相談しても分からなかった話
週末、真田家。
巴は、自室の床に座っていた。
目の前には、前田千夜がいる。
いつも通り、静かな顔。
表情はあまり動かない。
けれど、ちゃんと話を聞く姿勢だけはある。
「それで」
千夜が言った。
「朝比奈がまたおかしい、と」
「ああ」
巴は腕を組んだ。
少しだけ眉間にしわが寄っている。
「おかしい」
「具体的には?」
「距離を取る」
「前もそうだったよね」
「そうだ」
巴は少し強めにうなずいた。
「前もおかしかった。でも、今回はもっとおかしい」
「どう違うの」
「逃げてる感じではない」
千夜は少しだけ目を細める。
「ふうん」
「むしろ、真面目に距離を取っている」
「それは面倒だね」
「面倒だ」
巴は即答した。
少しだけ不満そうに、膝の上で拳を握る。
「部長と副部長になったんだぞ」
「うん」
「普通、話す機会は増えるだろ」
「増えるね」
「なのに、あいつは一歩下がる」
「物理的に?」
「物理的に」
千夜は少し黙った。
「……面白いね」
「面白くない」
「ごめん」
千夜は謝った。
でも、少しだけ口元が動いていた。
巴はそれに気づいたが、追及しなかった。
今は、それどころではない。
「最初は、腹が立った」
「うん」
「副部長、とか呼ぶし」
「真田副部長?」
「そう」
巴は顔をしかめる。
「変だろ?」
「変だね」
「佐藤にも聞いた」
「なんて?」
「朝比奈はだいたい変だから、今回がどの程度の変なのか分からない、と言っていた」
「佐藤、苦労してそう」
「してると思う」
巴は少しだけ目を逸らした。
佐藤は悪くない。
たぶん、ものすごく悪くない。
ただ、間に挟まれている。
それは分かる。
分かるが。
「でも、私だって困ってる」
「うん」
「前より、遠い」
言ってから、巴は少しだけ口を閉じた。
今の言葉は、自分で思っていたより素直だった。
千夜は何も言わない。
ただ、待っている。
巴は小さく息を吐いた。
「部長になったら、少しは話しやすくなると思った」
「うん」
「会議もあるし、練習も見るし、女子側のこともあるし」
「うん」
「なのに、話すのは必要なことだけ」
「必要なことだけ」
「そうだ」
巴は少しだけ声を低くした。
「しかも、こっちを見ない時がある」
「目を?」
「ああ」
「それは嫌だね」
「嫌だ」
即答だった。
それから、巴は少しだけ黙る。
「……いや、嫌というか」
「うん」
「腹が立つ」
「うん」
「でも、腹が立つだけじゃない」
千夜は静かに頷いた。
「分からないのが嫌なんだ」
巴は、自分の言葉を探すように続けた。
「朝比奈は、何か考えてる」
「うん」
「たぶん、悪気はない」
「それはそうだと思う」
「でも、言わない」
「うん」
「だから、何を考えて距離を取っているのか分からない」
そこで、巴はもう一度腕を組んだ。
不満そうに。
少しだけ寂しそうに。
「……あいつ、何なんだ」
千夜は少し考える。
「私、朝比奈とはまだちゃんと話したことないんだよね」
「ああ」
「見たことはあるけど」
「どう見えた」
「ちゃんとしてるけど、ズレてる」
「……それは分かる」
「悪い人ではなさそう。でも、自分の中で筋が通ると、周りの感情を置いていきそう」
巴は少しだけ目を見開いた。
「……それだ」
「それ?」
「たぶん、それだ」
巴は少し前の恒一を思い出す。
真面目な顔で距離を取る恒一。
適切な距離、とか言う恒一。
必要なことだ、と言う恒一。
勝手に決める恒一。
「自分では正しいと思っている顔だった」
「じゃあ、誰かに何か言われた可能性もあるね」
「誰か?」
「たとえば、部活関係」
「佐藤?」
「佐藤なら、たぶん逆に止める」
「それはそうだな」
巴は即答した。
佐藤は最近、明らかに疲れている。
恒一の味方というより、陸上部の平和の味方だ。
「じゃあ、家族?」
「朝比奈の?」
「それか、あなたの」
「……うちの?」
巴の眉がぴくりと動いた。
千夜は淡々と言う。
「あなたの家、朝比奈と関わりあるんでしょ」
「ある」
「道場にも来てるんだよね」
「ああ」
「なら、誰かが何か言った可能性はある」
巴は黙った。
父。
兄。
祖父。
思い当たる顔が、三つ浮かぶ。
