恒一の告白
文化祭が終わったあとの校舎は、少しだけ静かだった。
昼間の騒がしさが嘘みたいに引いている。
廊下には、まだ片付け途中の看板や段ボールが残っていて、教室のあちこちから部員たちの笑い声が聞こえる。
陸上部の模擬店も、無事に終わった。
売上は悪くない。
むしろ、かなり良かった。
佐藤は珍しく、本気で喜んでいた。
部員たちも疲れた顔をしながら笑っていた。
文化祭としては、成功だった。ただ、真田巴は、最後まであまり笑わなかった。片付けを終えたあと、恒一は校舎裏に続く渡り廊下のあたりで足を止めた。
人気は少ない。少し離れた場所から、グラウンドが見える。
夕方の光が、校舎の壁を薄く赤く染めていた。
「真田」
恒一が声をかける。
少し遅れて、巴が立ち止まった。
「なんだ」
声はいつも通りだった。
短くて、まっすぐで、少しだけ硬い。
けれど、恒一には分かった。
たぶん、怒っている。
いや、怒っているだけではない。
最近の真田巴は、ずっと何かを抱えている。
それを、恒一はようやく少しだけ理解し始めていた。
「少し、話がある」
「……ああ」
巴は短く答える。
恒一は、一度息を吸った。
兄に言われた。
直接、話してほしいと。
全部は言えなくてもいい。
自分が何を大事にしているのか。
なぜ距離を取っているのか。
それだけでも、巴に伝えてほしいと。
恒一は、巴を見た。
目を逸らさずに。
「俺は、真田を嫌っているわけじゃない」
巴の眉が、わずかに動いた。
「……それは、知っている」
「いや」
恒一は首を横に振る。
「ちゃんと言った方がいいと思った」
「……」
「俺は、真田を嫌っていない」
巴は何も言わない。
ただ、恒一を見ている。
その視線は強い。
いつもなら、恒一は少し安心する。
真田巴らしい、まっすぐな目だからだ。
けれど今日は、その奥に少しだけ不安が見えた気がした。
「最近、俺は真田と距離を取っていた」
「ああ」
「それで、真田を困らせたなら、すまない」
恒一は頭を下げた。
巴は少しだけ目を伏せる。
「困った」
「……」
「かなり」
短い言葉だった。
でも、恒一には刺さった。
「そうか」
「ああ」
「すまない」
「謝ってほしいわけじゃない」
巴は少しだけ声を低くする。
「理由が知りたかった」
「……全部は言えない」
巴の表情が固くなる。
恒一は続けた。
「ただ、言えることはある」
「言えること?」
「ああ」
恒一は、自分の手を見た。文化祭の片付けで、指先に少し紙の跡がついている。
手は、まだ強くない。祖父に見られた時も言われた。
芯が弱い。
体も、心も。
だから。
「俺は、真田を尊敬している」
巴が黙った。
「強いところを」
「……」
「まっすぐなところを」
「……」
「自分が決めたことに、逃げないところを」
巴は、少しだけ視線を逸らした。
「そんな大層なものじゃない」
「俺には、そう見える」
恒一は言った。
「真田は、強い」
「……」
「だから、俺も追いつきたいと思った」
「追いつく?」
「ああ」
恒一はうなずく。
「真田に見られても恥ずかしくない男になりたい」
巴の喉が、少しだけ動いた。
「……それで、距離を取るのか」
「今のまま近くにいると、俺は甘えると思った」
「甘える?」
「うまく言えない」
恒一は少しだけ眉を寄せる。
言葉を探す。
だが、こういうことは得意ではない。
「真田の近くにいることに満足して、強くなることを忘れるかもしれない」
「……」
「真田は、強い男が好きだと聞いた」
巴の目が細くなる。
「誰に」
「……それは言えない」
「またか」
「すまない」
巴は短く息を吐いた。
怒りというより、疲れに近い息だった。
「続けろ」
「ああ」
恒一は静かに続ける。
「俺は、約束をした」
「知っている」
「その約束を守ることで、少しは誠実な人間になれると思っている」
「……」
「まっすぐで、ちゃんとしていて、約束を破らない人間に」
「それが、私に追いつくことなのか」
「分からない」
「分からないのか」
「正直、分からない」
恒一は、まっすぐに言った。
「でも、俺はそうしたい」
巴は黙った。
恒一の言葉は、分かるようで分からない。
いや。
少しだけ分かる。
恒一が真面目すぎること。
何かを守ろうとしていること。
自分に認められたいと思っているらしいこと。
それは分かる。
けれど、それで距離を取られる側の気持ちは、たぶん分かっていない。
恒一は、さらに言う。
「俺は、真田に嫌われたくない」
「……」
「だからこそ、今はこのままでいさせてほしい」
巴の指が、少しだけ動いた。
「このまま、とは」
「必要以上に近づかない」
「……」
「でも、避けているわけじゃない」
「それが分かりにくいんだ」
「そうだと思う」
「思うなら」
巴は言いかけて、止めた。
言いたいことはある。
たくさんある。
必要以上に近づかない。
避けているわけじゃない。
それは、受け取る側からすれば、かなり似ている。
いや、ほとんど同じだ。
だが恒一は、それを違うものとして考えている。
たぶん、本気で。
「……朝比奈」
「なんだ」
「お前は、私に認められたいのか」
「認められたい」
即答だった。
巴は少しだけ目を見開いた。
恒一は続ける。
「真田に、少しでも見てもらえる男になりたい」
「……」
「今はまだ、足りないと思っている」
「何が」
「強さも、誠実さも、覚悟も」
「そんなもの」
巴は思わず言いかける。
そんなもの、もう。
そう言いそうになって、止めた。
もう何だ。
もう認めている?
