副部長の胃が限界です
放課後、陸上部の練習前。
佐藤忠一は、グラウンド脇で出欠表を確認していた。
「……」
手元には出欠表。
隣には練習メニュー。
胸ポケットにはペン。
鞄の中には胃薬。
最近、最後の一つが一番重要になりつつあった。
「佐藤先輩」
一年生の女子部員が、おずおずと声をかけてきた。
「どうした」
「その……今日、真田先輩って来ますか?」
「来る予定だ」
「……そうですか」
明らかに表情が曇った。
佐藤は嫌な予感がした。
「何かあったか」
「いえ、何かあったというか」
女子部員は少し迷ってから、声を落とした。
「最近、真田先輩、ちょっと怖いです」
「……」
知っている。
ものすごく知っている。
だが、副部長として、そこで深くうなずくわけにもいかない。
「真田は真面目だからな」
「真面目なのは分かってます」
「うん」
「でも、スタート練習の時とか、空気が……」
「空気が?」
「斬られそうです」
「ここは陸上部だ!」
「私もそう思います」
佐藤は目頭を押さえた。
すると、別の部員も近づいてきた。
「佐藤」
引退した三年生の先輩だった。
「朝比奈と真田、なんか揉めてるのか?」
「……揉めてはいない、と思います」
「思います?」
「断言する材料がない」
「副部長なのに?」
「副部長だからこそ、断言できないこともある」
三年生は少し困った顔をした。
「練習中の雰囲気、ちょっと悪いぞ」
「分かっています」
「朝比奈は?」
「たぶん分かってません」
「部長なのに?」
「部長だからこそ、分かっていないこともある」
「それはどういう理屈だ」
「俺にも分かりません」
佐藤は正直に答えた。
正直に答えた結果、胃が痛くなった。
そこへ、朝比奈恒一がやってきた。
「佐藤」
「朝比奈」
「今日のメニュー確認していいか」
「ああ」
佐藤は書類を渡す。
恒一は真面目な顔で目を通した。
「女子側のスタート確認は真田に頼む」
「……本当に?」
「何か問題があるか」
ある。
山ほどある。
だが、どれから説明すればいいのか分からない。
「朝比奈」
「なんだ」
「最近の真田さん、少し苛立ってると思わないか」
「真田が?」
「ああ」
恒一はグラウンドの向こうを見る。
ちょうど巴がやってくるところだった。
背筋は伸びている。
歩き方はいつも通りまっすぐ。
ただ、目が鋭い。
かなり鋭い。
佐藤の胃が、静かに警鐘を鳴らした。
「いつも通りじゃないか」
「どこがだ」
「姿勢がいい」
「そこじゃない」
「歩幅も安定している」
「そういう話でもない」
「体調は悪くなさそうだ」
「心の話をしている」
「心?」
恒一は少し考えた。
そして言った。
「真田は強いから大丈夫だろう」
「それで済むなら、俺の胃はこんなことになってない」
「胃?」
「気にするな」
「気にするだろ」
「なら気づけ」
「何に」
「そこだよ」
佐藤は思わず声を低くした。
恒一は本気で分かっていない顔をしていた。
その顔を見るだけで、佐藤の胃はさらに一段階悪化した。
「朝比奈」
「なんだ」
「真田さんと、ちゃんと話してるか」
「必要なことは話している」
「必要じゃないことも話せ」
「なぜ」
「人間関係だからだ」
「部長と副部長だぞ」
「だからだよ」
恒一は首をかしげた。
佐藤は天を仰いだ。
「お前、本当に……」
「何だ?」
「いや、いい」
言っても届かない。
少なくとも、今の朝比奈には届かない。
その時、巴が近づいてきた。
「佐藤」
「はい」
佐藤は反射的に背筋を伸ばした。
「女子側のメニューは」
「こちらです」
書類を渡す。
巴は目を通す。
「……」
