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兄はようやく気づいた

 夕方、真田家。


 真田巴の兄は、廊下の端で足を止めた。

 奥の部屋から、竹刀を置く音が聞こえる。

 いつもなら、もっときびきびしている音だった。


 だが今日は、少しだけ鈍い。

 気になって、そっと道場の方を見る。

 巴がいた、稽古着のまま、壁際に座っている。


 汗はかいている。

 呼吸も乱れている。

 けれど、いつものような鋭さがない。

 強い。

 速い。

 隙がない。

 それは変わらない。

 ただ、何かが沈んでいる。


「……巴?」

 声をかけると、巴は顔を上げた。

「兄さん」

「今日はもう終わりか?」

「ああ」

「珍しいな。いつもなら、もう一本やるって言うのに」

「……そういう日もある」

 短い返事。


 それだけで、兄は違和感を覚えた。

 巴は感情を隠すのがうまい方ではない。

 怒っている時は怒っている。

 楽しい時は、本人が思っているより楽しそうにしている。


 だが、今の顔は違った。

 怒っているというより。

 落ち込んでいる。

 兄は少しだけ眉をひそめた。


「何かあったのか?」

「別に」

「巴」

「何もない」

 巴は立ち上がる。


 竹刀を持ち、兄の横を通り過ぎようとした。

 その時、兄は気づいた。

 目が合わなかった。

 巴が、目を合わせずに通り過ぎた。


「……」

 胸の奥に、嫌なものが落ちる。

 妹がこうなる時は、たいてい何かを抱えている。

 しかも、誰にも言わない時だ。

 兄はその場に立ったまま、しばらく考えた。


 思い当たることは、ある。

 朝比奈恒一。

 部長。

 副部長。

 距離を取るように言った約束。

 あの時は、妹のためだと思っていた。

 朝比奈が近づきすぎて、巴を振り回すくらいなら。

 少し距離を取らせた方がいい。

 そう思った。

 思っていた。


「……まさか」

 兄はスマホを取り出した。

 連絡先を開く。

 前田千夜。

 巴がよく相談している相手だ。

 妹のことを聞くなら、たぶん彼女が一番早い。


 少し迷ってから、電話をかけた。

 数コールの後、千夜が出る。

『はい』

「前田さん? 急に悪い。真田です。巴の兄です」

『はい』

「巴のことで、少し聞きたい」

『……巴のことですか』

「ああ。最近、落ち込んでいるように見える。何か知ってる?」


 電話の向こうで、少しだけ間があった。

 千夜はすぐには答えなかった。

 その沈黙で、兄はさらに不安になった。

「……何かあるんだな」

『あります』

 短い返事。

 兄の喉が少し詰まる。


「朝比奈くんのことか?」

『はい』

「やっぱりか」

 兄は額に手を当てた。

「もしかして、朝比奈くんが巴と距離を取ってる?」

『はい』

「……」


 嫌な予感が、形になっていく。

「それで、巴が落ち込んでる?」

『はい』

 千夜の声は静かだった。

 責めているわけではない。

 ただ、事実を告げている。

 それが逆に、きつかった。


「……俺のせいか」

 兄は呟いた。

『どういうことですか』

「俺が言ったんだ」

 言葉が、少し重くなる。

「朝比奈くんに。巴と少し距離を取ってくれって」

『……』

「変に期待させるのはやめてほしいって。部長と副部長として、適度な距離を取って欲しいって」

『そうですか』

「それと、この話は巴には言わないでほしいって約束させた」


 電話の向こうで、千夜が小さく息を吐いた気がした。

 兄は壁に背を預ける。

 力が抜けた。


「……俺のせいだ」

『巴は、理由が分からなくて困っています』

「だよな」

『怒っているだけじゃありません』

「……分かる」

『たぶん、かなり傷ついています』

 その言葉は、まっすぐ刺さった。


 兄は目を閉じた。

 妹のためだった。

 そう思っていた。

 巴が振り回されないように。

 巴が傷つかないように。

 兄として、少しだけ先回りしたつもりだった。

 だが。

 結果として、妹を苦しめている。


「最悪だな、俺」

『……』

「妹のためとか言って、妹を苦しめてる」


 千夜は何も言わない。

 慰めない。

 責めもしない。

 ただ、聞いている。

 その沈黙が、ありがたかった。


「前田さん」

『はい』

「今日の夕方、朝比奈くんに会いたい」

『朝比奈に?』

「ああ。すぐ謝る。俺が言ったことは間違いだったって伝える」

『……』


「正門前で会えるようにしてもらえないか。部活前でも後でもいい。時間は合わせる」

『分かりました』

 千夜は静かに答えた。

『連絡してみます』

「助かる」

 兄は深く息を吐く。


「それと、もう一つ頼みたい」

『はい』

「巴に伝えてほしい」

『何をですか』

「朝比奈くんは、もう以前の通りに戻る。少なくとも、俺が距離を取れと言った分は取り消す」

『……』

「だから、安心しろって」


 自分で言っていて、情けなくなった。

 自分が不安にさせたのに。

 自分が傷つけたのに。

 今さら安心しろ、などと。

 都合が良すぎる。

 それでも、言わずにはいられなかった。


「もちろん、俺からも巴に謝る」

『巴に直接言うんですか』

「ああ。だけど、先に前田さんから言ってもらえたら助かる。今の巴は、俺の話を素直に聞かないかもしれない」

『たぶん、聞かないですね』

「そこははっきり言うんだな」

『事実なので』

 兄は少しだけ苦笑した。

 初めて、ほんの少し息が楽になる。


「そうだな。事実だ」

『伝えます』

「ありがとう」

『ただ』

「うん?」


『朝比奈がすぐ以前の通りに戻れるかは、分かりません』

 兄は黙った。

『朝比奈は、かなり真面目に距離を取っているみたいなので』

「……だろうな」

『約束を守るタイプです』

「分かってる。だから余計に、俺が言わないとだめだ」

『はい』

「今日、必ず会う」

『では、正門前で調整します』

「頼む」


 電話を切ったあと、兄はしばらくスマホを握ったまま動けなかった。

 道場の方から、巴の足音はもう聞こえない。

 静かだった。

 静かすぎた。

「……何やってるんだ、俺は」

 呟く。

 妹のため。

 その言葉は便利だ。

 けれど、間違えれば、ただの押しつけになる。


 朝比奈恒一は、真面目だった。

 約束を守った。

 だからこそ、こうなった。

 悪いのは。

「俺だな」


 兄はスマホをポケットにしまう。

 そのまま玄関へ向かった。

 夕方の空は、少し赤い。

 正門前へ行くには、まだ間に合う。

 間に合わせなければならない。

 その途中で、もう一度だけ千夜からメッセージが届いた。


『朝比奈に連絡します。巴にも伝えます』

 兄はすぐに返信した。

『ありがとう。本当に助かる』

 送信してから、少しだけ目を伏せる。

 感謝して済む話ではない。


 けれど、今できることは。

 謝ること。

 取り消すこと。

 それから、妹にもう一度ちゃんと向き合うこと。


「……待ってろよ、朝比奈くん」

 兄は小さく呟いた。

 責めるためではない。

 謝るために。

 そして、自分のせいでこじれた距離を、少しでも元に戻すために。

 兄は、正門へ向かった。

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