もう見ている?
そこまで言うには、自分の中もまだぐちゃぐちゃだった。
だから、言えなかった。
恒一は、その沈黙を別の意味に受け取ったらしい。
「だから、今は努力したい」
「……」
「この約束が果たされれば」
恒一は静かに言う。
「きっと、真田に少しは認められる男になれると思う」
巴は、しばらく何も言わなかった。
風が吹く。
文化祭の飾りが、廊下の端で小さく揺れる。
遠くから、片付けをする生徒の声が聞こえる。
巴は恒一を見る。
怒りたい。
何を勝手に決めているんだ、と言いたい。
認めるとか認めないとか、誰がそんな話をした、と言いたい。
距離を取られると普通に傷つく、と言いたい。
だが、恒一の顔はあまりにも真面目だった。
本当に、真っ直ぐだった。
逃げているようには見えない。
むしろ、真正面から間違えている。
以前、そう思った。
今も同じだった。
「……よく分からない」
巴は、ようやく言った。
恒一は静かにうなずく。
「そうだと思う」
「お前の言っていることは、半分くらい分かる」
「ああ」
「私を嫌っていないことも、分かった」
「ああ」
「尊敬していると言われたことも……まあ、分かった」
巴は少しだけ言いにくそうにした。
「でも、だから距離を取るというのは、よく分からない」
「……」
「ただ」
巴は、恒一を見る。
「お前が、ふざけているわけじゃないことは分かった」
「ふざけてはいない」
「だろうな」
巴は小さく息を吐く。
「そこだけは、最初から分かっていた」
「そうか」
「ああ」
また少し沈黙が落ちる。
巴は、視線を横へ向けた。
夕方の光が、グラウンドの端を赤く染めている。
「朝比奈」
「なんだ」
「私は、まだ納得していない」
「分かった」
「理解も、たぶん全部はしていない」
「ああ」
「でも」
巴は、少しだけ声を落とした。
「お前が私を嫌って距離を取っているわけじゃないことは、一応分かった」
恒一は、ほんの少しだけ表情を緩めた。
「それだけでも、話してよかった」
「……」
巴は少しだけ顔を逸らす。
その顔は、怒っているようにも見えた。
照れているようにも見えた。
たぶん、本人にもよく分かっていない。
「ただし」
巴はすぐに表情を戻す。
「今後もその距離を続けるなら、私はまた怒るかもしれない」
「分かった」
「分かったのか?」
「怒られる可能性は理解した」
「そこか」
「違うのか」
「違う」
巴は、ほんの少しだけ目を細めた。
だが、さっきよりは少しだけ空気が軽かった。
軽いと言っても、本当に少しだけだ。
それでも、ずっと暗かった胸の奥に、ほんの少しだけ風が入った気がした。
「……もういい」
「いいのか」
「今日はいい」
「分かった」
「あと」
「なんだ」
巴は少し迷ってから、言った。
「私に認められたいなら」
「ああ」
「勝手に私の基準を決めるな」
恒一は目を瞬いた。
「基準?」
「そうだ」
巴はまっすぐ恒一を見る。
「私が何を認めるかは、私が決める」
「……」
「お前が勝手に決めるな」
恒一は、少しだけ黙った。
そして、真剣な顔でうなずく。
「覚えておく」
「覚えるだけじゃなくて、考えろ」
「分かった」
「本当にか」
「たぶん」
「そこは断言しろ」
「努力する」
「……またそれか」
巴は少しだけ呆れたように息を吐いた。
けれど、さっきまでのような、沈んだ息ではなかった。
恒一は頭を下げた。
「話を聞いてくれて、ありがとう」
「礼を言われることじゃない」
「それでも」
「……そうか」
巴はそれ以上言わなかった。
二人は少しだけ離れたまま、同じ夕方のグラウンドを見た。
距離は、まだ戻っていない。
誤解も、全部は解けていない。
恒一はまだ、頑ななままだ。
巴も、納得したわけではない。
それでも、嫌われているわけではない。 避けられているだけではない。そのことだけは、ようやく巴の手元に届いた。
「……分かりにくいんだよ」
巴が小さく呟く。
恒一が聞き返す。
「何か言ったか」
「何も」
「そうか」
恒一はうなずいた。
巴は、少しだけ口元を動かした。
笑った、というには小さい。
でも、完全な無表情でもなかった。
文化祭の終わり。ようやく届いた言葉は、分かりにくくて、回りくどくて、まだ足りなかった。
それでも、巴は一応、理解した。朝比奈恒一は、自分を嫌っているわけではない。
ただ、まっすぐすぎるだけだった。




