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それでも変わらなかった話

 夕方、校門前。


 朝比奈恒一は、前田千夜からの連絡を受けて、正門の近くで待っていた。


 部活前の時間。校内には、まだ生徒の声が残っている。

 運動部の掛け声。

 吹奏楽部の音。

 廊下を走る足音。

 いつもの放課後だった。

 ただ、恒一の前に現れた人物は、いつもの放課後には少し不似合いだった。


「朝比奈くん」

 真田巴の兄だった。

 以前、真田家で会った青年。

 柔らかい顔立ちをしている。

 けれど、あの時は目だけが妙に鋭かった。


 今日は違う、鋭いというより、苦しそうだった。


「こんにちは」

 恒一が頭を下げる。

 兄も深く頭を下げた。


「急に呼び出して悪かった」

「いえ」

 恒一は姿勢を正す。

「話があると聞きました」

「ああ」

 兄は少しだけ息を吸った。

 それから、まっすぐ恒一を見る。


「この前、俺が君に言ったことを覚えてるか」

「はい」

 恒一は迷わず答えた。

「巴と距離を取ること」

「それと」

「その話を真田には言わないこと」

「……うん」

 兄は苦笑した。

 苦笑というより、自分に呆れている顔だった。


「君は、本当に守ってくれたんだな」

「約束しましたから」

 恒一は普通に言った。

 当たり前のことのように。

 その言葉を聞いて、兄の表情がさらに歪んだ。


「そうだよな」

「はい」

「君は、そういう人なんだろうな」

 兄は一度、視線を落とした。

 校門の影が、足元に長く伸びている。


「朝比奈くん」

「はい」

「すまなかった」

 兄は深く頭を下げた。

 恒一は少し目を見開く。

「え」

「俺が間違っていた」

「……」


「巴のためだと思って、君に距離を取れと言った。変に期待させるな、とも言った」

「はい」

「でも、それで巴を苦しめた」

 兄の声は低かった。

 軽くない。

 逃げてもいない。


「俺は、妹のためだと思っていた」

「……」

「でも実際には、妹を傷つけていた」

 恒一は黙って聞いていた。

 兄はもう一度頭を下げる。


「だから、あの約束は取り消す」

「取り消す」

「巴と距離を取れ、という約束だ」

「……」

「もう、守らなくていい」


 恒一は少しだけ眉を寄せた。

 兄は続ける。

「巴にこの話を言うな、というのも、俺の身勝手だった」

「……」

「本当にすまない」


 風が吹いた。

 校門前の木の葉が揺れる。

 恒一はしばらく何も言わなかった。

 それから、静かに頭を下げた。

「分かりました」

「朝比奈くん」

「謝罪を受け入れます」

 兄は少しだけ目を伏せた。


「ありがとう」

「いえ」

「それと」

「はい」

「巴に対して、以前のように接してくれると助かる」

 恒一は、すぐには答えなかった。

 兄はその沈黙に少し不安を覚える。


「……朝比奈くん?」

「努力します」

 恒一は言った。

 真面目な顔で。

 兄は、その言葉にかすかな違和感を覚えた。


 以前のように接する。

 それは、普通なら「分かりました」で済む話のはずだった。

 だが、恒一は「努力します」と言った。

 まるで、それが簡単ではないことのように。


「無理にとは言わない」

「いえ」

 恒一は首を横に振る。

「真田を傷つけたなら、俺も反省すべきです」

「……」

「でも、俺は約束を守っただけではなく」


「必要だと思って、距離を取っていました」

 兄は息を呑んだ。


「必要?」

「はい」

 恒一の目は、真っ直ぐだった。

 そこに悪意はない。

 迷いもある。

 けれど、芯の部分は妙に固い。


「強くなるために」

「……」

「真田に見られるに足る男になるために」


 兄は、そこで気づいた。

 自分の約束だけではない。

 何か、別の言葉も恒一の中に刺さっている。しかも、深く。


「朝比奈くん」

「はい」

「他にも、誰かに何か言われたのか」

 恒一は少しだけ目を伏せた。

「……言えません」

 兄は顔を歪めた。

 まただ。

 また、約束がある。


「そうか」

