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最後の約束

 翌日。

 朝比奈恒一は、真田家を訪れていた。

 呼び出された、というより。

 謝罪したい、と言われた。

 相手は、真田巴の父と祖父。

 本来なら、自宅に来てもらう形でもよかったのかもしれない。


 だが、恒一は真田家を選んだ。

 理由は単純だった。

 約束を交わした場所に近い方が、筋が通ると思ったからだ。


「失礼します」

 門をくぐると、真紀子が出迎えた。

「朝比奈さん。来てくださってありがとうございます」

「いえ」

 真紀子はいつも通り丁寧だった。

 ただ、いつもより少しだけ表情が硬い。

 恒一は案内されるまま、奥の和室へ通された。


 そこには、すでに何人かが座っていた。

 巴の父。

 巴の兄。

 巴の祖母。

 真紀子。

 そして、少し離れた上座に祖父。

 巴はいない。

 そのことに、恒一は少しだけ安心した。


 これは自分と、彼らの話だ。

 巴本人を巻き込む場ではない。

 恒一は静かに正座した。

 向かいには父と兄。

 空気は重い。


 まるで裁判のようだった。

 恒一は一瞬だけ、そう思った。

 もちろん、口には出さない。

 出したらたぶん、裁判が本格化する。


「朝比奈」

 まず、巴の父が口を開いた。

「はい」

「先日は、私が余計なことを言った」

 父の声は低かった。

 いつもの圧はある。

 けれど今日は、その中に明確な反省が混じっていた。


「巴へ必要以上に近づくなと、君に約束させた」

「はい」

「巴のためだと思っていた」

「……」

「だが、結果として巴を苦しめた」

 父は深く頭を下げた。

「すまなかった」

 続いて、兄も頭を下げる。


「俺もだ」

「お兄さん」

「距離を取れと言った。言わないでくれとも約束させた」

「はい」

「君が真面目に守る人間だと分かっていながら、軽く考えた」

 兄の声には、悔しさが混じっていた。

「本当に、すまなかった」


 和室は静まり返る。

 祖母は二人を見ている。

 真紀子も口を挟まない。

 祖父も黙っている。

 恒一は、父と兄を見た。

 どちらにも悪意がなかったことは分かっている。


 巴を守りたいと思ったのだろう。

 自分が信用されていなかったのかもしれない。それも分かる、自分は、まだ何者でもない。ただの高校生だ。ならば、家族が警戒するのは当然だ。

 恒一は静かに頭を下げた。


「謝罪は受け入れます」

 父と兄が顔を上げる。

「俺は、もう気にしていません」

「……朝比奈」

「お二人が真田を大切に思っていたことは、分かっています」

 恒一はまっすぐに言った。


「だから、怒っていません」

 兄が苦しそうな顔をした。

 父も黙っている。

 恒一は続けた。


「ただ、俺が真田を困らせていたなら、それは俺の責任でもあります」

 真紀子が少しだけ目を伏せた。

 祖母は、静かに恒一を見ている。


「約束を守ることばかり考えて、真田がどう感じるかを十分に考えられていませんでした」

「……」

「そこは、俺も反省しています」


 父が、もう一度頭を下げた。

「それでも、原因を作ったのは私だ」

 兄も続く。

「俺もだ」

 恒一は首を横に振る。


「謝罪は受け取りました」

 その言葉で、ひとまず話は終わった。

 だが、部屋の空気はまだ完全には軽くならない。


 祖母が、静かに言った。

「朝比奈さん」

「はい」

「今日は来てくれてありがとうね」

「いえ」


「この件は、私たち家族の問題でもある。巴には、こちらからもちゃんと話す」

「分かりました」

 真紀子も頭を下げた。


「朝比奈さんに、余計な負担をかけました」

「そんなことはありません」

「あります」

 真紀子は、やわらかく、しかしはっきりと言った。


「だから、今日は本当にすみませんでした」

 恒一は少しだけ言葉に詰まる。

 それから、深く頭を下げた。


「分かりました」

 和室での謝罪は、それで終わった。

 父と兄は、まだ苦い顔をしていた。

 祖母と真紀子は、少しだけ表情を緩めた。

 そして、祖父だけが静かに立ち上がる。


「朝比奈」

「はい」

「少し、道場へ来い」

 恒一はすぐに姿勢を正した。

「はい」


 ■真田道場


 道場は静かだった。

 夕方の光が、床の上に細長く伸びている。

 和室の重い空気とは違う。

 ここには、稽古の匂いがある。

 木の匂い。

 畳の匂い。

 竹刀の乾いた気配。


 祖父は道場の中央まで歩き、そこで振り返った。

「座れ」

「はい」


 二人だけだった。

 父も兄もいない。

 祖母も真紀子もいない。

 もちろん、巴もいない。

 恒一は祖父の前に正座する。

 祖父はしばらく黙って恒一を見ていた。


「……お主」

「はい」

「まだ、わしとの約束を守るつもりか」

 恒一は迷わなかった。

「はい」


 祖父の眉が、わずかに動く。

「父親と兄は、謝った」

「はい」

「距離を取れという約束も、取り消された」

「はい」

「それでもか」

「はい」


 恒一は、まっすぐに答えた。

「師匠に言われたことは、俺にとって大事なことです」

「……」

「恋に夢中になっているうちは強くなれない」


 祖父は黙っている。