全員、やりそうだった。
ものすごく、やりそうだった。
「……」
「心当たりありそう?」
「ありすぎる」
「じゃあ、聞いてみたら」
「誰に」
「家の人に」
「たぶん、しらばっくれる」
「だろうね」
千夜は、あっさり言った。
巴は少しだけ肩を落とした。
「千夜」
「なに」
「どうすればいいと思う?」
千夜はすぐには答えなかった。
窓の外を少し見てから、静かに言う。
「私は、どうしろとは言わない」
「知ってる」
「でも、朝比奈本人に聞かないと分からないとは思う」
「聞いた」
「なんて?」
「言えない、と言われた」
「……」
千夜が少しだけ目を伏せた。
「それは、誰かと約束してるね」
「やっぱりか」
「たぶん」
巴は畳の上を見る。
恒一は、約束を守るタイプだ。
たぶん、ものすごく守る。
たとえそのせいで、周りが変な顔をしていても、守る。
「面倒だな」
「面倒だね」
「真面目すぎる」
「うん」
「腹が立つ」
「うん」
「……でも」
巴は、少しだけ声を落とした。
「そういうところが、嫌いではない」
千夜は、少しだけ目を上げた。
巴はすぐに顔を逸らす。
「今のは忘れろ」
「無理」
「忘れろ」
「聞いたから」
「千夜」
「何も言わない」
「言ってる」
千夜はほんの少しだけ笑った。
その時。
廊下の方から、軽い足音が聞こえた。
「お姉ちゃーん」
明るい声。
巴が顔を上げる。
「来た」
千夜が言った。
襖が開く。
顔を出したのは、千夜によく似た少女だった。ただし、雰囲気はかなり違う。
千夜より明るく、表情がよく動く。
「ごめん、遅れた!」
「千瀬」
千夜が静かに呼ぶ。
妹の前田千瀬は、ぺこりと頭を下げた。
「巴姉、こんにちは!」
「こんにちは」
巴は少しだけ驚きながら返す。
巴姉。
初めてではないが、やはり少し慣れない。
「今日もかっこいいね!」
「……そうか?」
「うん!」
千瀬は即答した。
迷いがない。
その勢いに、巴は少しだけ毒気を抜かれる。
「何の話してたの?」
「朝比奈の話」
千夜が言う。
「お姉ちゃん、さらっと言うね」
「隠すことでもない」
「それはそうだけど」
千瀬は巴を見る。
「朝比奈って、あの朝比奈?」
「どの朝比奈だ」
「巴姉のまわりで、なんか変な動きをしてる人」
「……」
巴は黙った。
千夜が横で静かに言う。
「だいたい合ってる」
「合ってるのか」
巴は少しだけ頭を抱えた。
千瀬は明るく笑う。
「でも、悪い人じゃないんでしょ?」
「悪い人ではない」
「じゃあ、たぶん大丈夫だよ」
「軽いな」
「だって、巴姉がそんなに考えてるなら、大事な人なんだなって分かるし」
「……」
巴が止まった。
千夜も止まった。
千瀬だけが、にこにこしている。
「千瀬」
千夜が静かに言う。
「そういうのは、急に言わない」
「え、だめ?」
「刺さるから」
「そっか」
千瀬は素直にうなずいた。
巴は少しだけ視線を落とす。
「……大事、か」
小さく呟いた声は、誰にも拾われないくらいだった。
たぶん。
千夜には聞こえていた。
「じゃあ、帰ろうか」
千夜が立ち上がる。
「もう帰るのか」
「うん。長くいると、私が余計なことを言いそうだから」
「言えばいいのに」
「言わない」
千夜は鞄を持つ。
千瀬も元気よく立ち上がった。
「巴姉、またね!」
「ああ」
「朝比奈のこと、がんばって!」
「……何をだ」
「分かんない!」
「分からないのに言うな」
千瀬は笑った。
「でも、巴姉なら大丈夫!」
明るく手を振る。
千夜はその横で、軽く頭を下げた。
「また話そう」
「ああ」
「次は、もう少し分かる材料があるといいね」
「……そうだな」
前田姉妹は帰っていった。
廊下に、千瀬の明るい声が少しだけ残る。
巴はしばらく、その場に座っていた。
結局、考えても分からなかった。
朝比奈恒一がなぜ距離を取るのか。
誰に何を言われたのか。
なぜ、それを言えないのか。
何も分からない。
ただ、一つだけ。
分かってしまったことがある。
距離を取られると、腹が立つ。
そして、少しだけ、寂しい。
「……本当に、何なんだ」
巴は小さく呟いた。
答える者はいなかった。
ただ、千瀬の「巴姉」という明るい声だけが、妙に耳に残っていた。