そして、ちらりと恒一を見る。
恒一も見る。
だが、すぐに目を逸らす。
距離も半歩取る。
佐藤は見た。
見てしまった。
巴の眉が、ほんのわずかに動いたのを。
たぶん普通の部員なら気づかない。
だが最近の佐藤は違う。
副部長として、危険察知能力だけが異常に伸びている。
「朝比奈」
巴が低く呼ぶ。
「なんだ、真田」
「その距離は何だ」
「適切な距離だ」
「またそれか」
「必要なことだ」
「誰にとって」
「……」
恒一は黙った。
言えない、約束しているから。
佐藤は知っているわけではない。
だが、最近この沈黙が出るたび、ろくなことにならないことだけは理解していた。
「言えないのか」
「言えない」
「そうか」
巴の声が冷えた。
周囲の部員たちが、さりげなく距離を取った。
露骨ではない。
しかし確実に半歩ずつ下がっている。
佐藤は思った。
逃げるな。
いや、逃げたい気持ちは分かる。
俺も逃げたい。
「真田さん」
佐藤は割って入った。
「女子側、先にアップお願いします。短距離組はスタート練習前に一度流しを入れたいので」
「……分かった」
巴は短く返し、女子部員の方へ向かった。
空気が少しだけ戻る。
佐藤は、深く息を吐いた。
恒一が不思議そうに見る。
「佐藤」
「なんだ」
「今、助かった」
「誰が」
「練習の流れが」
「そこじゃない」
「違うのか?」
「違う」
佐藤は胃のあたりを押さえた。
「朝比奈、お前は本当にすごい」
「そうか?」
「褒めてない」
「そうか」
「そうだ」
練習が始まった。
巴の指導は的確だった。
短く、鋭く、無駄がない。
「腕が遅い」
「はい!」
「三歩目で浮いてる」
「はい!」
「力むな。地面を叩くな」
「はい!」
指導としては正しい。
正しいのだが、いつもより少しだけ圧が強い。
女子部員たちは普段より返事が大きい。
緊張している証拠だった。
「佐藤副部長」
一年生がそっと近づいてくる。
「真田先輩、怒ってます?」
「怒ってはいない」
「本当ですか」
「怒ってはいない。苛立っているだけだ」
「それ、違いますか?」
「違うと思いたい」
佐藤は言ってから、自分でも苦しくなった。
別の二年生部員も寄ってくる。
「佐藤、朝比奈に言った方がいいんじゃないか?」
「言ってる」
「言ってこれ?」
「そうだ」
「じゃあ無理じゃん」
「言うな」
「ごめん」
佐藤はまた胃を押さえた。
その先では、恒一が一年生のフォームを見ていた。
真面目に。
丁寧に。
とても良い部長として。
「白石、今の一本は良かった」
「ありがとうございます」
「ただ、最後に少し肩が上がった」
「はい」
「焦らなくていい」
「はい」
その光景を、巴が遠くから見ている。
見ている。
かなり見ている。
佐藤は気づいた。
ファンクラブも気づいていた。
部員も何人か気づいていた。
気づいていないのは、たぶん恒一だけだった。
「……なんでだ」
佐藤は小さく呟いた。
「なんで本人だけ気づかないんだ」
隣の一年生が言った。
「部長だからですか?」
「部長にそんな効果はない」
「でも朝比奈部長ですよ」
「……」
反論できなかった。
練習の合間。
巴がいない時間だけ、佐藤は少し安堵した。
たとえば、巴が水を取りに行った時。
たとえば、女子部員と少し離れた場所でフォーム確認している時。
たとえば、別メニューでグラウンドの反対側へ行った時。
その短い時間だけ、空気が軽くなる。
佐藤の胃も、ほんの少しだけ楽になる。
「……平和だ」
思わず呟く。
「佐藤」
恒一が声をかける。
「なんだ」
「今、真田がいないから楽なのか」
佐藤は固まった。
