかない。

 避けているわけじゃない。

 それは、受け取る側からすれば、かなり似ている。

 いや、ほとんど同じだ。

 だが恒一は、それを違うものとして考えている。

 たぶん、本気で。


「……朝比奈」

「なんだ」

「お前は、私に認められたいのか」

「認められたい」

 即答だった。

 巴は少しだけ目を見開いた。


 恒一は続ける。

「真田に、少しでも見てもらえる男になりたい」

「……」

「今はまだ、足りないと思っている」

「何が」

「強さも、誠実さも、覚悟も」

「そんなもの」


 巴は思わず言いかける。

 そんなもの、もう。

 そう言いそうになって、止めた。

 もう何だ。

 もう認めている?

 もう見ている?

 そこまで言うには、自分の中もまだぐちゃぐちゃだった。

 だから、言えなかった。


 恒一は、その沈黙を別の意味に受け取ったらしい。

「だから、今は努力したい」

「……」

「この約束が果たされれば」

 恒一は静かに言う。

「きっと、真田に少しは認められる男になれると思う」


 巴は、しばらく何も言わなかった。

 風が吹く。

 文化祭の飾りが、廊下の端で小さく揺れる。

 遠くから、片付けをする生徒の声が聞こえる。


 巴は恒一を見る。

 怒りたい。

 何を勝手に決めているんだ、と言いたい。

 認めるとか認めないとか、誰がそんな話をした、と言いたい。

 距離を取られると普通に傷つく、と言いたい。


 だが、恒一の顔はあまりにも真面目だった。


 本当に、真っ直ぐだった。

 逃げているようには見えない。

 むしろ、真正面から間違えている。

 以前、そう思った。

 今も同じだった。


「……よく分からない」

 巴は、ようやく言った。

 恒一は静かにうなずく。


「そうだと思う」

「お前の言っていることは、半分くらい分かる」

「ああ」

「私を嫌っていないことも、分かった」

「ああ」

「尊敬していると言われたことも……まあ、分かった」

 巴は少しだけ言いにくそうにした。


「でも、だから距離を取るというのは、よく分からない」

「……」

「ただ」

 巴は、恒一を見る。

「お前が、ふざけているわけじゃないことは分かった」

「ふざけてはいない」

「だろうな」

 巴は小さく息を吐く。


「そこだけは、最初から分かっていた」

「そうか」

「ああ」


 また少し沈黙が落ちる。

 巴は、視線を横へ向けた。

 夕方の光が、グラウンドの端を赤く染めている。


「朝比奈」

「なんだ」

「私は、まだ納得していない」

「分かった」

「理解も、たぶん全部はしていない」

「ああ」

「でも」

 巴は、少しだけ声を落とした。


「お前が私を嫌って距離を取っているわけじゃないことは、一応分かった」

 恒一は、ほんの少しだけ表情を緩めた。

「それだけでも、話してよかった」

「……」


 巴は少しだけ顔を逸らす。

 その顔は、怒っているようにも見えた。

 照れているようにも見えた。

 たぶん、本人にもよく分かっていない。


「ただし」

 巴はすぐに表情を戻す。

「今後もその距離を続けるなら、私はまた怒るかもしれない」

「分かった」

「分かったのか?」

「怒られる可能性は理解した」

「そこか」

「違うのか」

「違う」


 巴は、ほんの少しだけ目を細めた。

 だが、さっきよりは少しだけ空気が軽かった。

 軽いと言っても、本当に少しだけだ。

 それでも、ずっと暗かった胸の奥に、ほんの少しだけ風が入った気がした。


「……もういい」

「いいのか」

「今日はいい」

「分かった」

「あと」

「なんだ」


 巴は少し迷ってから、言った。

「私に認められたいなら」

「ああ」

「勝手に私の基準を決めるな」

 恒一は目を瞬いた。


「基準?」

「そうだ」

 巴はまっすぐ恒一を見る。

「私が何を認めるかは、私が決める」

「……」

「お前が勝手に決めるな」

 恒一は、少しだけ黙った。


 そして、真剣な顔でうなずく。

「覚えておく」

「覚えるだけじゃなくて、考えろ」

「分かった」

「本当にか」

「たぶん」

「そこは断言しろ」

「努力する」

「……またそれか」

 巴は少しだけ呆れたように息を吐いた。


 けれど、さっきまでのような、沈んだ息ではなかった。


 恒一は頭を下げた。

「話を聞いてくれて、ありがとう」

「礼を言われることじゃない」

「それでも」

「……そうか」


 巴はそれ以上言わなかった。

 二人は少しだけ離れたまま、同じ夕方のグラウンドを見た。


 距離は、まだ戻っていない。

 誤解も、全部は解けていない。

 恒一はまだ、頑ななままだ。

 巴も、納得したわけではない。


 それでも、嫌われているわけではない。 避けられているだけではない。そのことだけは、ようやく巴の手元に届いた。


「……分かりにくいんだよ」

 巴が小さく呟く。

 恒一が聞き返す。


「何か言ったか」

「何も」

「そうか」

 恒一はうなずいた。


 巴は、少しだけ口元を動かした。

 笑った、というには小さい。

 でも、完全な無表情でもなかった。


 文化祭の終わり。ようやく届いた言葉は、分かりにくくて、回りくどくて、まだ足りなかった。


 それでも、巴は一応、理解した。朝比奈恒一は、自分を嫌っているわけではない。


 ただ、まっすぐすぎるだけだった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