第11話 神様の警告と介入
■縁の間
白い空間だった。
上も下も分からない。
壁もない。
床もない。
ただ、白い。
現実感のない静けさの中で、白髪に白ひげの老人が、のんきそうにひげをくるくるといじっていた。
「うむ、来たか」
「……神様」
恋愛の神様。
俺の人生を盛大にややこしくした元凶である。いや、助けてくれた存在でもある、たぶん。ただ、今のところ、ややこしさの方が強い。
「財布ごと入れるとはのう」
神様は、少し呆れたように笑った。
「あれは賽銭というより、投げ込みじゃな」
「他に方法が分からなかったんだよ」
「だからといって、財布ごとはなかなかないぞ」
「会えたからいいだろ」
「よくはない」
神様は即答した。
「神社の者が困る」
「……それは、すみません」
「うむ。そこは反省せい」
俺は少しだけ頭を下げた。
まさか恋愛の神様に、賽銭の作法で怒られるとは思わなかった。でも、たしかに財布ごとは駄目だった気がする。
たぶん、かなり駄目だ。
「それにな」
「まだあるのか」
「ある」
神様は、ひげをくるくるといじりながら言った。
「わしに会いたいなら、あんなことをせんでもよい」
「え」
「強く願えば、それでよい。縁がすでに繋がっておれば、こちらへ来られる」
「……そうなのか?」
「そうじゃ」
「じゃあ財布、完全に無駄だったじゃないか」
「無駄ではない」
「そうなのか?」
「神社の者が困るという経験が得られた」
「それは得たくなかった」
神様は、ふぉっふぉっと笑った。
「逆に、こちらからお前さんの夢へ入ることもできる」
「神様側からも来られるのか」
「うむ。ただし、いつでも好き勝手に、というわけではないがのう」
「そこは神様でも制限あるんだな」
「神にも神の都合がある」
「急に現実的だな」
「神様じゃからな」
よく分からない理屈だった。
「それで?」
神様が、またひげをくるくるといじる。
「聞きたいことがあるのじゃろう」
「ああ」
俺は姿勢を正した。
ここへ来たかった理由は、それだった。
真田巴。
俺が好きになった人。
そして、神様から言われた相手。
そのことを、ずっと考えていた。
「その前に、一つ聞いていいか?」
「なんじゃ」
「最初に会った時、神様、言ってただろ?」
「何をじゃ」
「やっぱりおった、って」
神様の指が、ぴたりと止まった。
「あれ、どういう意味だったんだ?」
「……よく覚えておるのう」
「忘れるわけないだろ。俺の人生がひっくり返った瞬間だぞ」
「それはまあ、すまん」
「軽い」
俺がじっと見ると、神様は少しだけ目をそらした。
「台帳にはな」
「うん」
「光っておる名と、黒く沈んでおる名がある」
「黒く沈んでる名前?」
「今、この世で縁が動いておらん名じゃ」
「死んでるってことか?」
「それだけではない」
神様は首を横に振った。
「名前そのものは、死んだからといって消えるものではない。魂が巡れば、また生まれてくることもあるからのう」
「じゃあ、黒い名前っていうのは」
「すでに死んでおるか、まだ生まれておらんか。あるいは、生きていても、まだ恋や婚姻の時期にないか。そういう名じゃ」
「時期が来たら光るのか」
「うむ」
神様は頷いた。
「今この世に生まれておって、縁が動く時期になれば、名は光る」
「……じゃあ、巴の名は?」
「光っておった」
神様は静かに言った。
「お前さんの台帳は、養和の時代にずれておった。あの時代の名など、今の世ではほとんど黒く沈んでおるはずじゃ」
「でも、一人だけいた」
「そうじゃ」
神様は、少しだけ目を細めた。
「養和の頃は、いろいろあった時代じゃ。戦も多い。人の死も多い。恨みも、未練も、罪も、心残りも残りやすい」
「……」
「普通なら、そういう魂も、転生を繰り返すうちに少しずつ浄化されていく。じゃが、何かしらのしがらみを残したまま、今の世まで巡ってくる魂も、まれにある」
「それが、一人くらいいるかもしれないと思ったのか」
「うむ」
神様は頷いた。
「現代には、まずほとんどおらん。じゃが、あの時代なら、そういう魂が一つくらい残っておってもおかしくない。そう思って、調べた」
「それで」
「おった」
神様は短く言った。