「すみません」

「いや」

 兄は拳を握る。

 自分の謝罪だけでは足りない。

 そう理解した。

「とにかく、俺の分の約束はもう守らなくていい」

「分かりました」

「本当に、すまなかった」

「はい」


 恒一はうなずいた。

 その表情は穏やかだった。

 許している。

 受け入れている。

 だが。

 変わるとは限らない。

 兄は、それを不安に思いながら、もう一度頭を下げた。


 同じ頃。

 真田家。

 巴は、自室で座っていた。

 向かいには、前田千夜がいる。

 千夜はいつも通り、静かだった。

「兄さんが?」

「ええ」


 巴は少しだけ身を乗り出していた。

 千夜は淡々と伝える。

「朝比奈に会いに行った」

「何をしに」

「謝りに」

「……」

 巴は止まった。

「兄さんが?」

「うん」

「朝比奈に?」

「うん」

「なぜ?」

「自分が朝比奈に、巴と距離を取るように言ったから」


 巴の目が少しだけ見開かれた。

 分かっていたような気もする。

 だが、実際に聞くと、やはり胸がざわついた。


「……やっぱり、兄さんか」

「そうみたい」

「他にも心当たりはある」

「うん」


 千夜は否定しない。

 巴も、そこは分かっていた。

 父。

 祖父。

 兄。

 思い当たる顔は、一人ではない。

 ただ、兄が動いた。

 それは大きかった。


「兄さんは、何と言っていた」

「自分の約束は取り消す、と」

「……」

「朝比奈はもう以前のように戻るはずだから、安心してほしい、と」


 巴は黙った。

 安心。

 その言葉が、胸の奥に落ちる。

 完全に信じたわけではない。

 でも、少しだけ呼吸が楽になった。


「……そうか」

「うん」

「朝比奈は」

「まだ分からない」


 千夜は静かに言う。

「兄さんは謝る。でも、朝比奈がすぐ戻れるかは分からない」

「なぜ」

「朝比奈だから」

 巴は少しだけ眉を寄せた。

 それは、説明になっているようで、説明になっていない。

 だが、なぜか納得もできた。


「……そうだな」

 巴は小さく息を吐く。

「朝比奈だからな」

 千夜は少しだけ頷く。

 巴は膝の上に置いた手を見た。

 力が入っていた。

 少しずつ、緩める。


「千夜」

「なに?」

「ありがとう」

 千夜は少しだけ目を上げた。


「私は何もしてない」

「してる」

「話を聞いただけ」

「それが助かる」

 巴は、珍しく素直に言った。

 千夜は少しだけ黙る。

 それから、短く言う。


「どういたしまして」

 巴はふっと息を吐いた。

 久しぶりに、ほんの少しだけ表情が柔らかくなった。

「……戻るのか」

「分からない」

「でも、少しは戻るかもしれない」

「うん」

「なら」


 巴は窓の外を見る。

 夕暮れの色が、部屋の中に入っている。

「少しは、安心してもいいか」

「いいと思う」

 千夜はそう言った。

 巴は小さくうなずく。


 不安はまだある。

 だが、喜びもあった。

 朝比奈が、以前のようになるかもしれない。また、普通に話せるかもしれない。

 それだけで、胸の奥の重さが少しだけ軽くなった。


 翌日。

 放課後、グラウンド。


 巴は、いつもより少しだけ早く来ていた。

 部員たちが集まり始める。

 佐藤が記録用紙を持って歩いている。

 白石ひよりが一年生と話している。

 そして。

 朝比奈恒一が来た。


「……」

 巴は、少しだけ息を整える。

 昨日、兄が謝った。

 約束は取り消された。

 だから、今日こそ。


「朝比奈」

 巴が声をかける。

 恒一が振り向く。

「真田」

 いつもの声。

 真面目な顔。

 巴は少しだけ近づいた。


 恒一は。

 半歩、下がった。

「……」

 巴の表情が固まる。

 佐藤の胃が鳴いた。

 たぶん幻聴だったが、佐藤には聞こえた気がした。


「朝比奈」

「なんだ」

「今、下がったな」

「下がった」

「なぜ」

 恒一は少し黙る。

「必要だから」


 巴の目が、静かに細くなる。

「兄さんから聞いていないのか」

「聞いた」

「なら」

「真田の兄との約束は、もう守らなくていいと聞いた」

