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見ていられなかった話

 真田家、夕方。


 巴の部屋は、静かだった。

 静かすぎた。

 前田千夜は、向かいに座ったまま、何も言えずにいた。

「……」


 巴は、ずっと黙っている。

 座布団の上に座り、片膝を立てるように足を組み、ただ前を見ていた。

 視線はまっすぐ。

 姿勢も崩れていない。

 いつもの巴なら、それは強さに見える。


 けれど、今は違った。

 強く見せようとしているだけに見えた。

「巴」

 千夜が静かに呼ぶ。

 返事はない。

 聞こえていないわけではない。


 ただ、返す言葉がないのだと分かる。

 巴の目は、わずかに潤んでいた。

 泣いてはいない。

 涙が落ちているわけでもない。

 でも、目の奥に水が溜まっている。

 それが、千夜には分かった。


 千夜は巴が怒っているところを何度も見ている。

 不機嫌なところも。

 苛立っているところも。

 納得できずに黙り込むところも。

 けれど、こんな巴は初めてだった。


 弱々しい。

 その言葉は、巴には似合わない。

 似合わないはずなのに。

 今の巴には、それしか当てはまらなかった。


「……朝比奈、変わらなかったんだね」

 千夜が言う。

 巴は、少しだけ目を伏せた。

 それだけだった。

 返事はない。


「兄さんの約束は、取り消された」

「……」

「でも、まだ他にある」

「……」

「父親と、祖父かな」

 巴の指が、膝の上でわずかに動いた。

 それが答えだった。


 千夜は小さく息を吐く。

 もう、何を言っても慰めにしかならない。

 大丈夫。

 そんな言葉は軽すぎる。

 きっと戻る。

 そんな保証はない。

 朝比奈が悪いわけじゃない。

 それは巴も分かっている。

 でも、分かっているからこそ苦しい。

 千夜には、それも分かった。


 だから、何も言えなかった。

 ただ聞くことはできる。

 そばにいることもできる。

 けれど、今の巴は、聞いてほしいのではない。答えがほしいのだ。


 なのに、その答えは千夜の手元にはなかった。


「巴」

 もう一度呼ぶ。

 巴は、ゆっくりと口を開いた。

「……戻ると思った」

 声は小さかった。

 いつもの張りがない。


「兄さんが謝ったなら」

「うん」

「少しは、戻ると思った」

「うん」

「でも、変わらなかった」

「うん」

「……まだ、私に近づかない」

 そこまで言って、巴はまた黙った。


 千夜は、胸の奥が少し重くなるのを感じた。

 巴は怒っている。

 けれど、それ以上に傷ついている。

 そして、自分でそれをどう扱えばいいのか分かっていない。


「朝比奈は、たぶん真面目に間違えてる」

 千夜が言う。

 巴は小さく頷いた。

「知ってる」

「悪気はない」

「知ってる」

「だから余計に厄介」

「……知ってる」

 その声が、少しだけ震えた。


 千夜は、それ以上言えなかった。

 慰めにしかならない。

 もう、ここで巴に言葉を重ねても、巴の中の重さは軽くならない。

 千夜は静かに立ち上がった。

 巴は動かない。


「少し、席を外す」

「……」

「すぐ戻る」

 巴は返事をしなかった。

 ただ、前を見ていた。

 千夜は襖を開け、部屋を出る。

 廊下に出た瞬間、胸の中に溜まっていた息を、静かに吐いた。


 見ていられなかった。

 千夜は、感情を大きく出す方ではない。

 誰かを無理に動かすこともしない。

 巴にも、どうしろとは言わない。


 けれど、あのまま座っている巴を、ただ見ていることだけはできなかった。

 千夜は廊下を歩き、巴の兄の部屋へ向かった。

 軽く戸を叩く。


「はい」

 中から声がした。

「前田です」

「え?」

 少し慌てたような気配がして、戸が開く。

 巴の兄が、驚いた顔で立っていた。

「前田さん? どうしたの」

「巴のことで」

 その一言で、兄の表情が変わった。

「……何かあった?」

「朝比奈、変わらなかった」

「……」


 兄は息を止めた。

 それから、ゆっくり目を伏せる。

「そうか」

「巴は、かなり落ち込んでる」

「……巴が?」

「うん」

「どれくらい」

 千夜は少しだけ言葉を選ぶ。


「泣いてはいない」

「うん」

「でも、目に涙が溜まってる」

 兄の顔から、血の気が少し引いた。

「巴が?」

「うん」

「……あいつが」


 兄は後ろへ一歩下がり、机に手をついた。

 巴の兄は、しばらく何も言えなかった。

 妹が泣くところなど、ほとんど見たことがない。


 怒る。

 拗ねる。

 不機嫌になる。

 負けて悔しがる。

 そういう姿なら知っている。

 でも、涙をこらえて黙るような巴は、知らなかった。


「俺が昨日、朝比奈くんに謝った」

「聞いた」

「距離を取れって言った約束は取り消した」

「それも聞いた」

「なのに、変わらなかったのか」

「うん」

 兄は額に手を当てる。


 しばらくして、何かを思い出したように顔を上げた。