言ってはいけないことを、本人に近い場所で言われた気がした。
「朝比奈」
「なんだ」
「そういうところだけ変に鋭いの、やめろ」
「鋭いのか」
「鋭い。でも使いどころが悪い」
「そうか」
「そうだ」
その直後。
巴が戻ってきた。
佐藤の胃が、また重くなる。
「……佐藤」
巴が呼ぶ。
「はい」
「何を話していた」
「練習の流れです」
即答した。
ほぼ反射だった。
巴は少しだけ目を細める。
「そうか」
「はい」
佐藤は悟った。
今、自分は嘘が少し上手くなった。
人としていいことかは分からない。
だが副部長としては、必要な成長だった。
練習後。
部員たちが片付けを始める。
佐藤は出欠表と記録用紙をまとめていた。
そこへ女子部員が数人、そっと寄ってきた。
「あの、佐藤先輩」
「どうした」
「真田先輩、何かあったんですか」
「……」
「今日だけじゃなくて、最近ちょっと」
「怖いというか」
「機嫌が悪いというか」
「朝比奈部長と何かあったんですか?」
佐藤は目を閉じた。
ついに来た。
苦情というより、相談。
だが内容は完全に苦情だった。
「心配してくれてありがとう」
まず、無難に言う。
「ただ、俺から言えることは少ない」
「やっぱり何かあるんですか」
「あるかもしれないし、ないかもしれない」
「どっちですか」
「俺が知りたい」
女子部員たちは困った顔をした。
佐藤も困っていた。
そこへ恒一が来る。
「どうした」
全員が一瞬、黙った。
佐藤は思った。
来るな。
いや、部長だから来ていい。
でも今は来るな。
「朝比奈部長」
女子部員の一人が言いかける。
佐藤が、軽く手で制した。
「練習メニューの相談だ」
「ああ、そうか」
恒一は納得した。
納得してしまった。
女子部員たちが、微妙な顔になる。
佐藤はその顔を見て、さらに胃が痛くなった。
「朝比奈」
「なんだ」
「今日はもう片付けよう」
「分かった」
恒一は素直にうなずく。
素直。
真面目。
努力家。
部長として悪くない。
むしろ、かなり良い。
ただ、肝心なところだけが絶望的に鈍い。
佐藤は記録用紙を鞄にしまった。
その指先が、少し震えていた。
「佐藤、大丈夫か」
恒一が言う。
「顔色が悪い」
「気のせいだ」
「無理はするな」
「お前にだけは言われたくない」
「なぜ」
「なぜだろうな」
佐藤は乾いた笑みを浮かべた。
遠くで、巴がタオルを肩にかけて歩いている。
その表情は、まだ少し固い。
恒一はそれを見ても、何も気づいていない。
佐藤は、ついに鞄から胃薬を取り出した。
「飲むのか」
恒一が聞く。
「ああ」
「胃が悪いのか」
「最近な」
「大変だな」
「誰のせいだと思ってる」
「食生活か?」
「……」
佐藤は薬を飲んだ。
水で流し込む。
そして、静かに空を見上げる。
秋の空は高かった。
非常に高かった。
逃げ場がないくらい、高かった。
「副部長って」
一年生が片付けながら言った。
「大変なんですね」
佐藤は力なく笑う。
「違う」
「違うんですか?」
「普通の副部長は、ここまで大変じゃない」
たぶん、そう信じたい。
少なくとも、胃薬を常備する役職ではないはずだ。
佐藤忠一は、その日、はっきり理解した。
自分は陸上部の副部長になった。
だが今やっているのは、部活運営だけではない。
朝比奈恒一の鈍さと。
真田巴の苛立ちと。
白石ひよりの戸惑いと。
部員たちの不安と。
その全部を、なぜか間で受け止める仕事だった。
「……佐々木先輩」
佐藤は小さく呟いた。
「支えるって、こういう意味でしたか?」
答えはない。
ただ、胃だけが答えていた。
限界は近い、と。