「……」

「それは分かっている」

「なら、なぜ」


 恒一は、まっすぐ巴を見る。

 目は合った。

 けれど、距離は戻らない。

「まだ、他にある」

「他?」

「言えない」


 巴は息を止めた。

 佐藤は空を見上げた。

 遠くで一年生が、「佐藤先輩?」と声をかける。佐藤は返事をしなかった。

 恒一は続ける。


「俺は、約束を破る男にはなりたくない」

「……」

「人は、誠実であるべきだと思う」


 巴は何も言えなかった。

 恒一の声は、あまりにも真っ直ぐだった。

「どんな約束でも」

「……」

「誰とした約束でも」

「……」

「守らなければならない」

 その言葉は、純粋だった。

 ただ、純粋すぎた。

 巴は、その純粋さに言葉を失った。

 怒りより先に、戸惑いが来た。


 どうして、そこまで。

 そう思うのに。

 分からないわけではなかった。

 恒一は、そういう人間だ。

 真っ直ぐで。

 鈍くて。

 誠実で。

 その誠実さで、人を傷つける。


「朝比奈」

 巴の声が、少しだけ震えた。

「それは、誰のためだ」

 恒一は答えられなかった。


 答えはある。

 たぶん、巴のため。

 自分のため。

 強くなるため。

 誠実でいるため。

 約束を守るため。

 全部が混ざっている。

「……分からない」

 恒一は、正直に言った。


 巴は目を伏せる。

 昨日、少しだけ軽くなった胸が、また重くなる。

「そうか」

 短く言って、巴は背を向けた。

「練習に入る」

「ああ」

 恒一はうなずく。


 その距離は、昨日と変わらなかった。

 いや、巴からすれば、少しも戻っていなかった。

 練習が始まる。

 巴の動きは鋭い。ただ、昨日より少しだけ静かだった。苛立ちを外に出すというより、内側へ沈めている。


 佐藤は、それに気づいて胃を押さえた。

「佐藤先輩、大丈夫ですか」

 一年生が聞く。

「大丈夫じゃない」

「え」

「いや、大丈夫だ」

「どっちですか」


「副部長としては大丈夫だ」

「個人としては?」

「聞くな」


 佐藤は遠くを見る。

 朝比奈は変わらなかった。

 兄の約束は解除された。

 それでも変わらなかった。

 なぜなら、まだ二つ残っている。

 佐藤は、その二つの正体までは知らない。

 だが、朝比奈の頑なさだけは見えていた。

 真田巴のまっすぐさ。

 強さ、誠実さ。

 それに憧れたからこそ、恒一は自分の中に妙な理想を作ってしまったのだろう。

 約束を破る男は、男らしくない。

 誠実でない人間は、巴に好かれない。

 ちゃんとしていなければ、巴に見てもらえない。


 だから、守る。

 どんな約束でも。

 誰と交わしたものでも。

 絶対に守る。

 ただ純粋に。

 その純粋さが、今は一番厄介だった。


 練習後。

 巴は一人でタオルを握っていた。

 千夜から聞いた時は、少しだけ嬉しかった。

 兄が謝った。

 朝比奈は戻るかもしれない。

 そう思った。

 なのに。

 戻らなかった。


「……まだ、あるのか」

 小さく呟く。

 父か。

 祖父か。

 それとも、別の誰かか。

 たぶん、心当たりはある。

 ありすぎる。

 巴は空を見上げる。

 夕方の空は、薄く赤い。

 綺麗なのに、少し腹立たしい。


「……真面目すぎるんだよ」

 誰にも聞こえない声で言う。

 その言葉には、怒りだけではなかった。

 呆れ。

 寂しさ。

 少しの諦め。

 そして。

 それでも嫌いになれない、面倒な気持ち。

 全部が混ざっていた。


 朝比奈恒一は、変わらなかった。

 兄の謝罪を受け入れても。

 約束の一つが消えても。

 まだ、変わらなかった。

 巴はタオルを握る手に、少しだけ力を込める。


 分かったことがある。

 朝比奈は逃げているのではない。

 むしろ、真正面から、間違えている。


「……最悪だな」

 巴は小さく呟いた。

 けれど、その声は、少しだけ笑っていた。

 笑わなければ、たぶん。

 もっと腹が立ってしまうからだった。

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