「真田は強い男が好きだ」

「……」

「近づきたいなら焦るな。浮つくな。見られる前に、見るに足る男になれ」

 恒一は、一言ずつ確かめるように言った。

「俺は、その言葉を守りたいです」


 祖父は、深く息を吐いた。

「わしは、今日それを取り消すつもりだった」

「取り消す?」

「ああ」

 祖父は苦い顔をした。

「先日の二人の処分を見たからな」


 父と兄のことだ。

 土下座させられたらしい、と恒一もなんとなく聞いている。

 詳しくは聞いていない。

 聞かない方がいいとも思っている。


「わしも余計なことを言った。お主を縛った。そう自白するつもりでいた」

「……」

「だが」


 祖父は恒一を見る。

「お主の顔を見て、言いづらくなった」

「なぜですか」

「お主が、本気だからだ」

 恒一は黙る。

 祖父の声は、いつもより少し弱かった。


「今の時代に、お主のような若者がいるとは思わなかった」

「……」

「約束を守る。言われたことを胸に刻む。己を鍛えようとする」

 祖父は目を細める。


「男として、見上げた心がけだ」

「ありがとうございます」

「だが」

 祖父はそこで言葉を切った。


「それは同時に、危うい」

 恒一は少しだけ首を傾げた。

「危うい、ですか」

「ああ」

「俺は、約束を守りたいだけです」

「そこが危ういのだ」

 祖父は静かに言った。


「約束は守るべきものだ。だが、約束に縛られて人を傷つけることもある」

「……」

「お主は今、それをしているかもしれん」

 恒一は、少しだけ目を伏せた。


「真田を、傷つけたかもしれないことは分かっています」

「なら、なぜ続ける」

「それでも、俺は誠実でありたいのです」

 恒一は祖父を見た。


「どんな約束でも、簡単に反故にはしたくありません」


「……」


「師匠に言われたことを、誰にも話しません」


「……」


「このまま、俺が強くなるまで指導してください」


 恒一は畳に両手をつき、深く頭を下げた。

「お願いします」

 祖父は答えない。


 恒一はそのまま続ける。

「俺は、真田に認められる男になりたいです」

「……」

「そのために、今まで通り距離を取ります」

 祖父の目が細くなる。


「それで巴が苦しんでもか」

 恒一の指が、少しだけ動いた。

「苦しませたくはありません」

「だが、苦しむかもしれん」

「……」

「それでもか」

 恒一は、すぐには答えられなかった。


 だが、やがて静かに言う。

「俺は、真田なら分かってくれると信じています」

 祖父は目を閉じた。

「……そうか」

「はい」


「お主は、そういうところがある」

「そういうところ?」

「強い相手を、強いままに見すぎる」

 恒一は黙った。

 祖父は続ける。


「巴は強い。たしかに強い」

「はい」

「だが、強いからといって、傷つかんわけではない」

「……」

「そこを忘れるな」

 恒一は深く頭を下げる。


「覚えておきます」

「覚えるだけでは足りん」

「考えます」

「……」

 祖父は、少しだけ苦笑した。


「お主、巴に何か言われたな」

「はい」

「勝手に基準を決めるな、とでも言われたか」

 恒一は目を見開く。

「なぜ分かるのですか」


「巴なら言いそうだ」

 祖父は小さく息を吐いた。

 少しだけ、いつもの調子に戻った。

 だが、その顔はすぐにまた重くなる。


「朝比奈」

「はい」

「わしは、お主の覚悟を否定しきれん」

「……」


「約束を守る若者を、軽く扱うことはできん」

「ありがとうございます」

「だが、巴の祖父としては、複雑だ」

「……」

「わしの言葉が、あの子を苦しめているかもしれんからな」


 道場に沈黙が落ちる。

 夕方の光が、少しずつ薄くなっていた。

「できるだけ、守ろう」

 祖父が言った。

 その声は、弱々しかった。


「師匠」

「できるだけだ」

「はい」

「お主を鍛える。約束も、今は反故にはせん」

「ありがとうございます」


「ただし」

 祖父は、恒一を見る。

「巴の顔を見ろ」

「……」

「距離を取るなら、なおさら見ろ」

「……はい」

「お主が誠実であろうとするなら、約束だけを見るな」

「……」


「人を見ろ」

 恒一は、ゆっくり頭を下げた。

「分かりました」

 祖父は、少しだけ疲れたように息を吐いた。


「今日はここまでだ」

「ありがとうございました」

 恒一は立ち上がる。

 道場の出口へ向かう前に、もう一度振り返った。


「師匠」

「なんだ」

「俺は、約束を守ります」

「……」


「でも、真田の顔も見ます」

「そうしろ」

「はい」


 恒一は深く一礼し、道場を出た。

 祖父は一人、道場に残った。

 しばらく、何も言わなかった。

 やがて、小さく呟く。


「……折れんか」

 その声には、感心と後悔が混じっていた。

 今の時代に、あれほど約束を重んじる若者がいる。それは、確かに立派だ。


 けれど、立派なものが、いつも人を救うとは限らない。

 祖父は、道場の床を見つめた。


「わしも、教え方を間違えたかもしれんな」

 その声は、誰にも届かなかった。


 そして、最後の約束は、まだ終わらなかった。

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