「だから、やっぱりおった、と言ったのじゃ」
「……なるほど」
納得した。
納得したけれど、同時に少しだけ怖くもなった。黒く沈んだ名前の中に、一つだけ光っていた名前。
それが、今の俺に残された縁。
たぶん、たった一つの可能性。
「巴とのことなんだけど」
「うむ」
「誰かに話したら、どうなる?」
神様の指が、もう一度ぴたりと止まった。
縁の間の空気が、少しだけ変わる。
「……ほう」
神様の目が、わずかに細くなった。
「そこに気づいたか」
「いや、普通に考えておかしいだろ」
俺は言った。
「俺が将来誰と結ばれるか知ってるなんて、普通じゃない」
「うむ」
神様はあっさり頷いた。
「普通ではない」
「やっぱりか」
「本来ならな」
神様はゆっくりとひげを撫でる。
「人が、自分の縁の行き着く先を事前に知ることはない」
「……」
「誰と結ばれるか。誰と離れるか。どこで間違い、どこで選ぶか」
神様の声は、さっきまでより少し低い。
「それは本来、歩いたあとに定まるものじゃ」
「つまり」
俺は小さく息を吐いた。
「俺は、完全に例外ってことか」
「うむ」
神様は軽く言った。
「かなりの例外じゃな」
「軽いな」
「重く言ったところで、例外なのは変わらん」
「原因、あんただろ」
「うむ」
神様は即答した。
「すまん」
「謝罪が軽すぎる」
「では、重く謝ろうか?」
「いや、いい」
変に重く謝られても、それはそれで困る。
俺は話を戻した。
「で、その情報を誰かに話したら?」
神様は、少しだけ考えた。
さっきまでの冗談っぽさが薄れていく。
「確実にどうなる、とまでは言えん」
「……」
「じゃが、何かしらの強制力が働く可能性は高い」
「強制力?」
「帳尻合わせじゃ」
神様は淡々と言った。
「本来知るはずのないものを知った。その情報を広げれば、世界はそれを戻そうとする」
「戻すって、どうやって」
「色々じゃ」
神様は指を一本立てる。
「まず、信じてもらえん」
「……」
「信じてもらえたとしても、関係が歪む」
「……」
「相手が不自然に遠ざかることもある」
「……」
「あるいは」
そこで、神様は一度言葉を切った。
縁の間が、さらに静かになる。
「その話自体が、なかったことになる」
「なかったこと?」
「記憶が飛ぶ。状況が変わる。聞いた者が別の解釈をする。関係そのものが崩れる」
「……」
「最悪の場合は、命に関わることもある」
背筋が冷えた。
白い空間なのに、急に寒く感じた。
「……なんだよ、それ」
「言ったじゃろう。帳尻合わせじゃ」
「そんな簡単に言うなよ」
「簡単ではない。だから忠告しておる」
神様の顔は真面目だった。
いつもの、ひげをいじっているだけの老人ではない。
本当に、警告している顔だった。
「世界は意外と几帳面でな」
神様は静かに言う。
「あるべきでない歪みを、放っておかん」
「……」
「お前さんが知ってしまったことは、もう仕方ない。わしが触れてしまったことも事実じゃ」
「そこは本当に反省してほしい」
「しておる」
「本当に?」
「そこそこ」
「軽いな」
「じゃが、ここからは軽くない」
神様は、俺をまっすぐ見た。
「巴にその話を基本してはいかん」
「……」
「友にも、親にも、誰にもじゃ」
「……分かった」
「これはお前さんのためでもあり」
神様は少し間を置く。
「一応、巴のためでもある」
その一言は、重かった。
俺は、ゆっくり頷いた。
「話さない」
「うむ」
「絶対に」
「よろしい」
神様は満足そうに頷いた。
ただ、俺の中にはまだ重さが残っていた。
誰にも言えない。
なぜ真田にこだわるのか。
なぜ真田だけなのか。
その一番根っこの部分は、誰にも話せない。それは、思っていたより苦しかった。
「それと、もう一つ」
「まだあるのか」
「ある」
神様はまた、ひげをくるくるといじり始めた。
少しだけ空気が戻る。
けれど、言葉は軽くなかった。
「今生、お前さんには巴しかおらん」
心臓が、わずかに鳴った。
「それは……」
「お前さんにとっての縁は、そこへ向かっておる」
「……」
「じゃがな」
神様は、少しだけ目を細める。
「巴は、そうではない」
言葉が止まった。