「……そういえば」

「なに」

「朝比奈くん、俺に言ったんだ」

「何を」

「謝罪は受け入れるって」

「うん」

「でも、以前のように戻ってくれって言った時は」

 兄は、苦い顔をした。


「努力します、としか言わなかった」


 千夜は黙った。

 その言葉の意味を、少し考える。

「分かりました、じゃなかったんだ」

「ああ」

「努力します」

「ああ」

 兄は拳を握る。


「その時、少し引っかかったんだ。でも、俺は自分の謝罪で頭がいっぱいで」

「うん」

「ちゃんと聞かなかった」

「他にも約束があるって、朝比奈は言ってた?」

「言ってた。誰かに何か言われたのかと聞いたら、言えませんって」

「やっぱり」

 千夜は小さく息を吐いた。


 父。

 祖父。

 たぶん、そのどちらか。

 あるいは両方。

「俺だけじゃなかったんだな」

 兄が呟く。

「巴もそう思ってる」

「……」

「心当たりが多すぎるって」


 兄は目を閉じた。自分のせいだけではない。だが、それで楽になるわけではなかった。


 自分にも責任がある。そして、自分が最初に気づいて止めなければいけなかった。


「前田さん」

「はい」

「俺にも責任がある」

 兄はまっすぐ言った。

「俺が朝比奈くんにあんな約束をさせなければ、ここまで変にはならなかったかもしれない」

「……」

「だから、原因を探す」

 千夜は兄を見る。


「原因?」

「残ってる約束のことだ」

 兄は真剣だった。

「父さんか、祖父さんか。たぶん、そのあたりだと思う」

「うん」


「俺が聞く」

「聞ける?」

「聞くしかない」

 兄は短く答えた。

「巴に、これ以上あんな顔をさせたくない」

 その言葉に、千夜は少しだけ目を伏せる。

 千夜は、人を動かす役ではない。

 けれど、今の兄は自分で動くと言っている。

 なら、止める理由はなかった。


「分かった」

「前田さん」

「私は巴のところに戻る」

「頼む」

 兄は頭を下げた。

「巴に、何か言った方がいいかな」

「今は、無理に安心させなくていいと思う」

「……そうか」


「たぶん、安心すると、また落ちるのが怖い」

 兄は顔を歪めた。

「そうだよな」

「でも」

 千夜は少しだけ言葉を足す。

「お兄さんが原因を探すってことは、伝えてもいいと思う」

「頼む」

「うん」

「本当に、ありがとう」

 兄は深く頭を下げる。


「感謝して済む話じゃないけど」

「うん」

「それでも、ありがとう」

 千夜は短く頷いた。

「戻る」

「ああ」

 千夜は兄の部屋を出た。

 廊下は静かだった。

 巴の部屋へ戻るまでの数歩が、少し長く感じる。襖の前で一度だけ息を整え、静かに開けた。


 巴は、まだ同じ姿勢で座っていた。

 足を組み、前を見たまま。

 目は、まだ少し潤んでいる。


「戻った」

「……」

 巴は小さく頷いた。

 千夜は向かいに座る。

「お兄さんと話した」

 巴の指が少し動く。

「兄さんが?」

「うん」

「何を」

「朝比奈が、努力します、としか言ってなかったことを思い出したって」


「……」

「他に約束があるかもしれないって」

 巴は、ほんの少しだけ目を伏せた。

「やっぱり」

「うん」

「父か、祖父か」

「たぶん」

「……」

 巴は黙る。


 千夜は続けた。

「お兄さんが、原因を探すって」

「兄さんが?」

「うん」

「……そうか」

 巴の声は、まだ弱い。

 でも、さっきよりほんの少しだけ、呼吸が戻った気がした。


「千夜」

「なに」

「私は、何をしてるんだろうな?」


「分からない」

「そうか」

「でも、巴だけが悪いわけじゃない」

「……」

「朝比奈だけが悪いわけでもないと思う」

「……」

「ただ、今は色々絡まってる」

 巴は小さく息を吐く。


「ほどけると思うか」

「分からない」

「お前は本当に、分からないって言うな」

「分からないから」

 千夜は淡々と答えた。


 巴は、ほんの少しだけ口元を動かした。

 笑った、とは言いきれない。

 でも、少しだけ表情が戻った。


「でも」

 千夜は静かに続ける。

「ほどこうとしている人はいる」

「……兄さんか」

「うん」

「千夜もだろ」

「私は聞いてるだけ」

「それが助かる」

 巴は、また前を見る。


 けれど、さっきより少しだけ、目の潤みは落ち着いていた。

 涙は落ちなかった。

 泣かなかった。


 それでも、千夜は思う。

 今日見た巴の顔は、たぶん忘れられない。

 真田巴は強い。

 強いからこそ。

 弱っている時に、周りが気づきにくい。

 だから、見ていなければならない。


 何も言わなくても。

 動かさなくても。

 見ていることだけは、やめてはいけない。

 千夜はそう思った。


 窓の外では、夕暮れがゆっくり濃くなっていた。


 部屋の中には、まだ答えはない。

 けれど、原因を探す人間が一人増えた。

 それだけが、この日の小さな変化だった。

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