巴様、少し怖いです
放課後、グラウンド。
陸上部の練習が始まる少し前から、フェンス際には何人かの生徒が集まっていた。
いつものことだった。真田巴が走る日は、なぜか見物人が増える。
公式には、ただの通りすがり。
しかし、その中には明らかに通りすがりではない者たちがいる。
真田巴ファンクラブ。
その会員たちである。
「今日も巴様いる」
「いるね」
「今日のポニーテール、少し高めじゃない?」
「高め。たぶん気合い入ってる」
「いや、違う」
一人が、真剣な顔で言った。
「今日の巴様、機嫌悪い」
その言葉に、周囲の会員たちが静かに頷いた。巴はグラウンドの端でストレッチをしていた。
背筋はいつも通り伸びている。
動きも無駄がない。
立っているだけで、周囲の空気が少し締まる。
いつもの巴様だった。
ただ。
「目が怖い」
「いつも強いけど、今日は鋭い」
「あと、タオル取る動きが荒い」
「分かる」
「水筒置く音も少し強かった」
「それはよく見すぎ」
「ファンクラブだから」
会員たちは真剣だった。
かなり真剣だった。
そして、だいたい当たっていた。
巴は苛立っていた。
理由は、自分でもよく分かっていない。
朝比奈恒一が白石ひよりとは普通に話すこと。
自分には距離を取ること。
白石ひよりが悪い子ではなかったこと。
それどころか、真面目で控えめで、朝比奈をちゃんと見ていたこと。
全部が混ざって、胸の奥で変な熱になっている。
「真田さん」
女子部員が声をかけた。
「次、スタート練習でいいですか?」
「ああ」
返事は短い。
いつも短いが、今日はさらに短い。
女子部員が、少しだけ姿勢を正した。
「……真田さん、今日ちょっと怖くない?」
「分かる」
「なんか、近づくと斬られそう」
「陸上部だよね、ここ」
部員たちも気づいていた。
巴の走りは変わらない。
むしろ、いつもより鋭い。
スタートラインに立つ。
低く構える。
空気が止まる。
次の瞬間。
巴が地面を蹴った。
速い。
ただ速いだけではない。
踏み込みが強く、腕の振りが鋭い。
まるで、何かを振り払うような走りだった。
「……速っ」
「今日、いつもより速くない?」
「速いけど、怖い」
「分かる。美しいけど怖い」
フェンス際の会員たちも、息を呑んでいた。
「今日の巴様、戦場にいる」
「グラウンドだよ」
「でも戦場」
「分かる」
ゴールした巴は、息を吐いて振り返る。
その視線が、一瞬だけグラウンドの反対側へ向いた。
そこには、朝比奈恒一がいた。
一年生にフォームの説明をしている。
その近くに、白石ひよりもいた。
巴の眉が、ほんの少しだけ動いた。
ほんの少し。
普通なら気づかない。
だが。
「今、見た」
「見たね」
「朝比奈見た?」
「たぶん」
「いや、白石さんの方も見てた」
「どっち?」
「どっちも」
ファンクラブ会員は気づいた。
部員も気づいた。
佐藤も気づいた。
そして佐藤は、静かに胃のあたりを押さえた。
「……またか」
小さく呟く。
近くにいた一年生が聞いた。
「佐藤先輩、大丈夫ですか?」
「大丈夫だ」
「顔色悪いです」
「副部長だからな」
「副部長って大変なんですね」
「最近、特にな」
佐藤は遠くを見る。
真田さんの機嫌が悪い。
朝比奈は気づいていない。
白石は気づいている。
ファンクラブも気づいている。
なぜ本人だけが気づかないのか。
そこまでは、佐藤にも分からなかった。
巴は次の一本へ向かう。
「もう一本」
「はい!」
女子部員たちの返事が、いつもより揃った。
揃いすぎていた。
緊張している。
巴はそれに気づき、少しだけ息を吐く。
「……悪い。強く言った」
「い、いえ!」
「続けるぞ」
「はい!」
その様子を見て、フェンス際の会員たちがざわつく。
「謝った」
「巴様、今謝った」
「つまり自覚はある」
「でも機嫌は直ってない」
「深刻だ」
「深刻だね」
西園寺が腕を組んでいた。
真田巴ファンクラブ会長。
彼は真剣な顔で巴を見ていた。
「今日の巴様は、明らかに通常状態ではない?」
周囲の会員が頷く。
「原因は?」
「分からない」
「朝比奈?」
「可能性は高い」
「また朝比奈?」
「また、というほど知らないけど、たぶん朝比奈」
西園寺は眼鏡を押し上げた。
「だが、巴様は自分で整える人だ。騒がず見守る」
「会長……」
「ただし」
西園寺はグラウンドを見る。
「朝比奈が巴様を困らせているなら、少しだけ怒る」
「少しだけ?」
「ファンクラブとして節度は守る」
「会長……」
その横で別の会員が小さく言った。
「でも、今日の巴様、綺麗だよね」
「分かる」
「苛立ってるのに、走りが崩れない」
「むしろ鋭い」
「だから余計に怖い」
「そこもいい」
「分かる」
会員たちは異常に気づいていた。
気づいたうえで、やっぱり見惚れていた。
それがファンクラブだった。
練習の終わり際。
巴はタオルで汗を拭きながら、少し離れた場所に立っていた。
そこへ佐藤が近づく。
「真田さん」
「なんだ」
「今日、少し苛立ってます?」
「……そう見えるか」
「かなり」
巴は黙った。
否定しない。
佐藤はそれだけで、胃が一段階重くなった。
「朝比奈に、何か言いますか?」
「言って分かると思うか」
「……」
佐藤は答えられなかった。
巴は短く息を吐く。
「あいつは、たぶん何も分かっていない」
「それは、まあ」
「白石も分かっていない」
「白石は、少しは気づいてると思います」
「そうか」
「はい」
巴はグラウンドを見る。
恒一はまだ一年生と話している。
真面目な顔で。
何も気づいていない顔で。
巴はタオルを握る手に、少しだけ力を込めた。
「……面白くないな」
小さな声だった。
佐藤は聞こえなかったことにした。
聞こえたけれど、聞こえなかったことにした。
フェンス際では、西園寺が静かに頷いていた。
「記録しておこう」
「何をですか、会長」
「本日の巴様は、通常より三割ほど苛立ち、二割ほど鋭く、五割ほど美しい」
「最後だけ増えてます」
「事実だ」
会員たちは真面目に頷いた。
巴の人気は、今日も凄まじかった。
けれど、その凄まじい人気の中で、誰もが少しずつ気づいていた。
今日の巴様は、いつもと違う。
速い。
強い。
美しい。
でも、どこか苦しそうだった。
そして、その異常に朝比奈恒一だけが、まだ気づいていなかった。