「巴には、選択肢がいくらでもある」
「……」
「お前さんを選ぶとは限らん」
分かっていた。
分かっていたはずだった。
でも、神様の口から言われると、重さが違った。
「人気のある女性というのは、そういうことじゃ」
あのグラウンドを思い出す。
真田巴を見る視線。
名前を呼ぶ声。
遠くから憧れる人たち。
“巴様”という呼び方。
彼女の周りには、たくさんの人がいる。
俺だけではない。
俺だけの話ではない。
「つまり」
俺は小さく言う。
「俺が頑張らなかったら、普通に終わるってことか」
「うむ」
神様は頷く。
「縁があっても、掴まねば流れる」
「……」
「選ばれる努力は必要じゃ」
その言葉は、胸に残った。
選ばれる努力。
名前を覚えてもらっただけでは足りない。
手紙を受け取ってもらっただけでも足りない。まだ、何も始まったばかりだ。
「しかしまあ」
急に、神様の声が軽くなった。
「進みが遅いのう」
「うるさいな」
「名前を覚えてもらっただけ、か」
「第一歩だからな?」
「たった一歩じゃ」
「その一歩が大事なんだよ」
「うむ。それはそうじゃ」
神様はくつくつと笑った。
「まあ、お前さんらしいと言えば、お前さんらしい」
「褒めてるのか?」
「半分」
「なんでみんな半分なんだよ」
「残り半分は心配じゃ」
神様にまで心配された。
さすがに少し複雑だった。
「じゃが、その様子では」
神様はひげを撫でながら、こちらを見る。
「少し手を貸してやらんと、進まんかもしれんな」
「え」
俺は顔を上げた。
「手を貸すって?」
「そのままの意味じゃ」
「本当に?」
「うむ」
「マジで?」
「神に向かってその言葉遣いはどうなんじゃ」
「すみません」
でも、正直ありがたかった。
かなりありがたい。
「ただし」
神様は指を一本立てる。
「ほんの少しじゃ」
「十分です」
即答した。
神様は満足そうに頷く。
「機会は与える」
「……機会」
「そうじゃ」
「何をすればいい?」
「それはその時に分かる」
「分からないと困るんだけど」
「分からんまま動くことも、恋には多い」
「雑じゃないか?」
「恋愛とはだいたい雑じゃ」
「神様がそれ言うのか」
「神様だから言うのじゃ」
神様は楽しそうに笑った。
それから、少しだけ真面目な顔になる。
「機会は与える。じゃが、掴めるかどうかはお前さん次第じゃ」
「……はい」
「誰かのせいにするな」
「ああ」
「神のせいにもするな」
「あんたのせいの部分もあるだろ」
「それはそれ」
「都合いいな」
「神様じゃからな」
俺は少しだけ呆れた。
でも、口元が緩んでいるのが自分でも分かった。
怖い話をされた。
誰にも言ってはいけないと分かった。
巴には選択肢があると突きつけられた。
でも同時に、機会はある。
まだ終わっていない。
それも分かった。
「やるよ」
俺は言った。
「ならよい」
神様はにやっと笑う。
最後に、またひげをくるくるといじった。
「ではな」
縁の間が揺れる。
「機会は――近いぞ」
その言葉を残して。
神様の姿は、白の中へ溶けるように消えた。意識が薄れていく。
その直前。
神様が、小さく何かを呟いた気がした。
「……しかし、なぜこやつはここに来られるんじゃ」
その言葉の意味を考える前に。
俺の意識は、白の中に沈んだ。
■朝
目が覚めた。
天井。
自分の部屋。
朝の光。
「……怖いし、ありがたいし」
複雑すぎる。
布団の中で、しばらく動けなかった。
誰にも言えない。
言えば、何かが壊れるかもしれない。
記憶が飛ぶかもしれない。
関係が歪むかもしれない。
最悪、命に関わる。
そんな話を、軽く飲み込めるわけがない。
巴には、選択肢がある。
俺だけじゃない。
俺が何もしなければ、きっと何も残らない。だからこそ。
(やるしかないな)
俺はゆっくり起き上がった。
無茶はしない。
基樹と彩音にそう約束した。
でも、止まるわけではない。
ただ、進み方を考えるだけだ。
神様は言った。
機会は近い。
それが何なのかは分からない。
けれど、今度こそ、ちゃんと掴む。
そう思って、俺は布団から出た。
財布を丸ごと賽銭箱に入れたことだけは。
あとで本当に怒られる気がした。




